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【創作】逡巡の月

幼稚園児の時、先生に「すきな絵を描いてください」といわれ、何を描けばいいのか分からなかった。同じ組の周りのみんなは、すぐに描きはじめていた。このままでは一人取り残されてしまう。わたしは焦った。横を向くと、となりの席の女の子が、桃色のクーピーで兎を描いていた。わたしはその真似をした。
 年齢を重ねても、ずっとこのやり方を繰り返してきたように思う。すぐに決断を下さず、いつも周りの様子をうかがって、他人に合わせて選択する。自分の気持には正直でいたいが、自制できずに社会から逸脱するのは避けたい。わたしの受動的な性格はあの頃からなにも変わっていない。
「わたしを一言で表すなら、となりの子の兎の絵です」
 次の面接で使ってみようかな、などと一瞬考えたが、すぐに思い直した。

 わたしは大阪で印刷メーカーの面接を受け、阪急電車と京都市バスを乗り継いで大学近くまで戻ってきたのだった。バスを途中下車して、一旦アパートに帰って着替えようか悩んだのだが、約束の時間に遅れそうだったのでそのまま向かうことにした。
 待ち合わせ場所に現れた麻帆ちゃんは、
「サリーさんスーツですか」と、やはりわたしの服装に驚いたようだった。
 理由を説明して謝ると、
「こちらこそ、忙しい中すみません」と麻帆ちゃんのほうも恐縮してしまって、そんなことないよとわたしはいい、お互いにごめん、ごめんと謝りながら最後には笑い合っていた。
 それから行きつけのカフェレストランに入った。こぢんまりした店内には、何十冊もの絵本や、小鹿の縫いぐるみを載せたおもちゃのピアノなんかが飾られている。どこに視線を向けてもかわいさへの工夫が感じられる内装のなかで、わたしたちはソファの席を選んで座った。
 店員さんにガパオライスのドリンクセットを注文したあと、
「このあいだおしゃれなバッグを見つけたんですよ!」といって麻帆ちゃんはスマホの画面をこちらに向けた。
「これなんですけど。買った方がいいと思いますか?」
「うん。似合うよきっと」
「でもねぇ、色がちょっと暗くて……。ほんとはもっと明るいブラウン系がいいんすよねぇ。もう一個のほうは色がいいんだけど、形がちょっと……」
 眉をしかめている麻帆ちゃんは一つ下の3年生だ。学内書店のアルバイトで知り合い、同じ愛知の出身ということもあって仲良くなった。前年の末にわたしは退職したが、今でもこうして夕食をともにする。
 といっても話をするのはもっぱら麻帆ちゃんのほうで、わたしは聞き役にまわって相槌を打ったり、感想やアドバイスを話したりすることが多い。彼女の快活な笑顔や、ご飯を食べているすがたは、いつもわたしを癒やしてくれる。
「バッグのことはもう少し考えてみます」
 そういって今度は、二ヶ月前から付き合っている彼氏について話しはじめた。
 先月に話したときは彼氏の母親との食事会を控えていて緊張しているということだったが、特にトラブルもなく無事に終わったらしい。とにかくほっとした、と麻帆ちゃんは語った。
「三人でどんなこと話したの?」とわたしは訊ねた。そのとき料理が運ばれてきた。
 美味しそう、と麻帆ちゃんは高い声でつぶやいてから、
「あたしのサークルの話とか……、あと名古屋のことも聞かれました。人の多さとか、気温とか。ほとんどお母さんと二人で話していて、彼はずっとビール飲んでました。酔っぱらうよっていっても平気だっていって。まあそれなりに強いんで大丈夫でしたけど。四杯は飲んでましたね。それでずっと二人で喋ってたんですけど、突然お母さんに、この髪色が似合ってるっていわれたんです」
 そういって横の髪をみせてくれた。黒髪にハイ・ゴールドのインナーを入れているのだ。
「これって素直に受け取っていいんですかね。ほら、よく京都人は皮肉をいうっていうじゃないですか。もしかしたら、ヘンテコなあなたにはヘンテコな髪色がお似合いですよって、そういうことかも」
