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「分かりにくい」ことは「分かりにくい」ままの文脈で受容したい

 鮮度を落としても何も良いことがない、という話。常日頃感じつつも、抽象⇄抽象や、抽象⇅抽象、で止揚したりできる人が周りに少しずつ増えてきたので書き残しておきます。

 ビジネスの中では「抽象化」と「具体化」の行き来が大切だとか、賢い人はわからない人にも分かりやすく(≒具体的に)伝えることができる、とか凡庸だけれども一般論として納得できる考えです。
 但し、対話が一定のレベルを超えてくるともはや「具体化」が困難な観念的な領域に達して「抽象」でしかやり取りができない状態になることに最近気づき始めました。敢えて例として具体化すると、専門用語や数式だけでコミュニケーションを取れるイメージです。(数式は変数を入れなければ具体ではないと思っている)

 抽象と抽象の対話とは、具体的な例や現象に縛られずに、理論や概念同士の純粋なやり取りを指します。このような対話は、思考の最深部に触れることができる一方で、一般の人々がアクセスするのは難しいという問題も確かにあるのかもしれません。

  例として、数学の中での純粋数学と応用数学の違いを考えることができます。純粋数学は、具体的な応用を考えずに数学的な概念や理論に焦点を当てます。その対話は高度で洗練されていますが、それを現実の問題に適用するにはブリッジが必要です。生命の進化や複雑性に関する理論も同様に、抽象的な概念間の対話として考えることができます。しかし、これらの理論は、具体的な実験や観察を通じて検証され、具体化されていきます。

 ビジネスに近い位置にいる経済学においても、市場の理論や均衡の概念は抽象的であるが、それらを実際の経済状況に適用する際には、多くの制約や前提条件が必要となります。しかし、現場での抽象と抽象の対話こそが、新しい理論やアイディアを生み出す原動力となっていることもあるでしょう。

 繰り返しになりますが、抽象と抽象の対話は、知識の深化や新たな視点の発見に寄与することができます。しかし、その深い議論を実際の現象や問題解決に役立てるためには、抽象と具体のバランスを適切に取る必要がありながらも、純粋な抽象間の対話は、新しいアイディアや理論の原型を生み出す瞬間があり、それは既に「具体」として例に出せるような凡庸なものからは生み出されないものなのです。具体化される時点で、それは抽象的表現とは言えず、元々具体として存在していたものと考えられます。

 アートの世界でも、抽象的な思考と具体的な表現との間には独特の関係が存在します。抽象的なアイディアや感情を、具体的な絵や彫刻、音楽として表現する際、アーティストは内的な感受を外部の世界に投影する技術や手法を探求します。それはあくまで具体を通しているようで、どこまでも抽象的な表現を追求している場合もあります。概念を人に示すためには、何かしら具体化する(≒実存する形にする)必要があるからです。それは今こうして記述している言葉でもそうで、よくエクリチュールとパロールのジレンマに陥りますが、私が文章にしている時点で、脳の中にある抽象概念の次元は幾つか落とさざるを得ないのです。

 唯、冒頭で述べた ”ビジネスの中では「抽象化」と「具体化」の行き来が大切だとか、賢い人はわからない人にも分かりやすく(≒具体的に)伝えることができる” といった凡庸な例からは逸れて、自分だけが分かる表現にすることも多々あります。SNSは(あくまで今現在において)最も出し入れしやすい、脳にとっての外部HDだからです。

 何にせよ、抽象的なものを具体化しようと思えばいつでも出来る、という前提に立ちながらも、抽象概念だけで対話ができるような相手と出会うと非常に面白い体験ができます。同時に、コミュニケーションコストを下げるという意味で具体化の次元を変えるという手段も有用です。誰でも分かるスポーツや映画に例えるケースはよくありますが、かなり情報の解像度が落ちます。以前何処かで例に出されていたのは「デジタルネイチャーは習近平的な話だね」という文章。これもこの具体化だけで理解できる人とは3秒で分かり合えるものも、誰もが知っている映画やスポーツの話で例えようとすると1分くらいかかったり、そもそも相手が知っている知識範囲を超えている場合は真には伝わらない問題が多々あります。

 抽象と具体の脳の行き来に慣れすぎると、イメージがイメージだけで伝わる、伝えられる、といった体験や習慣が薄れていきます。そうした時は、絵を描くこと、それも抽象画を描くことで少しリハビリができるでしょう。アートを鑑賞して敢えて言葉で理解しないようにすることも重要です。

 果たして、文章の限界を常日頃感じながらも、文章の抽象度を高めて脳内のイメージを表現するには多言語を使えるようになるか、もしくは小説といったパッケージにすると抽象度の上がる方法(ツァラトゥストラはこう言ったのような)にするしかないのか、と最近考えています。

 「イメージ、それでもなお」と「ビルケナウ」が繋がった時の感動を、人との対話で偶にでも見出すことができれば、これに叶う幸せは中々ないだろうと思うこの頃です。


独り言:
「分かりにくいことを分かりやすく伝える」という凡庸なことを言われるとSEO記事を思い出す。急にタイトルがアホっぽくなったり、軽い表現になる。この記事のタイトルも "抽象的な考え方とアート思考がもたらすビジネスの革新!具体的実践法とは?" みたいになりそう。反吐が出る。

 分かりにくいことは分かりにくいのです。

 そして自分が分かりにくい!分からない!という事象に直面した時こそが一番楽しい瞬間であり、モチベーションの源泉でもある。

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