映画は誰の物?って話。

季節が夏から秋に変わる時に明確な切れ目が無い様に、「コロナ渦」という物もなんとなく収束の季へと移ろいでいる。

だからこそ何でもオッケー、とはまだ言い難いが日常は戻りつつある。いや、戻ることは出来ない。次の段階へ進んだと言うべきか。

下北沢の片隅に、小さな串焼き屋がある。
モツ煮込みにラー油を混ぜた肴が妙に美味い。
そこに、今製作中の映画のスタッフと仕事終わりの食事がてら肩を並べた。
彼らとしっかり飲むのはそれが初めてだった。
にも関わらず、僕はとても「懐かしい」という気持ちで溢れていた。

こうして居酒屋に集う、という景色も久々なのだが、それ以上にその内容がとても懐かしかったのだ。
まず全員が喫煙者というヘイズっぷり。いつぶりの光景だろうか。
そして話題は当然、映画の話になる。酒も進む。
遠慮の塊となった最後の一本串が冷めていくのと反比例する様に、その会話は熱を帯びていく。これだけ条件が揃えば、僕の脳内は自然と学生時代へタイムスリップする。

相変わらず出自も現在も何者かよく解らない僕の仕事だが、元を正せばそれは「映画」になる。
大学に入り、映画を学び、映画の撮影に参加し、映画サークルに入部してないくせに部室に入り浸ったり、仲間と飲み明かしたりしていた。正に映画漬けの日々だ。

少し話はズレるが、僕は演劇仲間と酒を飲む時、演劇論を語る、或いは語られる事が大嫌いだ。それはつまり、自分の出自が演劇ではない「よそ者」の感覚があるからなのかも知れない。僕なんて語る立場じゃないんです、と。
だが一方で、今や仕事の歴で言ったら圧倒的に「演劇人」になっていると言うのに、映画に関わる人間が映画を語る空間は大好物なのだ。

「ガクさんは、どうしてワガママ言わないんですか?」

1人のスタッフに聞かれた。
彼は僕より年下だが、映画の世界への浸かり方で言えば先輩とも言える。
長男の性なのか、昔から公私共にワガママを言うのが下手だ。
パスタが食べたくても、周りがカレーで盛り上がっていれば「ここはカレーしかないな。そういえばカレーが食べたかった気がしてきた」というタイプの人間だ。
そんな僕の信管を見抜いた一言に、少しぎょっとする。

「映画はプロデューサーの物だから。それに一番おもしろい形で応えたいだけだよ」

そう答えた。

僕は長年、映画はプロデューサーの物であるという持論を持ってきた。
これは映画に限らず、演劇などの作品全般にも通ずる。

何故か。理由は大きく、2つ。
1つ。アカデミー賞において、
『作品賞』のトロフィーを受け取るのはプロデューサーであるからだ。
(昔聞きかじった知識なので例外や差異があったらごめんなさい)
『監督賞』や『主演男優賞』ではなく『作品賞』。
作品そのものを称賛する際、代表してその賛美を受けるのがプロデューサーならば、映画はプロデューサーの物だ、という理屈だ。

2つ。作品において一番難しい事は「機会を作る事」だからだ。
それは現実的な「お金」の話でもあり、「場所」の話でもあり、「人選」という要でもある。
当然だが、映画や演劇は自然発生しない。
必ず「言い出しっぺ」が居る訳だ。その「言い出しっぺ」がこの場合プロデューサーとなる。だから、映画はプロデューサーの物だ、と。

要するに僕の考えとは、
『作品はプロデューサーが買った世界で最も贅沢な買い物』
という物なのだ。

「ガクさん、それは違いますよ!映画は監督の物です!」

日々様々な現場で、生の声として生きる彼らはそう返した。
いや、確かにそういう側面もある。
けどね…と言おうとした時、言葉が出なかった。
この若き言葉を、ある意味で抜身の日本刀如くなこの言葉を、鞘に収めさせる言葉が見つからなかったのだ。
なんだかまるで、自分が若き頃の反骨精神やロック精神を忘れ、社会に迎合するダサい「おじさん」になってしまった様な気がした。
本当にそうなのか?いや、たしかにおじさんではあるが。にしても、そういうおじさんなのか俺は。
思わず自問自答する。
「映画は、誰の物なんだ?」

そこで少し考え始めた。
まず、プロデューサーとはそもそも一体何なのだろうか。

つい「お金」絡みの問題が多いプロデューサーは、つい汚い存在に見えてしまい、或いは見せやすい事から、つい多くの作品で悪役として描かれがちだ。この罪は非常に大きく、一般社会にまで「プロデューサーはあくどい」という印象が染み渡っている気がする。だから、このプロデューサーに迎合するという行為がどうにも「ゴマすり」「おべっか」に似た様相を拭えないのだろう。