「そんな……」
「冗談ですよ、冗談。お母さんいい人でホッとしました」
 口に手を当てて笑ったあと、スプーンですくうその一口が大きい。美味しい、といって紙ナプキンで口を拭い、すぐさま氷たっぷりのローズマリー・ティーへ手を伸ばす。
「上手くいってよかったね」とわたしも微笑んだ。
「サリーさんは最近どうですか?」
「3年のうちにゼミ以外の単位は取れたから、時間に余裕ができるだろうなって思ってたんだけど……。忙しいんだよねー、それが」
 すると麻帆ちゃんは真剣な表情でうなずきながら、
「その服装みれば分かります。大変そうだなあって。あたしなんかと会ってもらってありがとうございます」
「そんな、こちらこそありがとうだよ。麻帆ちゃんと話すの楽しいし、ほんとリフレッシュになる」
「はぁぁ。嬉しいですぅ」と笑顔になった。
「それで、来週からまた東京に行かなきゃいけないんだよねー」
「ほんとお疲れさまです。なんていうか、よく頑張れますよね」
「親に迷惑かけられないからなぁ。学費も出してもらって仕送りもしてもらってるし……。迷惑かけられないっていうより、あんまり干渉されたくないってことかな」
 名古屋に戻ってきなさいよ、というのが彼らの言い分だった。わたしは返事を保留していた。
「ぼうっとしてると親に色々いわれるから。でも正直やる気がね……」
「なに弱気なこといってるんですか。紗莉先輩なら平気ですよ」
 直感ですけど、そういって麻帆ちゃんはまた笑った。人によってはオーバーリアクションとも受け取りかねない細かな表情の変化が、わたしはすきだ。彼女がそれを無意識にこなしているのか、それともある程度は意識して行っているのか、そこまでは分からなかったが、とにかく全力でわたしと対話しようとしている気持はよく伝わってきた。
 わたしは表情を意識的に変えることが苦手だ。微笑むことはできるし、真剣な表情もできるけれど、相手が今笑ってほしいのだろうなというタイミングでも、自分が面白いと感じていないと笑うことができない。どうしてもぎこちなく、不自然な表情になってしまう。感情のおもむくままにいられたらまだしも清々しいだろうけれど、中途半端に気を遣ってしまい、後になってから自分の振舞いを憎むことになる。
 麻帆ちゃんの笑顔は、少なくとも人を不快にはしない表情だったし、わたしはそれが羨ましかった。
「平気」と麻帆ちゃんはいった。内定を取れるという意味では「平気」かもしれない。日本には数えきれないほどの企業があり、常にどこかしらが求人を募集しているのだから。問題なのは社会人として実際に働くことが「平気」かどうかということだ。
 学業さえできていればよく、素性や性格、コミュニケーション能力が問われない、という条件は、今後の人生のどんな場面でも用いられることはないだろう。就職活動における大学の偏差値は前提条件にすぎず、面接の段階で何の効力も持たない。
 そういうことを頭の中で考えながら、でも言葉にはせず、わたしは曖昧に微笑んだ。麻帆ちゃんは言葉に窮しているわたしを援護するように、もしくは結果的にそうなってしまうことになった発言をしたことを埋め合わせるように、
「じゃあ新しい人さがしてる場合でもないですね」と冗談めかしていい、声に出して笑った。
 わたしも不意を突かれて自然に笑い声がでた。ほんとそうなのー。
「でも、だからといって前の男に引きずられてちゃダメですよ。先輩だからといって、容認できません。そんな甘々な姿勢は」
「麻帆ちゃん、今日は強気だねぇ」
「こちとら幸福の絶頂ですからね。ここから先は落ちるしかないんですよ。ああ悲しいー」
 それからデザートにババロアを頼んだ。
 麻帆ちゃんとのごはんが良いのは時間が遅くなりすぎないことだ。異性の場合だとそうはいかず、大抵長引いてしまう。かといって独りでごはんを作って食べるのは億劫だし、なによりさみしい。
