見出し画像

ポストモダン以降、IT革命以降、パンデミック以降の現代思想はどこへ行くのか

IT革命とグローバリゼーションの急速な変化を遂げた現代は、産業革命から世界大戦の近代とはまるで違った時代になっている事は共通認識があるものの、
現代には一体どんな思想背景があり、何に疑問を持ち、どこへ向かうのかといった問いを抱いた時にこれだという哲学が不足しているようにも思える。

現代へ至る過程には普遍性を見い出す大哲学の後に人間中心で合理的な近代化のモダニズム、それに批判的なポストモダン(脱・近代)の流れがあったが、実存主義や個人主義、構造主義、合理主義、多元主義、そして新自由主義的な性格を帯びた市場経済の社会思想と共に経済成長、資本主義の時代が本格化し、時代の潮流の中に飲み込まれていったように思える。

その中で幾多の反動があったにせよ、なるべくして世界の合理化は進み、インターネットが世界を網羅し、グローバル経済は国境を越え、小国を凌ぐ規模の超巨大IT企業とそのサービスが世界の在り方を変え、格差は開き続け、競争は進み、とどまることを知らないように思えた。

ポストモダンと言われた流行は終わったかのように思えて、現代は既に当たり前にポストモダン化され、ポストモダン以降とは何か?と問う時に、それはイメージ的に資本主義以降とは何か?とでも言うかのようで、明確な答えを出し辛い状態があるのではないかとさえ思える。

ポストモダンを定式化したジャン・フランソワ・リオタールは「大きな物語への不信」とポストモダンを規定した。

大きな物語とは万人が認めるような真理、普遍的規範のことで、近世の大哲学の潮流であったが、こうしたものへの不信感が最早当たり前になったのが現代である気がするし、それが自由主義や多様性の尊重に寄与しているかのようにも思う。

哲学は分析哲学が主流になり、あらゆる現象を言語的に分析、相対化させ、論理的に解明しようと試みるものの、普遍的な善悪や正義等の観念からも離れた観察的でどこかニヒルな視点は答えの無い問いのようでもあった。

資本主義、新自由主義といった形態は変わらずとしても、世の中の変化は劇的でスピーディーで、多様になっている。

社会の変化は価値観の変化を生み、人々の行動を変容させているが、
今の時代はどういう時代なのか?果たしてこれで良いのか?といった疑問を提示し、時代を映す哲学思想がいまいち対応できていないというか、あっても浸透せず、どこか行き詰まっているようにも感じる。

ポストモダン後の「現代思想」というものが80年代頃から現れて長いものの、大きな物語を亡くし余りに分極化された思想はもはや思想というか世界の構造の分析の多様な言語化に思えたりもするが、合理性を持つ言葉は一定の力となり、様々な立場の"差異"を創出する力ともなった。

メガ的に見れば大衆は訳が分からないまま、利便性、市場主義的な合理性、圧倒的な変化の中でそれらを従順に受け入れ、疑問を抱く事も稀なまま、ただただ扇動されているようにも思えるし、マクロに見ればそれぞれの個人的な趣味を生きる多様な世界観の中でもはや共通の価値観等は必要で無くなっているとも思える。

「いろんな考え方がありますよね」となるものの、その先の万人に確かなヴィジョンみたいなものを提示し辛い。

多様化した多元主義的な世界観が主流でありつつ、ITテクノロジー/サービスの急激な発展等による社会の状況、潮流は抗い用の無い影響力となって私達の思考、行動に反映される。

現代思想の一派では、激動の時代を確かに分析し、止まることを知らない資本主義は、加速度的に発展し尽くす事でその終焉を迎えるといった加速主義、新反動主義、暗黒啓蒙といった思想を生み、そこが行き着くところはシンギュラリティ後の人間を超える能力を持つAIと一部の人体改造されたトランスヒューマンのエリート達が支配する未来といったディストピアにも思える世界観も現れている。

その界隈と言えるイギリスの哲学者マーク・フィッシャーは「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」と著書"資本主義リアリズム"中で現代の現実を鋭く分析していたが、フィッシャーは2017年にうつ病で自殺してしまった。
現実の苦悩ととことん向き合った末に自殺してしまうとはいたたまれない。

また、こうした過酷な現実を映すダークな潮流の中ではある種の開き直りのような選民思想や大衆への軽蔑、諦めのような反転感を感じたりもする。

反転的な世界観という点においては、若者世代のサブカルチャー、アンダーグラウンドカルチャー、貧困/ゲットー育ちのストリート、また現代の陰謀論においてダークな世界観が見られる。

それは、行き詰まりを見せつつもどうにもならない格差社会のこの世界の本質は悪であり、悪のエリートに支配されているからだという世界観であったりして、そうしたダークな現実から逃避したり、開き直ったりする。

暗黒に映る世界から逃避したいという欲求は、こと陰謀論においては事実かどうかよりも自分達が本当の真実に目覚め、巨悪に立ち向かうというストーリーを歓迎してしまう。同じストーリーを共有する同胞らと共に、正義の集団的自己正当化が出来てしまい、自尊心を高めるというニーズを満たしてしまう。

2021年の米連邦議会襲撃事件で広く知られるようになったQアノンの存在は、事態のインパクトと共に世界に衝撃を与えた。
彼らはトランプ前大統領が悪魔崇拝の小児性愛者のグローバルエリート達と秘密裏に戦っている英雄だといったようなストーリーを信じているが、そうした考えを持つ人は少数派とは言えないレベルにまで拡大し、過激なアクションを誘発するまでに至った。
勿論陰謀論の領域にある話が全てデタラメかと言えばそんなことは無いと思うが、被害妄想的な観念からの決めつけが含まれていたりして際どい。
共感自体がニーズになっている感は否めない。

