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ミニドライブ(1959) ドライブゲームの始まり 宝塚からパチンコ、そしてエレメカへ 

ドライブゲームの始まり


自動車は人間の生活を一変させた。
産業革命期に行われた多くの発明の中でも、蒸気機関、発電機、鉄道などと並ぶ重要な発明といえるだろう。
車は憧れの的となり、そのスピードを手に入れた人たちは、レースで競うようになった。

では車を運転するゲーム、ドライブゲームはいつ頃始まったのか?
1932年、イギリスMyers社から発売されたRoad Test。※1
現存することが確認されているものでは、こちらが最古のゲームだ。

動画を見てもらうとわかるが、大きなシリンダーを回すことにより、背景が縦スクロールする。
これが初めて、アーケードゲームに縦スクロール(ベクション)を導入したゲームだろう。※2

またドイツでは1936年にFernlenker(リモコンの意)というゲームが作られた。
ミニチュアの車をハンドルコントローラで操作する。
アクセル、ブレーキこそついていないが、ハンドルの押し込み方によって、1速~3速、さらにリバースとギアを切り替えられ、スピードを変えることができるという当時としては凝った作りだ。

アメリカからは1941年、International Mutoscope Reel Company社のDrive Mobileがリリースされる。
イギリスMyersのRoad Testに似た、縦スクロール型のドライブゲームだ。
アメリカのドライブゲームはここから発展を始める。※3

1954年、ドライブゲームはさらなる進化を遂げる。
Capitol Projector社のAuto Test、このゲームは実写映像を映すプロジェクターを用いた最初のゲームであり、リアルな人の声を使用した最初のゲームでもある。※4
ハンドル、アクセル、ブレーキなどは本物を使って作られおり、交通法規に則って一般道をドライブするというゲーム内容までリアルなゲームだ。

まだビデオゲームになる前のドライブゲーム黎明期だが、早くもスタイルの違いが現れている。
その後に生まれたビデオゲームと比較してみると興味深い。

Road Test, Drive Mobile
上方視点、縦スクロール
→スピードレース(タイトー)、ロードファイター(コナミ)

Fernlenker
上方視点、俯瞰
→トラック10(アタリ)、R.C. Pro-Am(レア)

Auto Test
一人称視点
→ポールポジション(ナムコ)、マリオカート(任天堂)

日本のアミューズメント産業の始まりと宝塚


さて日本初のドライブゲームを紹介する前に、日本のアミューズメント産業がどのように誕生したか振り返ってみたい。

日本に初めて大掛かりな遊具が登場したのは、遊園地ではなく博覧会だった。
1890年、第三回内国勧業博覧会のローラーコースターだ。
現代のローラーコースターの原型は、セガ・ベルの回で言及したコニーアイランドのローラーコースターだと言われている。
1903年、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会にはウォーターシュート、回転木馬が設置された。※5
会場の跡地は「新世界」となり、後に通天閣、ルナパークが開業した。
ルナパークとは元々コニーアイランドに作られた遊園地の名前で、遊園地の代名詞的存在となっており、同じ名を持つ遊園地が世界中に作られている。

1911年には宝塚新温泉が開業する。
宝塚新温泉は、箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)の小林一三が、行楽客の増加を目指し開場した。

その宝塚新温泉に1913年、「外国から取り寄せた珍機械」が登場する。
「一錢入れて把手を曳けば運氣、縁談、其身の吉凶未來のことが占はれる、…」
ペニーアーケードの占いマシンである。※6

なおペニーアーケードが日本に輸入されるのは、これが初めてではない。
1896年神戸で、機械を覗くタイプの映画、エジソンが発明したキネトスコープが公開されている。※7
ちなみにスクリーンに映すタイプの映画、シネマトグラフが日本にやって来るのは翌年の1897年である。

宝塚新温泉では1914年から、宝塚歌劇団の前身となる宝塚唱歌隊が公演を開始。
小林一三は他にも日本初のプロ野球チームと関わり※8、映画会社東宝(東京宝塚)を設立するなど、アミューズメント業界へ直接的、間接的に多大な貢献をしている。

