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忘れてはならない山本弘、虚無の画家を。

1981年(昭和56年) 7月にその才能とともにこの世を自ら絶った画家、山本弘

長野県下伊那郡豊丘村出身。享年51歳。
若い頃からその画力は注目されていた山本弘だったが、ヒロポン中毒、何度もの自殺未遂、さらに酒に溺れた末、脳血栓の後遺症で晩年には手足の不自由に苦しみながらも描き続け、孤高を保ち俗世間を拒絶した「風狂無頼の画家」
詳しくは、曽根原正好さんのブログ「mmpoloの日記」に、一点一点作品の事、支え続けた聡明な愛子夫人の事など、沢山のエピソードをまるで一冊の小説を読むがごとく、ひとりの画家の生き様を、興味深く長年にわたり書かれています。

曽根原正好さんが19歳の時に、37歳だった山本弘さんに出逢い、生前の交流は14年間でしたが、そこから、その年月をはるかに超えた40年もの間、曽根原さんは山本弘氏の個展(遺作展)を20回以上開催。また、SNSでも発信を続けています。
亡くなって10年過ぎた頃から、当時無名だった山本氏の作品を持って銀座の画商を(門前払いされながらも)巡り、美術評論家の針生一郎氏には、こういう作家がいると手紙を書き、長野のアトリエに案内し作品を直に観てもらい、東京での個展開催までこぎつけました。しかも作品は完売!それをきっかけに、瀬木慎一氏、ワシオトシヒコ氏など気骨ある美術評論家や、各美術誌からも絶賛の評価を受けるまでとなりました。素晴らしい歩みです。

曽根原さんは画商でも画家でもなく、苦手な営業部に配属され、安室奈美恵さんのサインをもらい損ねた〜と少し悔しがる普通の勤め人です。若い作家に対しても、ベテランの作家に対しても、心を真っ平らに接してくれます。それは山本弘氏の影響、教えなのか、曽根原さんを通して、山本弘氏の人間的魅力を感じます。

まだまだ日本には、才能あふれる作品があります。先月、美庵に来廊された方は「画廊巡りは、森の中を彷徨っていて偶然に面白いものに巡り逢えた感覚です」と。その出逢う森のひとつを創られた曽根原さんに敬意を表しつつ、さぁ〜明日もお近くの画廊に出かけましょう!!
上記作品タイトルは「過疎の村」F20号。飯田市と南木曽町を結ぶ辺りの、1970年(昭和45年)に無人となった大平地区。野ざらしの電信柱、荒れ果てた道なき道、ヒトケノない集落に夏のギラギラする太陽が照りつけている。