こうした陰謀論が好まれ、選ばれる現代はポストトゥルース(脱真実)の時代であると言える。

また既存の世界観から反転しているという点に置いてはグノーシス主義的な世界観との共通点があるように感じる。

グノーシス主義にも様々な派生があるが、代表的な(?)異端とされる西方グノーシス思想に倣えば、この世を創った神は真の神ではなく、不完全な下級の偽の神(ヤルダバオート)によって生み出された悪の世界で、それ故に悪が横行しているという世界観であり、真の完全な世界は別の次元にあると考えられている。

グノーシス主義は古代から存在しているものの、グノーシス的な思想は現代にも形を変えて入り込んでいる。
ポストモダンの潮流の中にもあると思われる新霊性運動(ニューエイジ)がそれであるが、現代のスピリチュアルの基盤となる思想であり、スピリチュアル的な思想はインターネットを通じて現代に広く浸透している。
さらにスピリチュアル的な世界観を通じて陰謀論の世界に入っていく事は珍しくない。

また、その逆も然りで、過激なナショナリスト、オルタナ右翼の中でも、陰謀論からある種の神秘主義的な思想に傾倒する流れもある。
排斥的なナチズム、ネオナチズムと合致する自民族至高主義の神秘思想は非常に危ういと感じるものの、その真髄に焦点が当てられる事は少ないと感じる。

現在の世界の混乱、紛争の背景にも過激なナショナリズムの衝突といった問題を孕んでいるのは明らかだが、その背景に迫りながら問題の解決に当たろうとするアプローチは不足しているように思える。
哲学、信念、イデオロギーの背景にどんなものがあるのかを理解する事は必要である。

ポストモダンが大きな物語を解体してから様々な差異が分断された挙句に普遍的な真実を失い、ポストトゥルースの真実以降の段階まで進んでしまった現代で、全く相容れないパラレルな世界観の衝突が起こっている。

これは第二次世界大戦後からの東西冷戦時の地政学的な闘争とイデオロギー対立とも構造が似ている気もする。

かつて「もはやイデオロギー対立は存在せず、社会制度の最終形態、歴史の終着点が民主主義だという事実は揺るがない」と政治経済学者のフランシス・フクヤマは著書「歴史の終わり」で自由民主主義の勝利宣言を表し、それはソビエト連峰の崩壊によって決定的なものになったと言われていた。

しかし、今日のロシアとウクライナの戦争において、歴史の終わりはまだだったと言うかのように、ロシアの侵攻はリベラルな国際秩序、民主主義の危機だとして欧米西側諸国は一致団結を呼びかけ、情報戦、後方支援にあたっている。

また新型コロナのパンデミックに際して世界中で進むワクチン接種や行動制限、完全デジタル化の流れもまた不信感を募らせる要因となり、人々がコントロールされる社会の在り方は陰謀論を加速させたように思える。
コロナ禍でリアルでの人との繋がりは希薄になったが、オンラインでは似た考え方の人同士が繋がり、結束し、考えを強固にする。

国際社会に対する不信感は、世界の在り方に対する不信感となり、深刻な分断をもたらした。こうしたものがもしポストモダン以降のひとつの帰結だとすると、失われつつあった大きな物語、普遍的な真理のようなものの復活がまた求められてくるのではないだろうか。

近年、新実在論などで注目されている現代の哲学者マルクスガブリエルは、普遍的な倫理に基づいて資本主義を再構築する「倫理資本主義」という考え方を推奨している。

社会、企業の在り方は倫理的に善いか悪いかが基本となり、その監査役として倫理学者、哲学者が社内や重要な意思決定の行われる機関に在籍するといったイメージ。

対立、争いを生んでしまう絶対的な正義のような一元的なものに普遍性を求めるのではなく、人々の間に共通的に介在する倫理感の普遍性をもっと社会活動全般の規範として採用していく事によって、倫理的な感受性を発展させ、自分と違う他者が何を必要としているか理解し、親切で、思いやり、感謝し合えるようになるという。

このような倫理ベースの方向性には自分としては全く同意で、以前ポストトゥルース以降について書いていた文章の中にも「真実、現実には圧倒的で、普遍的で、私達皆に共通する法則は元より、私達皆の感情を揺さぶり、訴えかける、かけがえのない実感が必要不可欠であると思うと共に、我々がそこに常々感応していられる事、体験していられる事が重要であるとつくづく思うのである。」と書いていた。

倫理感の背景には愛があり、共感がある。大きな愛の共感とも言え、仏教では慈悲と呼ばれるところでもある。

こうした領域が社会の基盤と改めて再結合し、末端まで行き渡るような哲学、思想の潮流となる事を期待したい。

地球環境の危機が差し迫る中で否応なしにサスティナブルである事が求められるようになったが、自分達世代の危機は勿論の事、次の世代が、その次の世代が、そのまた次の世代が安心して心地よく暮らしていける世界を作っていく為に必要な社会の在り方を考え方や精神性としても実現していかなければならない。

日本には元々、江戸時代にはそのような精神性や生活様式があり、次世代、後世の為にも長い目で考えた持続可能な文化があったのだが、近代以降徐々に失われていった。
イメージ先行ではない、本物のサスティナブルの道徳倫理が深いレベルで復活、浸透し、またそこにある愛そのものの実感と共に浸透していく事を望むばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?