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卒業式の歴史 ~限られた人の到達点から全員の感動へ~【卒業式の教育学2】

 前回、「卒業式=感動の涙」というイメージは日本の特徴であることを述べました(前回はこちら)。今回は卒業式の歴史を見ていきます。学校教育制度が出来たばかりで試行錯誤していく中で、卒業のあり方も変化していきました。


1.卒業式のない時代

 明治時代に全員就学の学校制度が整備される以前、子どもが教育機関にいつ入るか・いつ出るかは特に決まっていませんでした。江戸時代の寺子屋では、おおむね7~9才頃に入学(登山"とうざん"や入門などとも言った)しますが、10才を超えて入学する人もいました。期間は1年未満で終える人も6~7年通う人もいたようです(文献①p.2)。入学時期は初午(はつうま:立春後最初の午の日)または正月稽古始めが多かったようですが、指定日はありませんでした(文献②p.42)。卒業式の前提条件となる人々が一斉に入学して一斉に卒業するという制度自体が浸透していなかったのです。
 また、そもそも義務教育ではなく寺子屋や藩校など教育機関に通わない人も珍しくありませんでした(※1)。

浮世絵:歌川国貞「稚六芸の内 書数」

2.小学校の卒業試験 

 1872年(明治5)に学制が出され、近代学校制度が始まります。当初の小学校は進級試験があり、半年ごとに行われる試験を合格することで次の「級」に進みます。下等第8級から始まり下等第1級で合格すると下等小学が終わり、上等小学も同じく第8級から第1級までありました。なお、試験の不合格者は(地域により差異はあるが概ね)1割未満と厳しい試験ではなかったようです(文献③)。しかし、そもそも学校というものが出来たばかりのため就学率を上げることが第一の課題でした。就学率は1884年地点でも50%程度であり、さらに在籍していても継続して通えていない子どもも3割以上いました。試験で不合格になり進級できない人よりも、試験を受けられずに原級留置になる・学校に通い続けられず退学してしまう人の方が多い状態でした(文献④pp.121-124)。

就学率(文部省『学制百年史 資料編』「第1表 学齢児童数および就学児童数」より算出)

 当時、卒業証書とは「下等小学第八級卒業候事(そうろうこと)」といったように各級の試験を合格した証明書のことを指し、学校全体を終えたことのみを示すものではありませんでした(文献⑤p.57)。証書の授与は試験を受けた当日に準備が整った級から行われました(同p.70)。合格に喜ぶ子どもがいれば落第に泣く子どももいる光景は、「集団が共に感動で涙する」現在の卒業式とは大きく異なるものでした(同pp.20-21)。また、試験は半年に一度行われ、ほかに臨時試験もあったため、現在のように卒業=春という季節との結びつきもありませんでした。

明治14年(1881)の卒業証書 所蔵:甲府市藤村記念館(出典:khirin、CC BY-NC-SA 4.0)※2

 ただし現在と通じる点として、多くの子どもたちは着飾って試験に臨みました。成績優秀者は証書だけでなく商品も授与されるなど、子どもや保護者にとって晴れ舞台でした。「美服」がないために試験を受けない子どもまでおり、試験への過度な偏重は教育上問題とされるほどでした(同p.64、文献⑥p.160)。

3.証書授与式典の独立 ~「卒業」の確立~

 第一次小学校令が出された1886年頃になると就学率の増加や試験科目の増加によって、試験当日ではなく別日に証書授与を行う必要が出てきました(文献⑤p.94)。これにより式典に向けた準備が可能になり、式典自体が大規模な行事となっていきました。式典では証書授与の他、科学実験や歌唱など子どもの学習成果披露もあり、就学奨励のため地域の人々に見せる役割や学校の力を対外的に誇示する役割もあったとされます(同pp.98-99)。この時期の卒業式は盛り上がるイベントでした。
 また、85年の文部省通達(※3)により一等級の学修期間が半年から一年へ変更となり、現代と同じく「一年生」「二年生」という区切りになっていきました(文献⑦p.62)。これにより卒業が年1回となります。92年には文部省から全国的に学年は4月1日始まりにする通達があり(文献⑧pp.109-110)、1900年小学校令施行規則において条文化されました(※4)。入学は4月で卒業は3月という現在と同じ設定となります(※5)。なお、小学校の進級試験は1900年第3次小学校令にて廃止されます。
 そして、全課程の修了のみを「卒業」、学年の修了を「修業」と区別するようになり、1891年の小学校教則大綱において全ての課程を完了した者に「卒業証書」を授与すること、各学年末に「修業証書」を任意に出してもよいことが記されました(文献⑨p.157)。卒業という言葉が現代と同じく学校の区切りを示すようになります。