パチンコの原点と、屋上遊園地を生み出した男


ある日、宝塚新温泉に遊びに、いや、遊びを学びに来た男がいた。
その名は遠藤嘉一。
日本アミューズメント産業の創始者とされる人である。

1899年生まれの遠藤は、1922年遠藤商店を開設、医療機器卸業を行った。
中でも売れ筋だったのは避妊具だったが、店番をしていた妻は売るのを嫌がり、逆に買う側も女性が店番では購入をためらう者がいた。
そこで遠藤は、避妊具の自動販売機を考えだしたのである。※9

さらに翌年には同じ構造で、漫画「正チャンの冒険」をかたどった菓子用自販機を作った。
これに注文が殺到したことにより、医療機器卸業から、自販機販売へ方向転換する。※10

全国に販売し、台湾にも進出したが、徐々に売れ行きが落ちてくる。
そこで遠藤が目をつけたのが、子供向けの娯楽であり、宝塚新温泉だった。※11
遠藤は宝塚で、前述した占い機の他に、力試し機、のぞき写真(ミュートスコープ)、玉遊び機、香水自動噴霧器を目にする。
それらを参考に遠藤はまず自動販売機の仕組みを応用し、おみくじ機を宝塚新温泉に納入した。
また玉遊び機を参考に、1926年「球遊機」を作成。※12
これは現在のパチンコにつながる、最も初期のものと考えられている。

パチンコの起源については、非常に複雑で謎に包まれているので、別の記事で改めて語ろうと思う。

さらに遠藤は、宝塚にあったドイツ製の乗り物に注目した。
それは頭がアヒルで胴が馬、係員がスイッチを入れると電動で上下に動く乗り物だった。
それをヒントに、遠藤はコイン式で動く自動木馬を作り上げる。※13
このタイプのコインで動く乗り物はアメリカではキディライド(Kiddie Rides)と呼ばれるが、アメリカでは1930年に発明されたため遠藤の自動木馬のほうが早かった。
1928年、遠藤は日本自動機娯楽機製作所(後のニチゴ)を設立し、本格的にアミューズメント産業へ乗り出す。

自動木馬は大人気となり、評判は関西にとどまらなかった。
松屋百貨店は新規開店する浅草松屋への遊技機の設置を、遠藤に依頼する。
1932年、スポーツランドと名付けられた遊戯場は、乗り物やゲームのある屋上遊園地の嚆矢となった。※14

屋上遊園地は評判となり全国に拡大。
1936年の日本娯楽機のカタログには北は北海道、南は九州まで全国の百貨店が納入先に記載されている。※15

残念ながらその後第二次大戦になり、パチンコや遊具類は接収、金属の供出、空襲によりことごとく失われた。

西のKASCO、東のNAMCO


第二次大戦が終わると、空襲された都市は焼け野原になっていた。
農村は働き手を取られて、食糧を作れなかった。
インフレと食糧難で混乱に陥っていた日本だが、1950年から始まった朝鮮戦争による特需により、経済が急速に回復してゆく。
鉄腕アトム(‘52)、テレビ放送の開始(‘53)、ゴジラ(‘54)など、新しい時代が始まりを告げようとしていた。

戦前から戦後になると、和服を着ていた人たちが洋服を着るようになる。
人々は流行を追い求め、百貨店へ買い物に向かう。
そこは日本の経済復興をいち早く体感できる場所だった。
宝塚を作った阪急は戦前、日本初のターミナルデパートも作っている。
その阪急百貨店の屋上で、子供の人気を集めた機械があった。
キネトスコープのように箱の中を覗くと、音声付きで紙芝居のようにイラストがスライドするステレオスコープ。
これを作ったのは、1955年に創業した京都の関西精機製作所(KASCO)だった。

同じ1955年、東京でも産声を上げた会社がある。
中村製作所、後のナムコである。
中村製作所の創業者、中村雅哉はステレオスコープの噂を聞きつけ、早速購入。
川崎さいか屋に売り込むと、さいか屋の開店祝いに駆けつけた地方の百貨店からも注文が殺到。
中村製作所の地方進出の足がかりとなった。※16

1958年、関西精機は日本初となるエレメカのドライブゲーム、ミニドライブを発売。

《動画は1976年にバージョンアップされたミニドライブマークII》

縦スクロールタイプのドライブゲームだが、アメリカのDrive Mobileなどと比べるとスクロールする背景部分が広くなり、大きく進化していることがわかる。

これがあまりの人気でコインがあふれるほどに大ヒット。
大人気によりコインが一杯で故障するエピソードというのは、実はアーケードあるあるだ。古くはフランスのペニー・アーケード(※17)や、AtariのPongなどにも同様のエピソードがある。

