完璧な1日の終わりに。エンドロールで流れる全員の名前の先を想像した“PERFECT DAYS”という映像作品。
ただただ映画を観ながら感じたことを、映画館の暗闇でしたためたメモの記録を読み返します。沈黙は金。もっと噛み締めるものがあるのは筆舌に尽くし難い点で微笑ましく思います。
私が環世界を表現する為に使うフィルムカメラと多重露光写真と文章。それは確かに影であると気付かされ、全てのカットが最高の写真で構成されていることに唯々アートとして圧倒された映像作品であり、鑑賞後に完璧な1日を作ってしまう映画ははじめてでした。
(映画のネタバレになると思うのでまた観ていない方がいらっしゃれば、ネタバレ注意です。)
熟練された布団の畳み方。
完璧なルーティン。時計は持たない。
分かりやすくも奥ゆかしい描写。
スカイツリーとの距離で遠くへ移動したことが分かる。
「あなたの人生の意味」を読み返したくなる。
清掃員の話があった。
職業貴賎をしない人間がいるのだろうか。
オリンパスのフィルムカメラは、
父も使っていたと聞いたばかり。
話さずとも、美しい写真のような描写の連続。
感じ入るものがある。
外国人の人との言葉を交わさないやり取りで、涙した。
何か一つでも楽しみを見つけている日々。
モチーフとしてスカイツリーがあってくれて嬉しい。
スカイツリーを見る度今日の日と映画を、思い出すだろう。
言葉は交わさなくても毎日会う人との会釈が美しい。
野生の棕櫚を読もう。野生の思考かと思って混乱した。
本の描写と写真の連続が、身近な将来を感じさせる。
毎朝、箒の音で起きる。
人知れず人と人が繋がっている、
切り離せないことを示唆するのだろうか。
環世界的なサードプレイスを求めたくなる。
影。影。影。
下北沢のテープ屋さん。
テープをアート界隈でよく見るようになった。
テープでかかる音楽を聴きたくなるのは誰もがそうなのか。
AIと夢分析のユングの話をしたばかりだ。
出勤が楽しみになるような美しい景色は日常に常にある。
人と関われば嫌なことは必ず起こる。
何か一つでも欠けてはいけない危うさ。
箒の音がなくなったら仕事に遅刻するのだろうか。
おばあさんは掃除を認知していても、そんな形で、
人の役に立っていることを認知することはない。
苛々している時の物音、動作、共通なことが不思議だ。
Perfect daysのように色んな職業に焦点を当てたい。
毎日同じ景色を撮ることは見習いたい。
マルバツゲームに感じる遊び心。
初めて、映像や映画を撮りたいと思えた。
これも写真と同じになるのか。
声はかけないけど挨拶をする関係性。
やはり記憶は多重露光的だ。影と影の重なりだ。
人を一面だけで切り取ってはいけない。
仕事を急に辞めた時やテープを売ろうとした時は嫌な人。
でらちゃんとのやり取りで急に良い人に見える。
人は色々な側面がある。ただ自分ですら気づいていない。
青い海と青い魚もみんな昔手にしたもの。
想像力のない奴は死ね、これも映画の台詞だった。
キス一つで舞い上がったりもする。
多重露光の影が美しい、全てのカットが美しい。
休みの日だけ時計をつける。
フジカラーの十字屋。
土日に本を探し植物を探しフィルムを現像する。
ルーティンが他人とは思えない。
新聞紙とそれを利活用する古くからの知恵に関心する。
フィルムが巻かれる音。
手動でフィルムを巻いていた頃を思い出す。
フィルムがオートで装填された時は感動した2023.