 麻帆ちゃんのいった前の男というのは拝島くんのことで、大学2年の秋から今年の二月まで、世間がいうところの「付き合っている」状態だった。実際には連絡を取り合わない期間もあったのだが、彼がわたしに与えた影響は大きい。バイトしていた頃の麻帆ちゃんとの会話では、わたしが拝島くんのことを話す事も多かったから、彼女にとっても思うところが色々あるのだろう。
 拝島くんは、わたしがこれまで出会った人の中で、もっとも憧れる生き方をしているうちの一人だ。
 彼は倫理的ではないし、誠実さと呼ばれるものも持ち合わせていない。決して人当たりが良いと評される類いの人間ではないが、他人を巻き込み、他人に影響を与える類いの個性を持っていた。常に誰かしらに庇護されている、そういう人だった。
 彼は、自分の尊敬する人に対しては敬意を持った対応をするが、そうでない人にはいかなる時も媚びようとはしなかった。それどころか、あからさまに冷めた態度を取り、それで平気でいた。わたしは衝撃を受けたのだった。
 わたしたちはフランス語のクラスが一緒だった。そのクラスで一度だけ行われた飲み会のとき、誰がどんな冗談をいおうと一切笑わなかった。
 それは1年の終わり、無事みんなが単位を取り終えた後の春休みで、わたしたちは大学近くの焼き鳥屋を予約して飲み会を行ったのだ。拝島くんは終始変わらないペースでレモンサワーを飲みながらほとんどずっと無表情だった。それは、男に媚びる女、女の髪を触る男、隣のグループの喧騒、数人で突然始まる王様ゲーム、酔い潰れた女、介抱する男、そういった見慣れた陳腐な光景への嫌悪感だったのかもしれない。もしくはそこで交わされた会話の、今では忘れてしまった呆れるほどの中身のなさが原因だったのか。
 わたしとしてもあの飲み会は、参加したことや懸命に料理を取り分けたことを後悔する面白味のなさで、二時間後に店を出たとき、拝島くんの隣でぼんやりと立っていた。すると彼は「楽しかった」と意外なことを真顔でいい、
「蓮見さんと話せたからね」といって恐らくこの日初めて笑ったのだった。
 確かにわたしは拝島くんの正面で、鶏皮が一番すきだとか、料理が苦手で困っているなどという話をしていたのだった。彼はわたしの話すことのどれもこれも興味がなさそうだったし、実際そうだったのだろうが、楽しかったといわれた刹那に気分が良くなったあの時のわたしは、酒に弱いし、誘惑にも弱いのだった……。
「サリーさん、写真撮りません?」
 いいよ、というよりも先に麻帆ちゃんはスマホの写真アプリを開いているのだった。
「インスタにあげてもいいですか?」
「うん」
 液晶画面に向かって笑顔を向けた後、ババロアを食べながらひとしきりお喋りして店を出た。
 今年の二月に、拝島くんは大学を中退し、地元の向日市から出てこなくなった。時期を同じくして、スギ花粉がわたしの鼻腔をいじめ出し、わたしは薬を飲みはじめた。しばらく続いたそんな花粉の猛威も今はようやく収束して、夜の風が心地よい暖かさで身体全体に吹きつけてきた。夏の始まりを告げるような風だった。
 わたしたちはバス停までゆっくりと歩き、市バスに乗りこんだ麻帆ちゃんに手を振って、解散した。

 アパートに帰ってすぐ、座椅子に座って岩波文庫版『おくのほそ道』を読みはじめた。
 その前は『芭蕉句集』をぽつりぽつりと読んでいて、ここ最近、近世文学を代表する詩人に夢中になっている。
 就活を始めてから頭の中に何度も浮かぶようになった言葉があって、それは「漂泊の思ひやまず」という中学校の国語で暗唱させられた一節だった。
 三か月前、出版社の企業説明会のため東京に行った際、一度立ち寄ってみたかったジュンク堂書店池袋本店を丸二時間歩きまわった。記念になにか、普段買わないジャンルの本を買おうと思い、芭蕉に関する書物を幾冊か買った。『内定者はこう話した! 面接・自己PR・志望動機・完全版』という本も一度は手に抱えていたが、レジに行く前に書棚に返した。
