受験本番の思い出【終末京大生日記69】

 受験生時代の話も4回目となった。今回か次で最後にしようと思う。京大の工学部はセンター試験は一日目の文系科目しか計上されないため、基本的には理系科目は対策しなくてもよい。そのうち、国語50点・英語50点・社会100点で、合計200点満点だった。私は現役時代に国語で170点をとっており、これまでのセンター形式の模擬試験でも160点を切ることはなかったため、あまり対策をしてこなかった。しかし、センター試験の一週間前に2015年とかの過去問でなんと140点くらいをとってしまった。調べてみると、その年はセンター試験が難しかったらしく、私は動揺しつつも、本番で同じことが起きてもみんな解けない、そもそもセンター国語では数点しか差がつかないと言い聞かせ乗り切った。

 いよいよセンター試験当日。私は、経験則からセンター国語の前に本を読むと、文字を追うスピードが上がり、その結果現代文を高速で処理できるようになることを知っていたため、サイモン・シンの「宇宙創成」を読みながら再び金沢大学へ向かった。金沢大学は私の高校から、毎年100名程度進学しており、私は「現役で入った同級生にあったらやだな」と思いながらキャンパス内を歩いた。

 いよいよセンター試験。重要な地理の試験である。私は焼け石に水と思いながらも、必死に地理資料の天然資源や電力構成のグラフを暗記し続けた。試験を解き進めていくと、真ん中あたりで、私が直前まで見ていたヨーロッパの電力構成の問題が出た。具体的な割合まで頭に入っていたため、すぐに回答することができた。そして、最後のほうに、「ムーミンはどこの国の物語か?」という問題が出た。針葉樹が多い国を選ばせる意図だと思うが、私はムーミンはフィンランドにゆかりがあると、センター試験の一週間程度前にネットでたまたま見たため、この問題をハックすることができてしまった。

 一日目が終わり、私は我慢ができずに自己採点をすることにした。どうせ二次試験は点数にならない。どれだけ崩れようが問題ではないと思ったからだ。自己採点の結果、英語180点ちょい、国語170点くらい、そして、地理がなんと97点だった!私は過去問演習でも97点なんてとったことがないため、驚いた。そして、京大配点で文系科目で9割を超えることができ、私は「いや、京大受かったな」と確信した。しかし、これだけ点を取ってもセンターリサーチでは情報学科はなんとB判定だった・・・。私は社会で97点も取ればA判定は確実だろうと踏んでいたため、ひどく驚いた。

 センター試験の合計は900点満点中790点とちょっとだった。センター利用は全落ちが怖かったので、東京理科大,同志社大などの、一番難易度の高い大学だけではなく、法政大学なども出願した。そして、もしも京大に落ちてもいいように、早稲田大学の基幹理工学部の学系3を受験することにした。

 早稲田の理工は英語が難しいと噂なので、英語の対策をしたが、2回目で7割以上取れたので、時間もない中これ以上対策できなかった。数学は大体どこも2,3時間で5,6問解かせる同じような形式なので対策せず、理科も同じく2年分だけやった。

 そして、いよいよ早稲田大学の入試の日が来た。私は相変わらずしけた顔で試験会場に向かった。早稲田の理工は国立大と併願して受ける人が多いため、私は周囲を見渡し、「こいつらとはまた戦うことになるな、だれや?誰が賢いんや?」とか思っていた。センター試験と同様、早稲田の試験でも私は運命に愛されたらしい。二次試験の数学では京大の過去問に誘導が付いたほぼ同じ問題が出題され、京大受験生の私にとっては見たことがあるうえに誘導までつけられて、いとも簡単に解くことができた。これだけで数十点のアドバンテージだが、幸運はこれだけにとどまらない。難しいと噂の英語の試験で、なんと語学の試験にもかかわらず、「論理ゲート」が出題されたのである。論理ゲートとは、AND・NOT・ORなどの論理演算を行うコンピューターの素子でこれを組み合わせて計算を実行するのだが、初めて見た人とってはさっぱりわからないだろう。しかし、私は情報学科志望であったため、図を見ただけでなにをやっているのか理解し、この難しいとされる長文問題も難なく処理できた。この時点で合格は確定しているといっても過言ではないが、さらに、ダメ押しのように化学の試験で適当に書いた化合物が当たっていた。

 私は合格を確信し、気持ちよく試験会場を後にした。早稲田大学は当時から入試定員厳格化と、推薦入試者の増加で、一般受験はかなり厳しいと言われていたが、数学と英語の大問を1問ずつただでもらった私は落ちるはずがなかった。心配して東京の大学に進学した兄が早稲田まで応援に来たようだったが、その心配とは裏腹に、私の中では合格は確実だった。

 そしていよいよ京大入試。私はルーティンを作るため、現役時代と全く同じホテルに泊まり、夕飯もまったく同じ店で全く同じオムライスを食べた。さらに、移動も七条まで歩いて京阪で出町柳まで向かうという全く同じにそろえた。

 国語も英語もそれなりに、いよいよ山場の数学。私は3完は取れたが、最後の論証があっているのか分からなかった。四面体を二分した二つの立体の合同から、体積が等しいことを示す問題だが、三角形の合同ならともかく、立体の合同を論証する手法は高校の範囲にはない。私はどうしたらよいかわからず、とりあえず、2、3個の辺と角が等しいことを示し、「両者は全く同じ図形だ」と書いて回答を終えた。