幸田文の「木」は読んだことがない。
映画が終わったら読んでみよう。
一つ一つに趣があって、常連がいい。
ポテトサラダとハイボール。
いぶりがっこのポテトサラダ美味しかったなぁ。
どこで食べたっけ。
影と静けさと誰もいない部屋に恐怖を覚える、
恐怖と不安は違うものだと教えてくれたのは誰だったか。
レンズを見ずに撮ることは偶にあるけれど。
AFでないからこそ偶然性を楽しみたい。
限界費用ゼロに近いスマホの撮影に対して。
1枚シャッターを切るのに100円はかかるフィルムカメラ。
貧しくてもフィルムカメラを選択するのは選択肢か。
それが豊かに見えるのは現代人のノスタルジックだろう。
浅草の焼きそば。
会釈だけのコミュニケーション。
雄弁は銀、沈黙は金と言ったのは誰だったか。
(カーライルの衣装哲学だ、これは図書館で読んだんだ、お金がなかった若い頃に、図書館の近くでよく食べていた400円もしないお弁当屋さんにまた行くことはあるだろうか。)
今、家出するならどこに行くだろうか。
昔、家出する先はなくて山に行ったことを思い出す。
そうか、だから山と渓流に安心感と畏怖を感じるのか。
住む世界が違う。やはり環世界的な話なのか。
カメラをテーマにすると環世界は切り離せないのか。
自分は沈黙していられる程成熟することがあるのだろうか。
Spotifyをお店と言って笑うけれど。
AIを人と言って笑える時代はいつくるのだろうか。
まるばつゲームのようにAIと遊び心で接する。
そんな人が極めて少ないのは何故だ。
自転車で並んで走るとか。
自転車同士で大きな声で話すとか、忘れていた。
タンポポを飛ばしあって大笑いしたあの日か。
この映画を観ている人たちもそんな日があったのかな。
今度は今度、今は今。
本が読めない日もある。
仕事を辞める時の罪悪感や誰かへの負担感を思い出す。
代わりはいても、それは。
彼は誰にも迷惑をかけていない。気になる描写だ。
彼は迷惑をかけないからPerfect daysなのか?
そんな簡単なことか?
忙しいと心が失われていく、これが起承転結の転になる。
心が失われていく時に人生が転じていくのは現実もそうだ。
モノ目線で人を観察するのは不思議で面白い。
やはりアンコンシャスバイアスと永遠に生きていく。
どんな時も実存する景色は綺麗。一貫している。
環世界的に、景色を綺麗に見れない時があっても、
美しさだけは変わらない。夜と霧と夕陽。
メモ用紙をめくったかどうかも忘れる。
映画の世界に入っているんだ。珍しいことだ、嬉しい。
自転車のストッパーとか、結婚指輪とか。
細かい描写の示唆がわかりやすい。
離別、再婚、結婚。どれも些細で重要で、他人事ではない。
何故自分だけが離婚しないと思えるのだろうか。
お礼を言うのでもない、謝りたいのでもない。
唯、会っておきたいのだ。
会えるうちに会っておきたい人を思い出す。
今死ぬとしたら、会えていないことを後悔する人がいる。
それは豊かな後悔であり、
取り返しのつかない日々を送っている裏返しでもある。
恋敵とは乾杯できないけれど、誤解が解けると乾杯できる。
乾杯とは敵ではないことを証明する行為か。
ただただ安心感を表したいのだろうか。
常に美しい、影は重なってまた消える。
結局何もわからないまま、人生は終わっていく。
影が濃くなる、何も変わらないなんて。
本を読んでいたら感じないし思ったこともないこと。
遊び心が人と人を繋ぐ。
影ふみをしたい。
鬼ごっこでしか味わえないあの感覚が懐かしい。
スカイツリーの色がちいかわコラボの色だと。
ちいかわを知らない人は誰も思わないだろう。
同様に、今のスカイツリーの色が何かのコラボでも。
私はそれを認知できない。
違う世界ではスカイツリーの色も違うように見える。
うさぎの色になったスカイツリーを見て喜ぶ人。
ちいかわは流行りもので嫌いだという人。
私がちいかわが始まる前から”うさぎ”を好きなこと。
動物のうさぎはちょっとだけ苦手なこと。
シャドウハーツと夏への扉とちいかわの“うさぎ”
全て説明できないしキリがない。そんなものが無数にある。
色々な世界と時間を共有したい。
全てが繋がっているわけでもなく。
断続的に色々なことが起きたり、
何も起きなかったりする。
わからないまま終わることの方が多い。
登場人物が誰だったのか、なんだったのか、
そんなことが綺麗にわかることの方がおかしい。
feel so good.