「松島の月先心にかゝりて」、と〈序章〉で書いた芭蕉が、『おくのほそ道』の本文に松島で詠んだ句を掲載しなかったということは、以前から知識として知っていた。松島が美しすぎて、納得のいく句が詠めなかったのだ。日本三景のうち、天橋立は昨年友人とレンタカーで遊びにいったし、宮島にはサークルの旅行で行った。松島も学生のうちに見ておきたかった。
『おくのほそ道』は句だけでなく、紀行文も格調高い。言葉を極限まで省いている。語り手の行動や地名については、注を参照することによってかろうじて意味がとれるレベルのわたしなのだが、文章の響きが絶品なので、たとえ理解できない箇所があっても読むことの妨げにはならなかった。
 今日読んで感動したのは、〈壺の碑〉の章だ。
 壺の碑とは、平安初期の武官である坂上田村麻呂が、有名な蝦夷討伐の際、巨大な石に弓矢の先で「日本中央の地」と描いたとされる、その伝説の石碑である。平安末期の歌僧である顕昭が、歌学書で言及して以来、多くの歌人に歌枕として詠まれた。
 この伝説の「壺碑」は、どこにあるか分からないものの喩えとして使われた。壺碑のありかにはいくつかの説があるが、いずれも真偽がはっきりしない。江戸時代には宮城多賀城跡付近で石碑が発見され、これが長らく「壺碑」だとされていた。芭蕉が『おくのほそ道』旅中で訪れたのもこの石碑である。

 むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、此処に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。

 現代に生きる我々は、宮城県で伝説とされる石碑を見たところで、涙を流すこともないだろう。発達した交通機関を使えば、楽にたどり着くことができる。
 存命を悦ぶほど命を懸けて徒歩の旅をしていたというその事実が、胸に迫ってくる。その情熱は、多く先人によって歌に詠まれた伝統であり、どこにあるか分からないという伝説であり、それが永い年月を経ても残っていたことの感慨である。
「千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す」とは、なんと清々しい筆致だろう。
 わたしは本を閉じて化粧を落とし始めた。浴槽に湯をため、服を脱いで湯舟につかった。身体を肩までうずめる。額から汗が流れ落ちる。靄になっている風呂場を見上げた。
 しばらく湯舟につかっているうちに、本で読んだ内容は頭から去って、現実のこれからの日々について思いを巡らせることになった。
 わたしは大学の知人たちに流されるようにして就職活動を始め、不器用に説明会で質問し、エントリーシートを書き、グループディスカッションや集団面接に参加し始めたのだった。
 決して安くない交通費と宿泊費を払って東京に行くのは、片雲の風に誘われたからではなく就職活動のためだった。出版業界は、わたしが関心を抱けるほとんど唯一の就職先のように思えた。倍率の高さは充分把握しているが、流されて開始した就職活動に、少しでもモチベーションを見出したかった。
 しかしこんな凡庸で受動的な人間に狭き門を突破できるとも思えない……。麻帆ちゃんとの食事ですら、いつも向こうから誘ってもらって実現しているのだった。わたしは自分から誘ったり話しかけたりするのが苦手で、基本的に無口なのだが、声をかけてもらうのは嬉しいからついつい聞き役に徹してしまう。愛知にいた頃は、話していて面倒くさいと感じても、それとなく会話を切り上げたりスルーすることが苦手で、そのせいで他人に執着されてしまうことを繰り返していた。
 大学に入ってから少しは改善されたが、それでもナンパについていってご飯を奢ってもらったりすることがあった。その結果失った自尊心もあるにはあるが、わたしを求めてくれる人の切実さ次第では、それで気分が良くなるのなら尽くせばいいと思っていた。
