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サマルカンド観光


こんにちは!
愛車の三菱デリカでユーラシア大陸横断中の管理人です。
モンゴルから出発して今はウズベキスタンのサマルカンドに滞在中です。 

これまでのルート

◆2023年6月25日(日)

ホステルの無料朝食を掻き込んでサマルカンド観光へ。
世界史の知識がゼロなので地球の歩き方を片手に観光します。

まずはティムールさんのお墓を見学。

アムール・ティムール廟
ティムールをはじめ、彼の息子たちが眠る霊廟である。青の都と呼ばれるサマルカンドでも、ひときわその青さが引き立っている壮大な建造物ではないだろうか。
もともとこの場所には、彼の孫ムハンマド・スルランが建てたメドレセとハナカがあった。しかひし1403年のトルコ遠征で彼は戦死してしまい、ティムールは彼をしのんで隣に廟を建設した、廟は1404年に完成するが、1年後、中国遠征の途中で急死したティムール自身もここに葬られることになった。

ティムールの墓石は黒緑色の軟玉で造られ、中央に置かれている。その北側にティムールの教師ミルサイード・ベリケとひ孫のひとり、東側にムハンマド・スルタン、南側にウルグベク、西側に近い方から息子のシャールフ、ひ孫のひとり、息子のミランシャーの墓石が並んでいる。

地球の歩き方

レギスタン広場も観光。

レギスタン広場
チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業中心地となった。主要道路の交差点であったレギスタン広場は、公共の広場としての機能も果たし、謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われていた。

ウルグベク・メドレセ
レギスタン広場の西側に1402年に建てられた神学校。広場では最も古い建造物だ。ウルグベクは、自身が天文学者であったように、学芸を復興し、自らも教壇に立っていたといわれている。当時、ここには100名以上の学生が寄宿し、イスラーム神学をはじめ数学や哲学などを学んでいた。

シェルドル・メドレセ
レギスタン広場の東側に位置し、かつてハナカがあった場所に建てられた神学校。17年の歳月をかけて、1636年に完成した。このシェルドルとは”ライオンが描かれた”という意味で、入口アーチに子鹿を追うライオンが人面を帯びた日輪を背に描かれている。本来イスラームの分様は、その教義に基づいて偶像崇拝を否定する立場を取り、人や動物の姿をモチーフにすることはタブーとされている。あえて禁が破られ、このようなデザインが描かれたのは、支配者が自分の権力を誇示しようとしたためらしい。しかしその代償に、建築家が責任を取って自殺したという伝説も残っている。

ティラカリ・メドレセ
1660年に建てられた神学校。広場から見て正面に当たるこのメドレセはほかのふたつのメドレセとはかなり異なった外観で、広場に安定した調和をもたらしている。中庭に入って左側、青のドームの下に礼拝所があり、その荘厳さから”ティラカリ(金箔された)”という名が採られている。修復に3kgもの金が使われたという礼拝所は、まさに息をのむ美しさだ。

地球の歩き方

レギスタン広場から徒歩5分のモスクもちらっと見学。
疲れていたので入り口だけ写真を撮って終わりw

ビビハニム・モスク
かつてイスラーム世界で最大の規模を誇ったモスクで、サッカー場がすっぽり入ってしまうほどの敷地に大モスクとふたつの小モスクが並び、入口にはやはり巨大なアーチが建てられている。建設には帝国各地から集められた200人の職人と500人以上の労働者、そして95頭以上の像が従事し、ティムール自身が毎日現場に出向き、指示をする熱の入れようだった。その様子を見ていたスペインの公使によると、ティムールは籠の上から肉や貨幣を建設現場に投げ入れ、工事の進行を盛んにせかしていたという。その結果、モスクはティムールの死の1年前、1404年に異例の速さで完成した。しかし落成後間もないある日、礼拝中の信者の上にれんがが落ちてきた。落下は続き、それを恐れて礼拝を行うものもいなくなった。以後崩壊が徐々に進んで廃墟となり、さらにたび重なる地震で姿をとどめないまでに壊れてしまった。崩壊の原因は建設を急ぎ過ぎたこと。

地球の歩き方

モスクのすぐ横にあるシヨブ・バザール。
バザールでブチ切れてるローカルが何人かいたけど国民性なのかな。

最後は適当にお散歩。
ウズベキスタンの墓地があったので覗いてみた。
亡くなった人の顔を墓石に彫刻する文化のようだ。

5時間ほど観光したらクタクタになってしまった。
ホステルに戻って中庭のソファーで1時間ほど休憩…しても疲れが取れない。

疲れというよりも、明らかに体調が悪い。
大したことないとは思うけど今日はホテルの個室でぐっすり休みます。

続く

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