4.卒業式の定式化と「感動の場」化

 1891年の祝日大祭日儀式規定など学校儀式について様々な規定が出されるようになり、卒業式についても各自治体が形式を規定するようになりました。卒業式の娯楽要素はなくなっていき、1900年頃には卒業式が定式化します(文献⑤p.115)。式の雰囲気は厳粛になっていき、細かに決められた所作を規律正しく実施する卒業生の姿が評価されるようになります(同pp.120-122)。
 また、記念写真や記念植樹(※6)など学校の記憶を形に留める活動も広まりました(同p.130)。学校という共同体の一員であること、そして卒業後もその学校の卒業生共同体の一員であることが大切にされるようになります。下記のように、当時の小学校の同窓会の記録も残っています。

『上山小學校同窓會會報』1903年、所蔵:甲府市藤村記念館(出典:khirin、CC BY-NC-SA 4.0)

 学校での様々な儀式は人格形成において重要とされました(文献⑩ ※7)。卒業式は「愛情同情等の如き諸種のよき感情を養成」(文献⑪p.13)する場であり、感極まって涙することが理想的な姿とされました(文献⑤pp.148)。学校の仲間のつながりが重要視され、在校生の送辞と卒業生の答辞が行われるようになります。もともと「答辞」は卒業生が校長などの祝辞に対する返礼として読んでいたものでしたが、次第に在校生の「送辞」に応えるものになっていきました(同p.151 ※8)。
 そして、感動の場を形成するのに重要とされたのが歌唱です。学校教育での「音楽」は1872年の学制当初は軽視されていましたが、79年に研究機関である音楽取調掛が設置、91年には祝日大祭日儀式規定に伴いそこでの唱歌について文部省訓令が出され、学校に歌唱が広まりました(文献⑫pp.19-22)。歌唱が感情教育に有用と考えられていたことは、当時の教育法令にも見られます。

第二十四条 唱歌 初等科ニ於テハ容易キ歌曲ヲ用ヒテ五音以下ノ単音唱歌ヲ授ケ中等科及高等科ニ至テハ六音以上ノ単音唱歌ヨリ漸次複音及三重音唱歌ニ及フヘシ凡唱歌ヲ授クルニハ児童ノ胸膈ヲ開暢シテ其健康ヲ補益シ心情ヲ感動シテ其美徳ヲ涵養センコトヲ要ス

出典:文部省『小学校教則綱領』1881年(太字は筆者)

 卒業式歌が次々と作られ、共同体として共に歌うことで卒業に関する観念や感情の規範性は補強されていきました(文献⑤p.206)。

5.戦後 「自発的」に創造する卒業式

 終戦後、様々な学校儀式が廃止され、入学式と卒業式が数少ない儀式となりました。卒業式は学校生活最大の節目として重視されるようになります(文献⑤p.214)。
 民主的な学級集団を目指す教育実践が盛んに展開される中、卒業式は権威に向けた形式的な儀式ではなく子どもたち自身が作りあげることが目指されるようになりました。1955年には、この頃教育研究に大きな影響をもっていた群馬県島小学校校長の斎藤喜博(文献⑬p.1)が「呼びかけ形式」の卒業式を行いました。ピアノ伴奏にのっての入場、子ども一人ひとりの思い出を語る台詞など現在各地の卒業式で見られる形式につながる実践が行われました。斎藤校長自身は62年には台詞形式をやめますが、映像や書籍で広められたこの実践は各地の卒業式に影響を与えたと考えられます(文献⑤pp.215-221、※9)。