 風呂場の窓を少しあけた。夜の冷気が流れこんだ。


    *


 翌日のゼミに出席してみると、半分以上の学生が休んでいた。
「週一くらい出てこれるでしょう。どうしても無理だったとしても、せめて連絡くらいはしなさい」
 まあ、来ている人にいっても意味ないんだけどね、と教授は憤りを鎮めるように穏やかな口調になった。それで教室内の緊張感はいくらか緩和された。
 ちゃんと出席してるのに怒られた、とその後ある学生はツイッターに愚痴を書いていた。わたしが感じたのはただ自分だけが取り残されてしまうことへの不安だった。
 その日と次の日で東京行の準備をした。ストッキングが足りないので買いに行った。企業から指定されている持ち物を確認し、予約したホテルの地図を見た。三か月前もそうだったが、どこのホテルを選べばいいかずいぶん迷った。東京は広いし、土地勘もない。
 これまで長期休暇には少なくない回数の国内旅行をしてきたはずだ。でも思い起こせば宿泊や交通機関の予約はすべて他人任せだった。その分わたしは心持多めに友人に料金を支払っていたのだが、泊まるところもなんでも他人任せの受動的精神をここでも思い起こされることになった。
 もっとも、予約したり仕切ったりするのがすきな質の友人にわたしは恵まれていて、それで上手くバランスが取れていた部分もあると思う。皆が同じ性格だとそれはそれで歯車が上手く嚙み合わないはずだ。そして早々と内定を獲得する人間というのはやはり能動的な人たちなのだ。
 東京では、一次面接およびグループディスカッションを、月曜日と火曜日で三社受ける。泊まるのは、月曜の午前中に受ける会社に近い場所がいい。ということで神田駅近くに決めた。

 新幹線に乗るとき、いつもは名古屋までだから、三か月前はその先を超えるということでずいぶん楽しみにしていた。今回はその反復という感じで、勝手もわかるし慣れたものだ。午後になってからアパートを出て、京都駅で手間取ることなく自由席の切符を購入できた。
 京都市には空港がないから、この街を訪れる人は世界中どこからだろうとまずこの改札を通るはずだ。その中には、国内外の著名人も含まれる。そう考えると特別で貴重な空間に思えてくる。
 わたしは京都駅ビルの雰囲気がすきだ。黒を基調としていて、シックなたたずまい。天井付近の幾何学的な建築は、いくらでも飽きずに眺めていられる。延々と続いている階段に座り込んで、映画一本分くらいの時間ずっと友人と喋っていることもあった。
 東京方面の東海道新幹線は二本のホームを使って矢継ぎ早に発車していく。平日の午後だから車内はそれほど混んでいない。のぞみが入り込んできて、わたしは3号車の窓際に座ることができた。富士山の見える、進行方向左側だ。
 中学校の修学旅行で新幹線に乗ったとき、在来線とは異次元の速さが身体全体で感じられて、酔いそうだった。車輪の鼓動が聞こえるようで爆速に身体が追いつかず、宙に浮いたところをバックシートに捉えられる、そんな感覚がずっと続いた。
 その時と同じように東京に向かっているのだが、あの頃の宙に浮いてる感じはしない。二百五十キロを超える高速運転にも関わらず、車窓から見える景色はあまり変化がなく、音も静かだ。
 持ってきたキャスター付きスーツケースは小型なので、首尾よく荷物棚に乗せることができた。わたしはしばらく何もせずに窓の外を眺めていた。田んぼばかりが目に入った。日本の大部分はこういう風景なんだろう。広い一軒家に住むことは、都市に比べ容易だろうが、移動や買い物には自動車が必須で、近所に大型書店やカフェチェーンはない。
 生まれ育った名古屋は団地やマンションが多く立ち並ぶ住宅街で、小さな公園はあるにしても田んぼや畑は皆無だった。すぐそばに街がある状態で育ったわたしが自然と呼ばれるもの、山や川や樹木に親しみを感じはじめたのは京都に来てからだった。