心からPerfectだけれど、
完璧というとアンコンシャスバイアスが。
表情の素晴らしさと、表情から察してしまう恐怖と、
不安と期待。
表情を生み出した神さまは素晴らしい。
一人でも映画が作れるほどテクノロジーは発展している。
AIという言葉になると遊び心を持てない人が多い気がする。
願わくば。11の物語を超えるテクノロジーをつくろう。
願わくば、
この映画を見て何か行動が変化する人がいてほしい。
願わくば、
この映画を見たからこそ私が残せる何かをつくりたい。
全てが美しく、人が人を描くにはこれが限界だと思った。
他人が他人を描けないように、自分も自分を描けない。
真実だと思うことも、誤解であり真実ではなく、
環世界であり、木の余生も自分の余生も想像したい。
環世界を通しての理解のしあえなさは絶望ではなく期待。
互いの世界を面白がりたい。
違う世界を遊び心で見に行きたい。
映画を見ていて初めて、エンドロールの名前を追い続けた。
一人一人に感謝しながらエンドロールを眺めていた。
でらちゃん、Aoi Yoshida
Photo director、RAKUKO KOBAYASHI
日本では、木漏れ日という。
わからないことはわからないままでいい。
でも分かろうとし続けたい、
わからないことを諦めたくはない。
イメージはイメージで、日本では、木漏れ日。
本という言語と、写真というイメージ、
抽象的なものはそのままで。
言語に落とすと何か欠けるものがある。
ただ、言語にしか表現できない何かもある。
Toilet Creator’s に佐藤可士和さんの名前があった。
イメージはイメージで、言語は言語で。
パロールとエクリチュールとイメージ。
優劣ではなく、そのどれもを尊重できるように。
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ここからは映画の後のメモ。
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ヤーコブの生命の劇場も読み返そう。
木々の隙間から生み出される木漏れ日と影。
映画を見た後に急に変わる東京の景色。
踊る影模様のように、
あらゆるものが変化するからこそ、カメラを撮る。
環世界を切り取るようでもあり、質量を残すこと。
トラディショナルとエクスペリメンタル、
クラシックとコンテポラリーの4象限を思い返す。
トラディショナルでクラシックなことに人は流れていく。
それは時間と共に強く働く力で、
仕事の仕方も、成功も、価値観も、
ずっとやってきたこと。(=トラディショナル)
それが正解だと思い込みたくて、思い込んでいる人もいる。
エクスペリメンタルでコンテンポラリーな日々を過ごす為、
敢えてフィルムカメラやチェキで質量化している。
これは環世界をどこかに残す行為だけではなく、
自分がトラディショナルでクラシックな時間を意識し、
トラディショナルに呑み込まれていないか確かめる行為だ。
コンテンポラリーに生きられないなら安らかには死ねない。
トラディショナルな成功やキャリアを手にして、
クラシックなものをありがたがって、私は死ねない。
エクスペリメンタルな日々を理解されずに死にたい。
彼のオリンパスが映し出す木漏れ日と、
私が撮影するカメラ、木彫りの仏像、現像液、
読書、仕事、恋愛、私の生活の木漏れ日、それは全て違う。
木漏れ日という言葉を知ったのは小学生の時に聴いたムックのアルバムが最初で、それが同じという世界の人と会うことも滅多にないだろう。
そんな点の一つすら違う世界で生きている。
トラディショナルな毎日を新しくする木漏れ日は、
これまでは読書でありアートでありテクノロジーだった。
そこにトラディショナルでクラシックだと思い込んで、
今まで避け続けていたカメラが入ってきて、
それは私にとって実験的でコンテンポラリーなものだ。
それは私の世界の話であり、人の世界はわからない。
大切なことを教えてくれた、
映画制作者の全ての方へ感謝を。
私は何を蒔き、何を刈り取って死んでいくのだろうか。
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