 後日、この問題の3Dモデルを作りツイッターに上げている人がいたが、あの二つの立体は回転させるとぴったりと重なるらしく、これを作問した人はそう書いてほしかったとすぐにわかった。まあ、「回転させると重なる」っていうのも合同条件として形式的に整備されてるかと言われれば微妙だけど。

 ホテルの風呂で「最後の立体取れれば4完か~」などと思っていたところ、解答速報で領域の問題で点を一つ抜き忘れていたことに気が付きショックを受けた。ちなみに、確か駿台の解答速報も点を抜かないという同じミスをしていたため、私は心強かった。

 そして、いよいよ理科である。数学と並び、京大入試を決める最重要の場。なんと京大の理科は休みなしで3時間連続!母親はそれを聞いて「女子不利じゃない?」というリアクションを示していたが、確かにそうかもしれない。京大に女子枠作るくらいなら、理科を1時間30分の2科目で分けるなどの対応をとってみても悪くなかっただろう。

 最後の理科の前の昼休み、早稲田大学の合格発表がちょうど重なっており、私はスマホで自分の受験番号を確認し、気持ちはホクホクだった。親から、「番号あるね」というLINEをもらって私はようやく難関大の合格を一つ見せることができて少し誇らしかった。

 理科は、前年度に物理で固定端と自由端の条件を与えなかったという作問ミスがあったため、怒涛の訂正ラッシュ。物理はどう考えても必要のないところまで訂正していたし、化学はなんと問題が丸々一つ消えた。さらに、確か問題に単位が与えられていないなど、かなりお粗末だった。

 その年の物理はかなり典型寄りで、私は8割取れたのではないかと思った。(実際には3問雪崩れて7割後半)私は化学が苦手で最高でも5割くらいしか取れたことがなかったため、化学が荒れたこの年はかなりありがたかった。

 いよいよ京大入試が終わり、私は一抹の寂しさを覚えた。まだ、北大の後期が残っていたが、私は早稲田大学の合格を手にした今、北大の勉強をする気に離れなかった。

 これは後から気づいたことだが、ここで私は北大の勉強をするべきだったのだ。私立大学の理系の学費はかなり高く、確か早稲田も都の西北奨学金を使っても100万円程度かかった。そして、私が探して、兄が下見をした東京の下宿候補は月7万。私はすんでのところで184万×6年 = 1116万円の負債を社会人で背負うことになるところだった。やはり、早稲田の学歴もマイナス一千万にはかなわない。ちなみに、京大では授業料免除があったため、私は入学金込みで授業料160万くらいと、下宿が5万×12×6=360万円で、合計520万円と半額以下に抑えることができた。以前、私が大学に入学するまでの学費を計算したことが合ったのだが、200万円くらいだったそれに、今回の額を足すと、親は私を大学院に行かせるために、学費360万円・生活費360万円の合計720万円を使ったことが分かる。ありがたい限りだ。これでも高いが、中高一貫の学生は小5・小6の塾と6年間の中高だけで800万程度の学費がかかっているため、恐ろしいことである。高校を卒業する前に大学院を出られる以上の額がかかっているのだから、そりゃ大学受かるよね。

 とまあ、長々と格差を語ってきたわけだが、受験生時代の話に戻ろう。合格発表の日、私は自宅の二階で自分のパソコンで合格発表のページを開こうとしていた。しかし、当然サーバーが重くなかなか開けない。何分もそうやっていると、内線で親から「番号があった」と伝えられた。私は、自分で見る前に親から伝えられたため、興ざめしてしまったが、受かっていてよかったと思った。そして、わかりにくいと評判のアルファベットの学科表記もきちんと情報学科だった。

 こうして、私の受験時代は幕を下ろしたのだが、ここから怒涛の新生活が始まる。まず、私は、プレッシャーをかけないため、下宿を受験の際にとっていなかった。そのため、合格の喜びを味わう間もなく、サンダーバードで再び京都に向かい、下宿を探した。京都駅前の不動産屋で5万円程度で大学にとにかく近い物件を探し、2件だけ内見をした。私は、大学に合格したふわふわした気持ちで、恥ずかしながら、「大学に入ったらAIを作りたい」などと、案内してくれた不動産屋の女性に夢を語った。彼女のほうもこんな自分に対し、受験生時代の思い出を語ってくれて、私はうれしかった。(東京で会った半分詐欺師みたいな不動産屋とは大違いである)

 私は明るいほうではないが、その日の深夜にサンダーバードで金沢に帰る私は希望に満ちていた。一年遅れてしまったが、これから必ず自分は世界的に有名な人になれるとまだ信じていたからだ。いまはただのサラリーマンだが、私はこの時の自分を裏切りたくない。あの時に車窓の暗闇を見つめていた目を私はいつまでも持ち続けていたい。


P.S.
合格した年の開示点数は1000点満点中680点くらいでした。内訳は、国語4,50/100点くらい、数学120/200点、英語100/150点、理科120/200点くらいでした。(英語1年で倍になるとかお気持ち採点すぎんか?)合格者の中での相対的な位置ですが工学部の合格者平均は超えていました。しかし、情報の合格者最低点の+8点くらいで、結構ぎりぎりでした。地理でロト6当ててないとちょっとやばかったくらいです。余談ですが、最近AI時代で、情報学科の難易度が上がり、情報の平均点が地球工の首席よりも高かった年なんかもあり、インフレしています。個人的には定員120人とか150人とかにしてもよくね?とかって思っています。

 今回で受験生時代の話は最後です。全部読んでくれた人、ありがとうございます!まだ読んでない人は全部読んでね。

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