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卑怯者!が最高の罵り言葉となる場所で(清原果耶さん大好き文 兼 舞台『ジャンヌ・ダルク』感想)



 「卑怯者!」とジャンヌダルク(清原果耶さん)は言った。彼女を組み敷き、辱めようとしている男達に対して。その目は、お前たちに屈してたまるか、お前たちのように墜ちてたまるか、という意志で輝いている。


 いや、正直になろう。彼女は卑怯者!と言っていないかもしれない。というか、言ってなかったような気がする。恥ずかしい話、はっきり憶えていない。

 まあ、実際に言ったかどうかはあまり関係ないかもしれない。断言するが、彼女はそう言ってもおかしくなかったのだ。そして、彼女が言いそうだったという事こそ、つまり卑怯者!という言葉が最高の罵り言葉になるような場所に彼女がいたという事こそ、最も重要なのだ。この重要さは何にも劣らない。


 何かの作品で主人公が敵に「卑怯者!」と叫ぶのを見た時、幼い僕は何ともむず痒い思いをした。眼の前に本当に憎い相手がいるのなら、もっと酷い言葉を言うべきだろう、と思ったのだ。

 「卑怯者!」と、「うざい」やら「死ね」やら。どちらがより人の心を抉るだろうか。幼い僕には問うまでもなかった。

 何故、もっと酷い言葉を使わないのか。何故、身体的特徴等を弄くり倒し、鏡を見るたびに思い出して死にたくなるほどの悪口を突き立てないのか。結局の所、この作品が子供向けに、安全に、舐めて作られた物だからではないか。なんという屈辱だ。

 幼い僕の思いは、このような謎の憎悪にまで辿り着いた。そこそこ好きな作品から、このような思いが引き出されてしまったので、結構辛かった。

 しかし今、僕は確信している。卑怯者!は卑怯者!のままで、れっきとした罵倒であれる事を。「死ね」やら何やらより、よっぽど苛烈な烙印になり得る事を。

 つまり、幼い僕の疑いは外れていたのだ。あの時、主人公は確かに最も酷い罵倒を捻り出していたし、当然ながら、製作陣の舐めなどなかった。ただ、幼い僕が卑怯者!が最高の罵り言葉になる場所に、届いてないだけだった。


 卑怯者!が何よりも強烈な罵倒になる条件とは何か。その言葉を発する者が、卑怯であることに、何よりも強い嫌悪感を抱いている事だ。発する者内の、言われたら嫌な言葉ランキング一位に、「卑怯者!」が君臨している事だ。

 トートロジーにも思えるこの条件はしかし、各人がよく確認し、刻み込んでおくべき物だろう。卑怯者!が自らに降り注いだ時、果たして、血管が千切れる程に憤怒できるだろうか。卑怯だと思われている事に対して、自らの呼吸に吐き気を催すほど、悲しくなれるだろうか。卑怯者!は、言われたら嫌な言葉ランキングの何位だろうか。トップ10には入っているのだろうか。

 これらの問いを自己にぶつける時、僕は恥ずかしくなってしまう。卑怯である以上に恐ろしい事など、他にないはずなのに、何故、僕の言われたら嫌な言葉ランキングトップ10に卑怯者!が入っていないのかと。


 卑怯者!を恐れるということは、誠実であろうとしている、ということである。誠実であるということは、生を輝かせることである。

 皆、どこかでその事に気がついている。生が輝いているなら、一見ちゃらんぽらんに見える者でも、必ず何かに対して誠実であろうとしているはずだ。

 繰り返すが、誰もがその事に気づいている。だが、誠実であるとは弱点を曝す事でもある。弱点を突かれる痛み、恥ずかしさ、惨めさもまた、誰もが知っている物だろう。

 その痛みを恐れるあまり、多くの人は、誠実さを隠そう、捨てようとしてしまう。そして、挙句の果てには誠実さを踏み躙る態度に、すなわち卑怯である事に、憧れを持つようになる。

   断言するが、この悲劇は今この瞬間にも世界中で起こっている。幼い僕も、今の僕も、おそらくその悲劇と絡み合いながら生きている。


 そんな僕たちに、卑怯である事の勿体なさ、恥ずかしさを思い出させてくれる作品がある。清原果耶さん主演の舞台『ジャンヌダルク』だ。この舞台のジャンヌ(清原果耶さん)は、どんな時でも目をキッと煌めかせ、誠実に生きる事に燃えている。「可愛い女優が演じる勇敢なヒロイン」という枠に収まらないほどに。不潔さ、不純さは一切見当たらないが、それ故、時に目を覆いたくなる、という逆説が成り立ってしまうほどに。


 言い忘れないうちに強調しておくが、ジャンヌ及び清原果耶さんの輝きは、決して強さだけで成り立っている訳ではない。確かにそこにあるのは、圧倒的に強さなのかもしれないが、この強さは、強さだけでは輝かなかっただろう。

 はっきり言うと、彼女は華奢なのである。繊細そうなのである。儚いなどといった言葉を緩衝材として使う事を拒むのなら、壊れそうなのである。明らかに壊れそうな存在が、誠実であるというリスクの中に、自ら飛び込んでいるということ。彼女の輝きは、この引き裂かれるような状況に付き纏う神聖さに他ならない。

 僕なんかよりも遥かに壊れそうなのに、何故この人はこんなに誠実でいられるんだ。卑怯者!が最高の罵り言葉となる場所に、堂々と立っていられるんだ。このような嫉妬すら入り混じった目を得て、人は彼女に恋にも似た思いを抱くようになるである(というかもう恋なのでは!?)。

 正直、この部分を書くのは辛かった。ジャンヌ及び清原果耶さんの壊れやすさを利用している事を告白しなければならなかったからだ。これは、彼女を好きになる事の前提に性差別や見下しがある事を認めるのと同じだと思う。しかし、清原果耶さんの魅力について語る上では避けられないと判断した。


 思えば清原果耶さんは常に、いかなる仕事においても、卑怯者!が最高の罵り言葉となる場所にいた。彼女が微笑む時、顔を歪ませる時、キッと目を煌めかせる時、おでこを汗まみれにする時。その全てに、卑怯である事への堪え難さが籠っていた。僕らが彼女のパフォーマンスを見る時に覚える恥ずかしさや悔しさは、卑怯である事を十分に恐れられない罪から来る物に他ならない。同じ時に覚える喜びも、興奮も、憧れも、好きという気持ちも、同じ所からやってくる事は言うまでもない(とはいえ言いたいので言ってしまった)。


 清原果耶さんは演技派と呼ばれている。とんでもない難役でも必ずやり遂げる、素晴らしい技術の持ち主であると。ただ彼女には、絶対に演じられない役柄がある。それは、卑怯である事を恐れない役だ。卑怯者!という誹りから、何の傷も受けない役だ。

 清原果耶さんの存在感が、卑怯者!と呼ばれて傷つかない者たちを、安心させる事はない。痛みを十二分に知った上で、誠実である事を決して諦めないあの眼光と深みある声は、常に我々を卑怯という安全圏から、引き摺り出そうとする。言って仕舞えば、その引き摺り出しを楽しめる者以外が清原果耶さんを浴びる事は、危険ですらある。

  もしかしたら、このような物言いも、彼女への侮辱と取られるかもしれない。しかし、僕はこの縛りの中で戦う彼女の姿が大好きだ。このまま進んで欲しい、と言おうと思ったが、そんなの、願うまでもない。初めての舞台である『ジャンヌダルク』において、彼女はまた、卑怯者!が最高の罵り言葉となる場所に根を張っている事を、証明してしまったのだから。


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