学校に伝わる前例をみては、十年一日のように同じ形の行事をやっていれば楽だかしれないが、それは、子どもたちに惰性で形式的に行動することを教え、そのものに直接感動するのではなく、「仰げば尊しわが師の恩」という悲しそうなメロディーから、習慣的に悲しみをさそい出されるだけの、一般的な概念的な子どもをつくってしまうのだと思っている。ほんとうの意味の感動は、それによって自分の意識を変革されるものだが、私たちは創造的な行事によって、そういう感動を子どもたちにうえつけたい。そうでなければ、行事など意味がない。こんなに先生たちが骨を折り、時間をかけて、行事のやり方を工夫する意味はない。

出典:斎藤喜博『学校づくり』pp.297-298、1958年

 また、63年「高校三年生(舟木一夫)」などの卒業ソングや、79年開始の「3年B組金八先生」などテレビドラマで描かれる卒業式など、大衆娯楽を通して感動的な卒業式のイメージはさらに強化されていきました(同pp.220-227)。

 こうした流れを経て、卒業式は学校の一大行事となり、卒業式=感動というイメージが広く定着することになりました。
 しかし、個人としてそのイメージに無理に合わせる必要はありません。今回の参考文献の中でも中心であった『卒業式の歴史学』も、著者の卒業式に対する違和感が研究の出発点でした(文献⑤p.255)。卒業式のあり方は決して不変のものではなく、時代で変化してきたことは見てきた通りです。
 次回、こうした歴史を経た現在、卒業式は学校教育においてどう位置付けられているのか見ていきます。(次回はこちら

【注釈】

※1 どのくらいの子どもが寺子屋に通っていたかは、人口や就学の正確な統計が取られていないため推定が難しいとされる。子どもの就学期間や時期も多様であり、寺子屋は民営教育機関のため開業・廃業も頻繁にあった。推定を試みた研究では、海原(1988)は周防大島郡三蒲村について就学率を26.7%としている。寺子屋への就学率を推定する研究については、木村(2009)に詳しい。
※2 甲科は通常課程を指す。各地域により簡易内容の乙・丙科が置かれた。
※3 文部省通達(第16号)「公立小学校ニ於テハ修業期限一箇年ヲ 以テ一学級トスヘシ此旨相達候事」1885年
※4 条文は以下の通り

第二十五条 小学校ノ学年ハ四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ル
      小学校ノ学期ハ府県知事之ヲ定ムヘシ

引用:小学校令施行規則(1900年)

※5 なお、1909年から1940年国民学校令までは4月入学と別に9月入学の学年を置くことが可能であり、ごく一部ではあるが実施した学校も存在した。しかし、必要な予算や業務の増加に対する懸念などから浸透しなかった。当時の実態や議論については柏木(2013)に詳しい。
※6 小学校における記念植樹は、1895年に文部次官牧野伸顕がアメリカのArbor Dayと称する植樹日に影響されて「学校樹栽」を導入したことに始まるとされる(文献⑭p.70)。
※7 例えば、明治大正期の教育学者・心理学者の寺内穎(エイ)は教育における儀式の効果について以下のように記している。

儀式は訓練の一大機会である。児童の感情を陶冶する上に於て、重大なる価値があるものである。同情であるとか、崇敬であるとかいふやうな感情を養成し、愛校心、愛国心を鼓舞作興し、克己(こっき)反省、自己反省、自己革新の機会を与ふる等その価値は一々枚挙する遑(いとま)がない。 

出典:寺内穎『訓育要義』金港堂 1907年 p.7(カッコは筆者)

※8 祝辞に対する答辞など1890年頃までの卒業式の形式については、有本(2009)に詳しい。
※9 例えば、1963年公開の記録映画「芽をふく子ども」は授業や学校行事など島小学校の1年間を紹介している。

