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向田邦子を読む

はじめにお断りさせていただきます。向田邦子さんを敬称も添えずに本稿のタイトルにしましたが、これは文芸春秋発行の本の名前から転用したものです。ご了承下さいますよう。

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毎晩床に就く前に、夫婦で音読をしている。二人で交互に声を出して本を読む。加齢による日本語力の低下を抑えるのが目的だ。「使わない能力は衰える」のは老いの習いで、できるだけそれを止めようとするのは老人の努め。朝夕の散歩と同様に、これもその一つだ。

はじめは、上皇様上皇合様ご夫妻に倣い、山本健吉著「ことばの歳時記」を音読したのだが、内容の難しさから無念の挫折、替わりに山下景子著「美人の日本語」を読むことにして、これは早々に読了した。
※このあたりの経緯は、note 9/18掲載の「浅学を嘆く」に詳述しています。

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次に音読のテキストにしたのは、向田邦子著「眠る盃」。昔から向田さんのエッセイが好きで週刊誌の連載、単行本、文庫本と全てを読んでいた。昨年、仕事を引退して隠遁生活に入り、昔を物思いすることが多くなった。すると何故か向田さんの文章が無性に読みたくなり、文庫本を買い求めた。それを音読のテキストにしてみた。

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向田さんのエッセイを初めて読んだのは40年と少し前。週刊文春で連載を始めた「無名仮名人名簿」は第一回から読んでいたと思う。いつも時代と人を優しい眼差しで観察していて、ユーモラスな中に "切なさ" のスパイスが効いた文章を、私はすぐに好きになった。

※週刊文春は1977年から読み続けている。私はその年読売新聞本社の掃除のバイトを始めた。編集部から出るゴミの中にはたくさんの週刊誌もあり、それらを拾い読みしていて、週刊文春の "正義" が当時の私にミートした。以来購読を続けてきたが、最近のゴシップ偏重には違和感を持つ。"意地悪風味" も気になり「そろそろ止め時かな」と思っている。

閑話休題。向田さんの初期のエッセイ集「眠る盃」の文庫本を二冊用意して、夫婦で音読した。始めてみたら、これがとても面白い。細君と私で二三行ずつ代わる代わる読んでいく。声に出して読むことで、内容が頭に沁み入り情景が見えてくる。

向田さんは私の母親と一歳違いで、私のひと世代前の昭和を過ごしたことになる。エッセイにはよく、丁寧で真面目な暮らし振りの、今よりずっと貧しかった頃の昭和が描かれている。私が生まれる前のことでも、何か懐かしく胸がキュンとなるのは何故だろう。

「眠る盃」の音読は、予定していたページを読み終えても「もうちょっと読もうか」などとページが進んで、あっという間に読了してしまった。今は「父の詫び状」を読み始めている。私も細君も "読み方" に上達は見られないが、愉しめているから良しとする。

かつて向田さんを「突然あらわれてほとんど名人である。」と評した人がいた。今回読み直して、まさに言い得ていることを確認した。主題、構成(展開)、文章、表現の巧みさはやっぱり名人だった。その作品は、素材を丹精込めて仕上げ、精密に組まれた江戸指物のようだ。
 【余談】私は江戸指物の職人のYouTubeを見るのが好きです。
 【余談】向田さんのお祖父様は、腕の良い建具職人だったそうです。

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向田さんのエッセイ中には、今ではあまり聞かない面白い表現が見られる。ごく一部だけですが列挙して本稿の締めとします。

 「人寄せする」⇒ 人を集める
 「気の張るお客様」⇒ 気を使うお客様 
 「冥利(みょうり)が悪い」⇒ ありがた過ぎてバチが当たる
 「食べはぐる」⇒ 食べそびれる
 「時分時(じぶんどき)」⇒ ふさわしい時刻
 「ふた親ともそのへんのブラ下がりだ」⇒ 両親とも育ちが良くはない

※最後の "ブラ下がり" は、文脈から "育ちが特別良くはない" の意味と分かります。しかし私が調べた限り、どの辞書やサイトにもその意味は書かれていません(広辞苑、goo辞書、wikipedia、weblio辞書、コトバンク)。
すると本稿を校閲した細君から「 "ブラ下がり" って "オーダーメイド" の対義語として使ってなかった?」「高級品じゃなく、普通のものっていう意味で‥」と指摘されました。言われてみればそんな気がします。この40年で忘れ去られた表現なのかもしれません。

< 了 >

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