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オリンピックを開催するなら修学旅行に行ってもいいのか

お久しぶりです。Gakkyです。

かなり前回の投稿から時間があいてしまいました。そして、本紹介も1か月に1回と言いながら、滞ってしまってすみません。紹介したい本はあるのですが、中々記事を書く時間が取れずにいます、、

さて、今回はタイトルの通り、オリンピックを開催するなら修学旅行に行ってよいのか?というテーマをもとにして、最近のコロナ禍における問題について書いていこうと思います!

1 コロナは放置しておいてはいけないのか?

まず話の前提として、「コロナにかかるリスクを冒すか否かは個人の選択の自由の問題だ、だから放置しておいても構わない」という説について検討してみようと思います。

確かに、コロナにかかるのが嫌な人は家にこもっていたらいいし、コロナに罹ってでも遊びに行きたい人は遊びに行ったらいいし、それでコロナに罹ってしまったとしても自己責任と言えるかもしれません。

しかし、本当に「自己責任」という言葉で済ましてしまうことができるかは微妙です。

まず、自分がコロナに罹ってしまうと、少なからず他人に移してしまう危険性が発生することになります。つまり、自分がコロナになって苦しむだけなら自己責任と言えますが、そのことによって他人にまで迷惑をかけてしまう危険性があるわけです。

さらに、コロナで症状が出た場合には、医者に診てもらう必要性がでてきます。しかし、医療資源には限りがあり、コロナに罹ることによって本来助けることのできる命を助けることができないという問題が生じるわけです。この観点からも、自己責任という言葉で片づけることはできなさそうです。

要するに、コロナに罹ることによって生じるダメージが、全て自分に降りかかるなら自己責任の問題としていいのですが、自分がコロナに罹ることによって周りの人間や医療にもダメージを与えてしまうという点で、自己責任の問題とは言い難いわけです。

なので、コロナに罹るか否かを個人の問題として放置することにはやや問題があると言えます。

※なお、経済へのダメージを考慮した場合に、やはりコロナは放置してもいいという考え方は別途存在しえます。そのような考え方が発生した時代に書いた記事を一応貼っておきます。(この記事を書いた頃は政府の方針はよくわかりませんでしたが、現在においては、ある程度経済を制限してコロナ対策をすべきという方針であるように思われます。)

2 政府と国民の信頼関係

このようにコロナを放置しても上手くいかないのであれば、誰かが上に立って、どの程度までなら行動をしてもいいのかを決める必要があります。その役割を負っているのが政府というわけです。

しかし、個人に任せていたら上手くいかないから政府に一定の権力行使を依頼するわけですが、逆に政府は強い力を持つことになるので、その権力行使は適正に行われる必要があります。さらに、適正に行われているというだけでなく、適正な権力行使がなされているのだという国民からの信頼も必要になります。

例えば、飲食店の時短要請についても、当初はその趣旨が伝わらず、「コロナは夜行性なのか??」といった批判が続出したと思います。実際のところは、人が会食をする時間帯は夜が多いこと、夜の会食は大声になりやすいことなど様々な理由があったと思われます。しかし、このような適正な理由があったとしても、それが国民に伝わって信頼関係が構築されていなければ、反発が生じて上手くいかないわけです。

このように、コロナ禍を乗り切っていくためには、権力を行使する政府と国民の間に、「ちゃんとコロナ禍を克服するために権限行使がされているのだ」という信頼関係が不可欠となります。では、ここ最近の政府と国民の関係はどうでしょうか?

3 オリンピックによる信頼関係の破壊

オリンピックを通して、政府と国民の信頼関係はかなり崩壊したように思われます。その象徴的な事例をいくつか見ていきましょう。

まずは、バッハ会長の歓迎会がありました。これについて、なぜ大人数の会合を自粛するよう要請しておきながら、バッハ会長に対しては大人数で歓迎会をするのか?という不合理さに反発が生じました。

もう1つバッハ関連として、バッハ会長が銀座をぶらぶらしたことについて、政府側の人間が「不要不急かは本人が判断すべきだ」という頓珍漢なことを言ったことがありました。このロジックでいいなら、もう自粛すべきことは何もないことになってしまいますね(笑)

また、そもそもオリンピックの開催自体が信頼関係を破壊する原因となりました。菅総理は、オリンピックは感染対策を徹底していて安心安全だから問題ないのだ、というロジックを強調しつづけました。しかし、このロジックでいけば、本来飲食店も旅行もライブも、感染対策を徹底するならば問題ないということになりかねず、なぜオリンピックだけ優遇するのか?という反発が生じました。

※個人的には、本当に感染対策を徹底するならば問題ないと思っていますが、そもそも徹底された感染対策とは何か?が必ずしも判明していないこと、感染対策の徹底が実施されているかどうかを監視するのは困難なこと、あたりが理由で感染対策を徹底しているならば飲食店を開けてもいいというような政策を採りづらいのだと思います。

4 オリンピックを開催するなら修学旅行に行ってもいいのか

このような中で、オリンピックを開催するならば修学旅行に行ってもいいのではないか?という主張がでてくるのは必然的ともいえます。

しかし、本来オリンピックと修学旅行は次元の大きく異なる話です。確かに、修学旅行の中止は学生の貴重な機会を奪うことになりますが、その中止によってその他の弊害が生じることはあまりありません。一方で、オリンピックには多数の利害関係者が関与しており、中止をすることは選手の貴重な機会を奪うというだけではなく、国際的に大きな影響が及ぶと言えます。

ですが、オリンピックは安心安全だから開催していいというメッセージの下では、修学旅行はなぜダメなのか?オリンピックだけ優遇しているのではないか?という批判が生じるのは仕方ありません。さらに、バッハ会長に対する優遇のような、オリンピックファーストな権力行使がされているのを見ると、政府の修学旅行中止の要請は差別だ!という反発が生じるのは仕方ないと言えます。

要するに、政府と国民の信頼関係がオリンピックで破壊されてしまった結果、もはや政府の要請を適正なものだと思えなくなり(オリンピックを不合理に優遇しているとしか思えなくなり)、このような反発が生じてしまったというわけです。

5 最後に

僕は、本来であれば、オリンピックを開催すべき理由や、修学旅行とオリンピックが異なる理由をまともに説明したほうがいいのではないかと思っています。確かに、このような説明をすることで批判はもちろん生じると思いますが、政府と国民の関係が信頼関係を前提に成り立っているところ、なんではぐらかしたような説明しかしないのかな~とずっと疑問に思っています。

最近では、SNSを通して政策の正当性を伝えようとする政治家もいたりして、そういった活動は評価されるべきではないかなと思っています。吉村知事も、変なことはたくさん言いますが、変なことでも政策の趣旨を伝えようとする姿勢自体は評価すべきだと思います。

というわけで、今回はこのあたりで終えようと思います。最後まで読んでくださり、ありがとうございました!








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