人生とは連れてこられた旅行のようなもの【終末京大生日記77】

 皆さん、なんと今回は"77"回目の連載である。ラッキーセブン。これを見たあなたにはいいことが訪れます。訪れなかったあなたは日常の小さな幸せを探しましょう。私も探します。

 これからする話は私がまだ大学一回せいだったころ、留年して病んでいた先輩と話した人生観である。大学生活の些細な一ページだが、私にとってはその後の人生でもたびたび考えるきっかけになる重要な出来事だ。このような、昔のちょっとした悩みを私と彼だけではなく、こうして読者の皆さんに共有できることを私はうれしく思う。

 大学生は自分を見つめる時間が有り余っているため、一度は人生とは何なのか、どう生きるべきなのかを考える。我々も例外ではなく二人しかいない夏の夜の部室で人生について語り合った。大学生になると、反出生主義とかいう謎の思想に講義で学ぶ機会があるらしく。ちょうどそのころ同じサークルの誰かが「別に頼んで生まれてきたわけじゃない」というセリフを口にしりしていた。

 そんな言葉も踏まえて、我々は「じゃあ、どうやって生きるべきなのか?」をテーマに話し合った。生まれてきたのは自分で選んだわけじゃない。なら死ぬのも勝手。そのことを我々は否定することはなかった。以前も書いたが、「生きることは楽しいことだ」という言葉は文字通り生存バイアスに聞こえたからだ。(これについては死者と生存バイアスというエッセイで書きました)しかし、人生を楽しんでいる人がいるのも事実。それら様々なケースを踏まえ、我々は最終的に「人生とは親に連れてこられた家族旅行のようなものだ」という認識で一致した。

 つまり、我々は両親がおせっせして生まれたわけで、それ自体は自分で選んだことではない。私たちは家族旅行のように親が望んだこの世界に連れてこられた。旅先では、楽しいこともあるだろうが、当然嫌なことがあってすぐにでも帰りたくなることもあるだろう。そこで帰ることを我々は否定しない。(たいていは我々はこの地で大人になり、両親のほうが先に帰ってしまうが。)

 しかし我々は、せっかくこの世界に生まれたのだから、この世界の楽しさのポテンシャルは探したほうがいいという意見で一致した。まさに、我々が旅行先でもその土地の魅力を積極的に調べるのと同じことだ。帰るのは構わないが、せっかく来たのなら、その土地のポテンシャルをしっかり理解した上ではないと正しい判断はできない。

 こうして我々は最後にはポジティブな結論に到達したわけだが、結局その先輩は大学からいなくなってしまった。彼の中で京大は魅力的な場所ではなかったのだろう。しかし、私は彼の決断を否定しない。なぜなら私は、彼は京大の魅力を理解したうえでここを去るという決断をしたと考えるからだ。


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