自分が嫌いな自分の話。

さて。
僕は自分が嫌いなわけだが。

理由は、と聞かれればキリがない。
まず顔は褒めるところがない。
次に五月蝿い。あまりによく喋る。
「会話禁止条例」が出たら最後、宝石泥棒などせずとも真っ先に豚箱行きだろう。
あとは胡散臭い。
屁理屈だ。
不勉強だ。
不誠実だ。
傲慢だ。
強欲だ。
とにもかくにも、嫌いである。

果たして僕は、どうしてこんなにも喋るのだろうか。
思い返してみる。

僕が3歳になる頃、妹が産まれた。
その当時の事は驚くほどあまり覚えていない。
ただ覚えているのは、母を盗られてしまうという焦燥感だ。家族3人という景色に何ら違和感を持ってなかったのに、それが増えると言うのだ。突然の新メンバーは迎合出来ない。今でこそ仲の良い妹だが、幼い自分にはたまったものではない。

では、産まれたばかりのか弱さと愛嬌を兼ね備えた妹に、当時の僕は何が勝てるのか。

これは「発話」に他ならないだろう。

ゆりかごの中の赤子に、エピソードトークなど出来るはずがない。そもそも「これ、去年の話なんですけどね」と語った瞬間、嘘になる。これは致命的だ。勝算が見えてきた。

妹に世話を焼く母を見て、僕はひたすらに話しかけた。恐らく幼稚園でのエピソードトークが中心だっただろう。特にクラスのやんちゃ坊主、くらもち君の話はテッパンで欠かせない。母はいつも「大変ね」と笑った。

次第にこちらのエピソードも枯渇してきた。
幼稚園での日常では、さほど面白い事も起きない。
いや、当人にとっては面白くても、大人はそれに食いつかないのだ。
「自分が面白いと思う事と他人が面白いと思う事は違う」と言う事実をそこで学んだ気がする。
故に僕の作品には、あまり狭い笑いが登場しない。

では、何の話なら面白いのか。

幼稚園の先生との会話で1つ、覚えている物がある。
きゅうりの話だ。どうしてそうなったかは覚えていないが、きゅうりは英語で「キューカンバー」と言うと聞いたのだ。

衝撃だった。
きゅうりは、何とも"きゅうっ"と曲がっている。その感覚を外国人も感じたから「キューカンバー」と名付けたに違いない。すごい。日本語も英語も関係ない。あれは、きゅうっと曲がっている。

「あのね、きゅうりってね、きゅうって曲がってるから、キューカンバーっていうんだよ」
帰宅してすぐに母に教えた。母は、それをよく笑った。

史実はそうではない。
きゅうりとキューカンバーはそれぞれ別の語源を持っており、似ているのはたまたまに過ぎない。他人の空似だったのだ。

けれど、母は笑ってくれた。

そこで僕は「知らない話は大人でも面白い」と学んだ。
故に僕の脚本には豆知識や知らない話があまりに多い。

面白ければ聞いてくれる。
聞いてくれれば、こちらを見てくれる。
裏を返すと、面白くなければ聞いてくれない。
こちらの事など、見てもらえない。

だから僕は、面白い事だけが、生きていて良い証に感じたのだ。

ある意味の許可証。生きるライセンス。
もしも死神がふらっとやってきても、面白ければ連れて行かれる事はない。
逆につまらないと「ちょっとお兄さん、いいかな?」と、どこかに連れて行かれる。どこか、の行き先は死神の持つ鎌が良く知っている筈だ。

間違えちゃいけないのは、これは僕に限った話なのだ。
例えばあまりトークの面白くない人と出会ったからと言って、大声で死神を呼ぶ事もない。その人の生きていていい証は、また別の魅力で感じている。ただ、僕にはその魅力が無い。
だからこそ、僕は面白くなければならない。

このある意味のコンプレックスは、今日まで僕の中に確実にある。

面白ければ生きていてはならない。
僕は、面白くない。
なのに今日まで生きてしまっている。
だから、そんなズルイ自分が大嫌いなのだ。

面白くもないくせに。
のうのうと生きやがって。
恥を知れ、と。


東京都台東区新御徒町駅のすぐ近くに僕の家はある。
そこまで語れるのは、この家があるのが今日までだからだ。僕は明日、引っ越しをする。そんな物好きが居るとは到底思えないが、この記事を読んでから新御徒町駅に行っても無駄だ。少なくとももう、僕は居ない。

ここで暮らしたのは2年になる。
ちょうど、三谷幸喜氏と共にドラマ「誰かが、見ている」を作り上げ、自分の未熟さと非力さ、そして師の偉大さを痛感していた頃だ。

相変わらず僕は面白くない。
そんな人間がこんな大役を授かって良いのだろうか。
「誰かが、見ている」は本来希望を表す言葉だ。
しかしそれが、僕には呪いの言葉にすら聞こえた。
おい、見てるぞ。
ちゃんと面白いか?
鎌なら研いであるぞ、と。

その半年後には、顔の下半分が見えない世の中がやってきた。なのでこの街の思い出というより、自室の思い出の方が何倍も多い。模様替えも一度しかしていない。見慣れたというより見飽きた部屋だ。

段ボールに囲まれ、既に変わり果てたこの部屋を見渡す。カーテンレールの、白いプラスチック金具は、タバコの煙に燻され黄ばんでいる。その色の濃さが、この部屋で過ごした時間の濃さを物語る。

片付けたフィギュアの形に、積もった埃が空席を成している。あれ、ここに置いてあったのはなんだったかな。昨日まであったのにな。思い出せない。

そんなもんだ。

ふとそう思った。
大事に飾っていても、一度箱に入れたら思い出せない。そんなもんなのだ。例えそこにどんな大きなトロフィーが飾ってあっても、きっといつか忘れてしまう。当たり前になってしまう。

でも、この部屋で過ごした事を忘れる事は無いだろう。
世界でたった1人、この部屋で過ごした時間を知る人間が僕なワケだ。

だとすると、僕がもし死んでしまったらどうか。
この部屋の事を、誰も思い出せなくなってしまう。
大した部屋でも大した思い出でもないが、なんとなく、それは寂しい。

これが、生きて良い証なのではないだろうか。

辛い事も嬉しい事も下らない事も偉大な事も些細な事もよくある事も。
ちゃんと覚えている。
他の人は知らない話を僕は、覚えている。


知ってる?
人が知らない話は、面白いんだよ。

だから、ね。

あとは言わせんなよ。

去り際に、鎌の刃先がキラリと光った。
綺麗だなと少し思った。

ふぅっと椅子に深く腰をかける。
タバコに火をつけた。
うん。こんなもんだろうと。
したり顔で笑った。

さて。
僕は自分が、大好きなわけだが--。

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