さらに同様のゲームは玩具にもなり各社から発売された。
その中には任天堂の名前もあった。

またミニドライブは中村製作所も購入。
後に契約を結んだ上で、自社製造も行うようになった。
中村製作所と関西精機は東西で互いに協力しながら、ヒット作を連発してゆくことになる。

関西精機のさらに詳しい歴史については、関係者のインタビューが掲載されているこちらを参照していただきたい。



次回は人生ゲームのルーツ、すごろくの歴史を掘り下げます。


※1 1928年に特許出願されたゲームもあるが、こちらは現存が確認できていない。
Oldest known car driving/motorcycle riding games?, PENNYMACHINES.CO.UK, 2005/9/22,  https://pennymachines.co.uk/Forum/viewtopic.php?t=167

※2 ベクションについてはこちらに詳しい。ただし、Road Testについて触れられてはいない。
青木卓也, 妹尾武治, 中村信次, 藤井芳孝, 石井達郎, 脇山真治, 娯楽コンテンツとしてのベクションの歴史研究, 日本バーチャルリアリティ学会論文誌, 2020/9/30, https://www.jstage.jst.go.jp/article/tvrsj/25/3/25_255/_pdf/-char/ja

※3 1954 International Mutoscope Drive Yourself Road Test (Drivemobile), pinrepair.com, 2021, http://www.pinrepair.com/arcade/drivey.htm

※4 Auto Test, Ultimate history of video games, 2014/5, https://ultimatehistoryvideogames.jimdofree.com/auto-test

※5 日並彩乃, 研究ノート 観光客目線からの博物館とアミューズメントパークの比較研究 ―「移動」と「非日常性」に注目してー, 大阪観光大学紀要19, 2019/05, https://tourism.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=300&item_no=1&page_id=26&block_id=55

※6 杉山 一夫, 杉山 さつき, 吉田 敬介, 門田 和雄, パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関(第2報草創期のパチンコ台に関する調査情報の整理(続報)), 公開研究会・講演会技術と社会の関連を巡って : 技術史から経営戦略まで : 講演論文集, 2011/11/18, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmetsd/2011/0/2011_27/_pdf/-char/ja

※7 竹岡和田男, 映画渡米 : 日本は映画をどう受容したか(<特集>共同研究報告 : 近代日本における文化・文明のイメージ), 北海学園大学人文論集, 10, 1998/3/31, http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1278/1/JINBUN-10-5.pdf

※8 小林 一三(こばやし いちぞう), 野球殿堂博物館, https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-028/

※9 葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.207, 1983/3/1, 14面,  https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830301p.pdf

※10 葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.209, 1983/4/1, 14面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830401p.pdf

※11 葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.210, 1983/4/15, 20面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830415p.pdf

※12 杉山 一夫, 杉山 さつき, 吉田 敬介, 門田 和雄, パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関(第3報,「球遊機」と菓子の自動販売機能), 日本機械学会 北陸信越支部総会・講演会 講演論文集, 2012/3/10, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmehs/2012.49/0/2012.49_092001/_pdf/-char/ja
葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.210, 1983/4/15, 20面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830415p.pdf
「パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関」では1925~1926年としているが、「時計じかけのハート美人」では遠藤が宝塚新温泉に行ったのは1927年以降としているので矛盾が生じている。遠藤が故人となってしまったため、よほどの新資料でも出ない限り、正確な年は永遠にわからないだろう。

※13 葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.212, 1983/5/15, 12面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830515p.pdf

※14 葉狩哲, 時計じかけのハート美人, ゲームマシンNo.213, 1983/6/1, 24面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830601p.pdf

※15 アーゲードゲームの歴史資料, ゲームマシン, 2021, https://www.ampress.co.jp/archive.htm

※16 ぜくう(@Area51_zek), namco一代記 中村雅哉とナムコの時代, ゲームラボ 年末年始2021, 三才ブックス, 2020/12/22, p14

※17 山田清一、今泉秀夫, ピエール・ブソー チャンスマシンの偉大なパイオニア, パチンコ百年史, アド・サークル, 2002, p93


タイトル画像:
ゲームマシン No.53, アミューズメント通信社, 1976/8/1, 6面, https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19760801p.pdf


2022/2/16

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