【参考文献】

①宮嶋秀光・平山勉・浅井厚視「寺子屋師匠の教育力 : 愛知県海部地方の筆子塚等の調査を通して」『名城大学教職センター紀要』7、pp. 61–75、2010年
②水本徳明「明治期長野県の小学校における学校年度@学校麿の制度化過程」『学校経営研究』19、pp.41-55、1994年
③杉村美佳「明治期における等級制から学級制への移行をめぐる論調 —教育雑誌記事の分析を中心に—」『上智大学短期大学部紀要』36、pp. 19–31、2015年
④山根俊喜「明治前期の小学校における等級制,試験と進級 ―『日本的』学級システムの形成(1)―」『鳥取大学教育地域科学部紀要 教育・人文科学』11、pp. 119–146、1999年
⑤有本真紀『卒業式の歴史学』講談社、2013年
⑥麻生千明「須永ヨシの卒業 (進級) 証書に関する考察 ―『教育令』 期 (明治 10 年代) の学校制度の変遷を反映―」『足利工業大学研究集録』52、pp. 27–34、2017年
⑦佐々木正昭「学校の祝祭についての考察: 学芸会の成立」『人文論究』571、pp. 52–70、2007年
⑧佐藤秀夫『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社、2005年
⑨麻生千明「須永政五郎とハツの卒業証書と修業証書に関する考察」『足利大学研究集録』54、pp. 154–162、2019年
⑩天野正輝「明治期における徳育重視策の下での評価の特徴」『龍谷大學論集』471、pp. 86–105、2008年
⑪『教育時論』607、開発社、1920年
⑫鈴木治『明治中期から大正期の日本における唱歌教育方法確立過程について』神戸大学博士論文(乙2844号)、2005年
⑬鈴木秀一「教育方法研究の課題:原点に立ち返って」『教授学の探究』29、pp. 1–9、2015年
⑭岡本貴久子「明治期日本文化史における記念植樹の理念と方法―本多静六 『学校樹栽造林法』 の分析を中心に―」『総研大文化科学研究』10、2014年

◆文部省『学制百年史 資料編』1981年
◆天野郁夫『[増補]試験の社会史』平凡社、2007年
◆海原徹 『近世の学校と教育』 思文閣出版、1988年
◆木村政伸「前近代日本における識字率推定をめぐる方法論的検討」『筑紫女学園大学・短期大学部人間文化研究所年報』20、pp. 81–94、2009年
◆梅村佳代「寛政期寺子屋の一事例研究 ―伊勢国 『寿硯堂』 を中心にして」『教育学研究』532、pp. 151–160、1986年
◆外山信司・髙野良子「佐倉藩校における初等教育:東塾・西塾を中心に」『植草学園大学研究紀要』11、pp. 65–76、2019年
◆太田素子「『継声館日記』 にみる近世在郷町の識字状況」『和光大学現代人間学部紀要』2、pp. 163–176、2009年
◆竹ヶ原康佑「仙台藩校・養賢堂蔵書と洋式兵学-重臣中嶋虎之介の軍制改革政策の背景」『図書の譜:明治大学図書館紀』17、pp. 273–280、2013年
◆柏木敦「義務教育段階における二重学年制に関する研究: 戦前期日本における二重学年制の導入とその反応」『人文論集』48、pp. 71–91、2013年
◆有本真紀「明治前期・中期における卒業証書授与式の意義: 式手順の検討を通して」『立教大学教育学科研究年報』52、pp. 5–29、2009年
◆東京高等師範学校附属小学校編『学校生活 : 東京高等師範学校附属小学校に於ける訓練に関する研究報告』茗渓会、1902年
◆片桐芳雄「明治初期における公立小学教則の研究 ―岡山県を対象として―」『愛知教育大学研究報告. 教育科学』31、pp. 53–70、1982年
◆鏡中条學校「小學甲科八級前期卒業証書」1881年(甲府市藤村記念館所蔵)国立歴史民俗博物館Khirin:https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_rekimin_h/11948064 (参照 2023年3月13日).
◆上山同窓會『上山小學校同窓會會報』1903年(上山市立図書館所蔵)国立歴史民俗博物館Khirin:
https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/kaminoyamayamadake/00005-23(参照 2023年3月13日).
◆斎藤喜博『学校づくり』国土社、1958年


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