しろくまのうんち、の話。

いつぶりの更新だろうか。
あまり自分を「忙しい」と評する人間は好きではない。スピリチュアルな信仰をしている訳ではないが、割と「言霊」は信じるタチなので、「忙しい」と口にするとその後予定されていた楽しい事まで逃げてしまう様な気がするからだ。が、今現在は紛うこと無く忙しい。

決して胸を張れるほど売れっ子でも無ければ、引っ張りだこの人気者でもないと自負している。ではこの多忙さは何故にやって来るのか。漠然と、自分の計画性の無さ、言い替えればスケジューリングの下手さがその原因だと思っていたが(それも一端は担っているかも知れないが)どうやら違うらしい。僕は極端に「休めない人間」らしい。

らしい、といのは最近知人に言われたからだ。
「ガクさん、いつ休んでるんですか?」
物を書いてない時は休んでる物と思っていたが、言われてみると「1日ボーッとする」様な日をあまり好まない。天性のせっかち、じっとできない性分。幼い頃、母親は僕の事を「しろくま」と呼んだ。
ウロウロ、ウロウロと四六時中、位置定まらぬと右往左往しているからだ。見てるだけで疲れるからちょっとは落ち着けとよく怒られた。
それ程の人間だ。休み知らズ。不養生そのものである。

そんな昔からのしろくまには1つ、大事な習性がある。
じっと出来ないついで、とも言うべきか、常に「何かを知らないと気がすまない」という非常にやっかいな性質を持っているのだ。

其れは漫画でも良い。本でも良い。映画である事が多いが、ドキュメンタリー番組や、別にお笑いの番組でも構わない。難なら近所を散歩して、案外通った事のない裏路地を通ってみる、でも良い。
とにかく新しい事を知らないと気が済まないのだ。

小学生の頃、母校では校長先生が理科を受け持っていたのだが、宮崎駿ヨロシクな風貌のその先生は「君達はこの理科室に入る時より、出る時のほうが1つ賢いのだ」と言った。至極当たり前だが、幼いしろくまには「確かに!!」と電撃が走った。以来、「昨日より今日の方が賢いか?」と自問自答してしまい、仮に答えを窮する様な事になれば落ち着かなくなってしまったのだ。

結局、予定が無い時間は基本的に何かを見ている。
所謂「インプットの時間」を嗜んでいる。大袈裟か。でも本当なのだから仕方ない。それに、何も無鉄砲にインプットをしている訳でも無い。それなりにちゃんとした理由と論理がある。
これは極個人的な意見だし、決して全クリエイターがそうだとは思わないし、難ならかなり下品な比喩なのだが、我ながら中々言い得て妙なのでここに記す。
僕はアウトプットを「排泄行為」だと思っている。

「汚い」とか「臭い」が言いたい訳ではない。あくまで例えだ。
「お客様は排泄物を好む大変紳士的な性的嗜好の持ち主である」と言いたい訳でもない。あくまで例えだ。
アウトプットを排泄とするならば、当然インプットは食事である。
食事無き排泄は不可能。だからこそ、食事を大事にしている。それも、出来るだけ沢山の排泄が出来る様に、体調に気を配りながら、よく噛んで、よく味わって、よく食べなければ、何も出ないのだ。

この例えを広げるとするならば、何かを観て、好きか嫌いかを見定めるのが「味覚」であると言えよう。飲み込んで、学び考えるのが「消化」だ。そこから自己流を形成し、再構築するのが「腸」であると言える。
味覚が偏った偏食ではイケナイ。自然と同じ味ばかりを好み、やがて身体を壊してしまう。消化が下手ではイケナイ。しっかり溶かさなければ、食べた時と同じ形のまま出てきてしまう。腸の働きが弱くてもイケナイ。文字通り、水っぽいアウトプットになってしまう。
かと言って余り食べ過ぎてもイケナイ。膨らみきった腹は、やがてその内包物を入り口に向かって逆流させてしまう。それも、食べた時の形をある程度残したままで。

久々の執筆がこうも汚い話で大変恐縮なのだが、本当にそう思っているのでこればかりは仕方がない。重ね重ねではあるが、あくまで例え話だ。
しかしこの例えこそが大事なのだ。
我々が日々描く物語も、壮大な例え話に過ぎない。
自分の感情や感覚、あの時の匂いや風景を例えるから共感出来る。
この文章だって「単語」という物に自分の考えを例え続ける連続と言えるのかも知れない。

柄にもなく真面目な話をしてしまった。
と思う反面、この文字通りの「便所の落書きさ」加減が、中々に自分らしいとすら想える。

変な時間に目を覚ましてしまったしろくまは、かくして夜食を貪る。
快便な日々を夢見て。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?