投稿しなかった話

先に言っておくが、これは「出来なかった」のではない。
「しなかった」話である。

遡る事2ヶ月程前。
毎年の恒例の舞台公演を控えていた。
約3ヶ月のレッスンを経たメンバーが、卒業公演として舞台を行う。板の上に立つのは、演技を今一度学び直したいと勇んだ経験者から、人生で初めて「演技」をする者まで様々。そのバラバラな仲間が奇妙な事に集まり、その結果ここでしか作れない「同期」と言う仲間となる。
それが「ACT HOUSE」だ。

このワークショップで僕は毎年講師、そして卒業公演の脚本を担当している。メイン講師である演出家を担任とするなら、副担任とでも言うのだろうか。今年で6期生、もう6年分もの生徒を送り出してきた。彼らだけで小学校1学校分の学年が取り揃うと思うと、時の流れを感じる。

その公演は、翌日に本番初日を迎えた段で中止となった。
一言で言えば流行りにのってしまったのだ。

当然誰も責められない。出来る限りの配慮は全員した筈だ。
その上でもあり得るという事は、全人類がこの2年間で学び尽くしたに違いない。だからこそ、自分の無力さを痛感させられた。

僕は脚本家である。
小説家では無い。
どんな文章も、俳優がそれを口にしないと意味を持たない。
上演される事で完成する、最後の一匙を自分では埋められない職業である。
予測できない完成形の姿を、言わば「まぁこんなに大きくなって」と愛でる我が子の様に愛でるのが魅力である。
しかし時に親は、我が子の病の前に無力なのだ。
出来る事なら代わってあげたい。
代われた人など居ないのに。

ではこの無力さを前に、僕達脚本家は何をすべきなのか。

これは誰かのそれを批判するという意味合いでは無く、あくまで僕の好みとしての話なのだが、「現実を超える幸せを描かない」というルールがある。

例えば物語に魔法が出てきたとしよう。
その魔法のお陰で色々な超常現象をお越し、テストをカンニングしたり、空き地のガキ大将を懲らしめたり、ありとあらゆる「ズル」が出来る。
これを観た時、人は「そんな魔法があったら良いな」と感じる筈だ。
それと同時に「でも現実にはそんな物無いし」という冷静さを兼ね備えている事も忘れてはいけない。素敵なファンタジーを描くと一転、そうではないお現実のドライさを知らされてしまうのだ。

ではどうすべきか。
物語に「魔法では乗り越えられない困難」が訪れさせるのだ。
そしてそれの打開策が「友情」「勇気」「愛情」など、言わば現実にも存在する魔法となっているのが望ましい。
そうすれば「さっきまで憧れてた、現実には存在しない魔法よりも、現実に存在する魔法の方が良いのかも知れない」と思う事が出来る。
現実がファンタジーを超えるのだ。
それが僕が作品を通して、観客の明日に少しだけ寄り添えたらと思うメッセージとなるわけだ。

さて。
ACTHOUSE、今年の物語は「タイムマシンで行けたら行くわ」。
文字通りタイムマシンを使い、昨日へ行ったりあっちこっちと飛び回る物語である。残念な事にタイムマシンは現実には存在しない。はずだった。

中止となった公演は、時を経て、タイムマシンに乗って「再演」という形で来週に本番を迎える。

そう。タイムマシンはあったのだ。
現実が、ファンタジーを超えた。

実体験としてタイムマシンを渇望し、そして比喩的にではあるがそれに乗り込む事さえ出来た今年の6期生達。
彼らの届ける「ファンタジー」が、面白くない訳ないのだ。

僕は心のどこかでタイムマシンの存在を信じていた。
だからこそ、一度書きかけたこの「公演中止」に関するnoteも投稿しなかった。出来なかったのではない。しても意味が無いと思ったのだ。
だって必ず、次はあるのだから。




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