実際、長年仕事をしていると売上や集客などの「数字」しか考えていないプロデューサーというのは、稀にだが実在する。
しかし、ここでハッキリ言おう。
それはまだマシだ。

一番の巨悪は「何も考えていないプロデューサー」だ。

プロデューサーという仕事の本質を全く理解しておらず、「僕は素人なので脚本の事は解らない」と言ってのけてしまう様なプロデューサー。
何を言う。この世で最も脚本を読める必要がある職業は、俳優でも監督でもない。プロデューサーだ。

例えば、映画や演劇の現場を「レストラン」に例えよう。
となると、プロデューサーはいわばオーナーだ。
提供される料理の味わいを作る食材その物は、俳優に他ならない。
これを活かし、美味しい「作品」というメニューのレシピを開発するのが脚本家。
そのレシピに従いつつ、柔軟に厨房を指示していく料理長が監督であり演出家となる。
そこに、下ごしらえをしたり調理をしたりするシェフが、現場スタッフ。
もちろんフロアスタッフも欠かせない。彼らのサービスの上で初めてレストランは成立する。
それら全ての工程を経て、お客様のテーブルへと料理=作品が届けられるという仕組みだ。

オーナーは、店舗を用意して、従業員を雇用し、店を経営する。
その際、売上を徹底重視したレストラン経営をするオーナーが居たとする。
どうやればお客が集まるか、ブームに乗れるか。
市場とトレンドを読んで、作って欲しいメニューをレシピ担当と料理長に伝える。
それが仮に料理長に意に反する物であったり、
人気店の猿真似のようで美学に反する物であったりする事もあるだろう。

しかし「従業員の為に店を絶対黒字にする」という方針そのものは、素敵かどうかはさておいて、決して間違っていないと僕は想う。
それもまた1つの方法だ。否定は決して出来ない。

では、一番困るレストランオーナーとは何か。想像してみてほしい。
1つ、味音痴だろう。
何を食べても「美味しい」と良い、何が欲しいとも何が要らないとも言わない。ただ無作為に場所と従業員だけが一同に集められる。
料理や食事そのものに全く関心が無いレストランオーナー。
これでは誰もが頭を抱える。
そんなオーナーが用意した厨房を見れば、中華の達人とフレンチの風雲児、和食の重鎮が顔を揃えている。このメンバーで一体を何を作ればいいのか?

「僕素人なのでよくわからないから、とにかく美味しい物作ってください」

これで良いレストランが出来る訳が無いのだ。

逆に、この一見不揃いなシェフが揃っていたとしても、オーナーがひとこと「僕はこの3人が作る本気のオムライスが食べてみたい!」と言ってみたらどうなるか。
成程、オムライスか。ではこの3人、3ジャンルからのアプローチでオムライスを作るとしたら、どうなるかな。
こうやってメニュー作りが始まる。これは先程の例とは違い、結果に期待が持てる筈だ。

このオーナーとしての自覚が無いプロデューサーが多過ぎる。
オーナーなのだから。言い換えれば1番目の客なのだ。
貴方が食べたい物を注文しなければ始まらない。
それを言えるのも貴方だけなのだ。
だからこそ、レストランは「オーナーのもの」だ。

ここまで例えてようやく気づけた事がある。
「映画は誰のもの?」という問だ。
そもそも「映画」の定義が違うのではないだろう。

例えの中で考えてみれば、「レストランは誰のもの?」という問いの答えは「オーナー」とすぐに答えが出る。

では、先程の「オムライス」は誰のものか。
確かにオーダーしたのはオーナーだが、これをオーナーの物というのは若干の語弊を感じる。オムライスはやはり、作った料理長の物ではないだろうか。

つまりだ。
「映画」の中に、「レストラン」と「オムライス」が混在してしまっているのでないだろうか。だから、誰のものなのか難しくなっているし、そもそも「映画は誰のもの」という問いそのものが間違っているのかも知れない。

更に例に乗って想像を膨らませれば、
「オムライス」はテーブルへ運ばれた時点で「お客様のもの」にもなる。
同じオムライスでさえまた、その所有権が揺れ動く。

「映画は誰のものですか?」

今でも僕はその問いに「プロデューサーのものです」と答える。

しかし、それだけが答えではない。
「監督のもの」「俳優のもの」「僕のもの」「ワタシのもの」
全部が正解であり、全部がちょっと不正解なのだろう。

モヤモヤしていた脳内が少しスッキリしてきた。
僕が決して、ダサいおじさんに成り下がっていないぞ。
もっとその広さを知ったのだ、若者よ。
今に見てなさい。一番美味いオムライス、作ろうじゃないか。


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