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思考:学習を目的とした読書について

いまから俺は学習を目的とした読書について幾らか持論をまとめ、これを戒めとしてインターネットに放出する。
本稿は、俺自身に、あるいは俺のようなニンゲン存在一般に向けて書かれたものとなるだろう。またしたがって、本稿はこのアカウントの他の投稿記事に比べて幾分か口が悪い。

さて、予め結論を述べてしまうのなら、こうだ。

  • 再読を前提しろ

  • 事前に目的を定義しろ

  • 実践しろ

「なんだ、当たり前のことじゃあないか」などと思った者、あるいはこの場で納得した者、あなた方にとって以下に展開された記事本文は蛇足でしかない。時間の節約、すなわちブラウザバックを推奨する。ついでにスキを押して帰ってみれば手軽に徳が積めることだろう。いいからさっさと押しなよ。

そして、それでもここに残った者。あなたはこれから、いくつかの呪いから解放され、そして別の呪い⸺ああ、もしかしたらそれは祝福と呼べるかもしれない⸺を掛けられることだろう。

再読を前提しろ

さて、もう面倒だから先般掲げた結論を見出しとしてひとつひとつ簡単にコメントしてゆく。
まず再読についてだが、これは「学習を目的とした読書」においては当然に行われるものであり、一回読んだきりで知識が定着すると思っているのであれば、それは残念ながら甘えか勘違いだ。基本的には。

基本的には、と言った。これは例外的に一度読めばいいニンゲンも存在するかもしれないからだ。たとえばphoto readingの能力に強く自信を持っているニンゲンなどがこれに相当するだろう。羨ましいが、妬んではならない。
しかし、しかし、だ。彼らも「記憶したテクストを脳内で反芻することにより、再読に近い効用を得ているに過ぎない」とも言えるのではないだろうか。言えなくても俺は言うが……

とまあ結局のところ、テクストを反芻し知識定着・再解釈を繰り返すことで学習深度を増すという基本方針から逃れようとしても仕方ない、という話に帰着する。ここがマイホーム。
せっかく買って、せっかく読んだんだ。どうせなら、しゃぶり尽くそうぜ。

あとあれだ。書かなくてもいいかと思っていたが、あえて記しておきたい注意事項が一点ある。
つまらなかった本を無理に再読する必要はない。

事前に目的を定義しろ

「なぜ読むのかなんてナンセンスな問いだ。読みたいから読むんだ」
……よろしい。が、「自分の動機を言語化する訓練が足りていないだけではないか?」という疑問を抱くことができたらさらによろしいだろう。
学習するのであれば、その学習を活かす現場があるはずだ。仕事? 趣味? 空想? なんでもいい。その知識の花道を敷け。
目的定義が明確であればあるほど、読書の質は向上する。あなたはおそらく合目的的な読み方を志向し、余分を排除し、集中と熱意を以ってその書物と向き合うことになるからだ。その体験はきっと清々しい。

実践しろ

耳が痛くなる「手を動かせ」パートはこちら。俺も耳が痛いが、元より人生が痛々しいので特に気にならない。開き直りは大事。
これは「単に記憶している」と「知っている」とを区別し、手元の情報を後者に変換していこうぜ、という提案だ。ここでいう「知っている」は、その情報が経験によって肉付けされ実感とともに己の身体に刻まれている状態、みたいなイメージだ。かえって分かりにくくしたかもしれない。
さておき、以下は些か単純なストーリだが、知識定着のための実践の必要を想像するための単なる装置として読んでほしい。

読書した。〇〇という概念を認識し、その運用に役立つTipsを得た。
〇〇に関わることをしないまま一年が過ぎた。二年が過ぎ、三年が過ぎ、十年が過ぎ、n年が過ぎ、やがて墓に入った。光陰がマッハ。
……意味あるかこれ? まあもしかしたらあるにはあるかもしれないが、〇〇に関わる実践をして死ぬよりは相対的に意味なさそうじゃないか?
そしてそもそも、墓に入る頃には覚えてないかもしれないね?

というわけで、知識を得たらそれを実践した方が明らかにいいよなということの確認が終了した。同意してくれたら嬉しい。
得た知識をまとめて何か文章を書いてもいいし、仕事や趣味や空想に活かしみてもいい。そのためのイケてる方法も、きっと本の中から得られるだろう。

できるだけ多くを墓に持っていこうぜ。

通読は別に偉いことではない

ついでにもう少しだけ呪いを解いておこう。

やたら長い謝辞をご丁寧にも全文読んでみたりとか、既知事項しか書かれていない箇所を熱心に一文字ずつ脳内再生したりとか、してないか? 俺はしたことがある。悲しいかな、そういう努力は無駄な努力であり、要は費用対効果が薄い。
全文読まないと気持ち悪くて死にそうになってしまう……くらいのすっげえこだわりがない限りは即座にスキップ機能をONにしてしまえ。間違ってスキップしたところで、別に後で戻って来ればいいじゃないか。
ね、かんたんでしょ。

一冊の中でも読みの深さにグラデーションをつけて、議論構成上の核心部分や未知事項が多い部分により力と時間を費やすと良い。惰性で通読していると読書過程での調べ物や記録行為が疎かになりかねない、という点でもメリハリは当然に重要だ。

多読は別に偉いことではない

「で、その多読はイカした何かを生み出したのかい?」と問おう。他人にじゃない。あくまで自分に、だ。
多読が効果を発揮する場面はもちろんある。特定領域の概観を得たいとき、多くのアクターの意見を総合して昇華させたいとき、価値判断に対してあえて中立でいたいとき、等々。多読という方法が最適解となる状況であれば、何も問題はない。
で、何がいいたいかというと、散漫な多読をしてもさほど意味がないということだ。
目的が定義されていて、必要に応じて再読・実践を通じて知識を定着・活用し、最終的に目標達成できるのであれば、多読も手段として優れたものとなり得るだろう。
が、やはり「多読それ自体が独立に価値を持つことはない」という認識をしておいた方が間違いを起こしにくい。これはまあ、実利的に肯定されるマインドだろう。

それはそれとして作品鑑賞としての読書は好きにすればいいと思う。いや、ほんと。

20分程度でただただ自分のために勢いのまま書き散らした記事ですが、これがたまたま誰かひとりにでも届いて、学習的読書へのモチベーションにつながれば素敵だな、とも思っています。

ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからsummerdream様の作品をお借りしました。ステキな絵を公開していてくださり、ありがとうございます!
(そして妙に口の悪い記事ですみません。ドライヴ感を出してみたかったのです)

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