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アメリカが好きだった ~その壱

私の作文は、書くことそのものを目的として始まった。考えを的確に文章化する練習によって、老化抑制を図りたいという目論見だった。その後 noteで公開を始めると読者の存在を感じて、誰かに何かを "伝える" ことを意識するようになってきた。

これまで書いてきた主な題材は、自分の周辺で起こった出来事とその所感、ニュースを見ての「物申~す!」的なこと、あとは趣味についてのあれこれが多かった。先日初めてサラリーマン時代のことを題材にしてみた。そっと撫でるように、極めて慎重に書いたが上手くいかなかった。

大学生時代のことは背景として書いたことはあったが、まだ主題にしたことはない。私にはその頃のことを避ける何かがあるようだ。大切な人々と出会えたし、楽しい思い出もたくさん有りつつも、屈折した感情や悩みも多く抱えていたあの頃。

しかし最近になって、それらを書きたい欲求が湧いてきている。このところ孫 (♂1才11ヶ月)と過ごす時間が多い。彼を膝に座らせて遊ぶ好々爺然とした自分がいる。そして「この子が成人する頃にオレはもう死んでるか、老いさらばえているんだろうな‥」とため息をつく。 

「じいちゃんにもキラキラした若い時があったんだよ。切なくて憂鬱なことも多かったけど、感動に胸を震わせ、出会いに胸を熱くし、新しい挑戦に胸を高鳴らせていたんだ。」そんなことを二人の孫たち(もう一人は♀7ヶ月)に伝えたいのだ。

でもまだ彼らには分かるはずもない。そこで私の若き日を note にしたためることにする。将来読んでくれることを想定して書くが、読んでくれなくてもいい。遠い昔を思い出しながら書いてみる。

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1975年4月、私は大学に進学し上京した。前年の1974年、巨人は10連覇を逃し長嶋茂雄が引退した。同年末、"今太閤"と言われた田中角栄が金脈問題の追及に屈し首相の座から退いた。三菱重工ビルを始めとする企業爆破事件が頻発し、年をまたいでも解決していなかった。何やかや世情は落ち着かず、今よりずっと街も人も暗かった気がする。

上京して初めての住まいは、中野区南台の4畳半。大家さんが一階にいて二階の3部屋が下宿という造り。風呂は無くトイレは共同。テレビは持っていなかったので、毎夜ラジオばかり聞いていた。

私は早くから家を出たいと思っていた。先に兄が関西に行ったこともあり、私は東京を目指した。「東京へ行けば何かがある」という漠然だけを抱えて来てみたが、東京に貧乏学生が一人増えただけだった。

生活は苦しくて、すぐにアルバイトを始めた。最初は渋谷公園通り沿いにあったレストランのウエイター。並行して中元・歳暮の配達や、広告の飛び込みセールスもやった。2年生の時は、飯田橋の東京大神宮近くにあるカントリー調のカフェ兼居酒屋の厨房で働いた。明るい時間には、近くにあった暁星学園のフランス人学校の生徒がよく来ていた。フランス語が飛び交うお洒落な店で、そこではたくさんの友人ができた。

大学のクラスは、付属から上がってきた人と東京者の固まりができている気がして、一般入試で地方から来た私は馴染めずにいた。入学1ヶ月が過ぎた頃、一人でお堀端に寝そべって文庫本を読んでいたら、同じクラスの高澤君が「ブルーグラスやんねえか?」と強烈な北関東訛りで誘ってきた。

私の高校時代は CSN&Y のコピーバンドをやり、イーグルスやCCRも好きだった。ボブ・ディランやピーターポール&マリー、二ッティーグリッティーダートバンドなどのフォークも聞くいわゆる "アメリカ音楽かぶれ" だった。"ブルーグラス" が好きだった訳ではないが、ちょっとスネていた寂しん坊には北関東人の素朴な優しさが嬉しくて、ブルーグラス愛好会に入部することにした。

※【Wikipedia】ブルーグラスとはケンタッキー州の別名で、同州出身のビル・モンローのバンド "ブルーグラスボーイズ" から、音楽のジャンル名にもなっている。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュの伝承音楽をベースとしており、 "ハイロンサム" と呼ばれる唱法と素朴なハーモニーが特徴。バーンダンスの伴奏に使われたり、楽器の速弾きなどのアクロバティックな要素も特色。楽器編成は、ギター、フラットマンドリン、5弦バンジョー、フィドル(ヴァイオリン)、ウッドベースが主に使われる。


入部すると既に1年生のバンドは編成が終わっており、私はちょうど欠員になっていた2年生のバンドのウッドベースを担当することになった。私自身は目立つプレイヤーではなかったが、加入したバンドは学生の中での認知度はまずまず高く、数々のフェスやライブハウスで演奏した。

このサークルで、私の note に何度か登場する現在日光山輪王寺で総務部長を務める鈴木常元君とも出会ったし、後にCBSソニーで数々のビッグネームを見出して、プロデュースする変人のM君もいた。

サントリーが国産のバーボン風ウィスキーを発売した際には、我々のサークルがプロモーションに参加することになり、銀座ソニービルに作られたログハウスのステージで一週間演奏したこともあった。*残念ながら写真無し。下の画像はその時の商品 "Rawhide"。ずっと前に発売中止となっている。

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バンド活動と並行し、3年生からは、大手町の読売新聞本社ビルの掃除のバイトを始めている。床掃除と、朝刊の編集が終わった後の膨大なゴミ集めが仕事だった。※当時の記者はデスク周りを汚すことを競い合っていた。編集終わりの酒盛り跡の惨状を、我々は 「お祭り広場」と呼んだ。

このバイトのメンバーは実に多種多彩だった。画家、彫刻家、役者、物書きなどの表現者、学生運動上がりや仏門を目指す人もいた。彼らとの出会いは東京ならではであり、刺激的で未知なる世界の端緒に触れた。

掃除のバイトは比較的実入りが良く、私に経済的安定をもたらした。すると「アメリカに行きたい」という思いが頭をもたげてきた。かつて「東京に行けば何かがある」などと 、「ここではない何処か」 に活路を求めた男は、「アメリカを見れば自分は変われるかもしれない」と思ったようだ。

お金を貯めてアメリカに行くと決めたのは、大学3年の初夏のことだった。

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長々書いてきましたが、「オレの青春って特別キラキラしてはいないかな?」と揺らぎ始めました。「たっくんとあおちゃんはどう思う?」でもここまで来たからには続けます。 *たっくん、あおちゃんは孫です。

次稿  「アメリカが好きだった ~その弐」は、アメリカ一人旅編です。

< 次稿に続く >

P.S. ブルーグラスの仲間、バイト先の友人とは今でも交流が続いています。


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