 名古屋駅をすぎても乗客はそれほど増えず、隣の席も空いたままだった。わたしはキヨスクで買っておいたマウントレーニアを就活用鞄から出して飲み始めた。
 ツイッターをひらけば、同じように就活している同級生のつぶやきが見れる。ポジティブな内容でもネガティブな内容でも、書かれている中身はステレオタイプな言葉の連なりばかりだ。ついこの間まで教授や大学事務室に文句をいったりレポートが終わらないことを嘆いたり、いつまでたっても変化のない痴話喧嘩を繰り返していた人々が、揃いもそろって髪を染めなおしスーツを新調し自己アピールに励んでいるのは、底知れない違和感がある。わたしも大体同じことをしながらそう感じているのだから、誰だってそう感じながら行っているんだろう。でもきっとすぐに慣れて、それが新たな日常になる。人は容易に生活を変えることができる。生活環境やリズムが変化したあとでも、文句をいう人はいいつづけ、ポジティブなことをいう人もいいつづけ、何もいわない人はあい変わらず何もいわない。
 わたしはいつもと同じように、また周りの流れに同調している。面接会場に行くのだってやはり受動的な行動だ。
 立ち上がって車内を前に進むと、自動ドアの先に薄暗い喫煙ルームが見えた。ここにも人はいなかった。わたしはほっとして中に入った。煙の匂いがした。この空気が変わる瞬間をひそかに好んでいた。
 狭い室内の壁に背をもたせかけ、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。大きな窓が並んでいて、座席からよりも風景が美しくみえた。窓には反射したわたしのすがたが鏡のように映っていた。
 社会に出て働くことに関して、考えられないとか想像できないとかいう言葉が周囲からきこえてきて、わたしも同感ではあるから慰められもするのだけれど、そういっているあなたたちはきっと言葉とは裏腹にちゃんと器用にこなしあげて、落ち着くべきところに落ち着いていく。わたしはそれが叶わなかった人たちもたくさん知っている。しかしあなたたちは講義だって、レポートだって、試験だってそのように弱音を吐きながら、あたかも弱音を吐くことがマナーであり免罪符でもあるかのように揃いも揃って弱音を吐きながら、その場その場を乗り越えてきたのだ。この大学に、入試方法はともかく入学できている時点でそうなのだ。誰でも入れるわけではない。
 わたしも入試を乗り越えた一人ではあったけれど、それは乗り越えるべき課題が偶然自分にとって得意だったというのにすぎない。そこが今ともに就活をしている知人たちとの大きな違いで、彼ら彼女らにとっては、勉強も就活も一様に「やりたくないことで、やらなければならないこと」なのだった。だから愚痴や弱音を伴いながら努力してこなしているのだ。
 わたしの場合、大学の勉強は「やりたくないこと」ではない。英語を学び文学を精読することは、大変だけれど楽しさもあった。社会人として働くことこそが「やりたくないこと」なのだった。かといって来年の今頃に何をしていたいのかというと、それも分からなかった。研究の楽しさだけを追い求めて大学院に進学しても、学費が嵩むばかりで苦しむだろう。願わくば人間以外の動物になって、一日中寝っ転がっていたいものだ。 
 ちょうど火がフィルターに到達しようというとき、扉の開く音がして中年女性が入ってきた。わたしは煙草を灰皿に落として、入れ替わるように外へ出た。
 座席に戻って文庫本を取り出した。読み継いでいる『おくのほそ道』だ。俳諧乃連歌の発句をそれだけで独立して鑑賞できる俳諧に昇華した不世出の詩人、芭蕉。アパートを出る前に書店でもらった紙製のブックカバーを掛け直した。
〈松島〉の章を読んだ。綿密に削られ配置された言葉の連なりだから、どこか一部を引用しても凄みは伝わらないだろう。唐の詩人や西行など、古人の伝統をくんでいる点も含め、言葉に対する厳粛な態度を実感する。松島を、洞庭、西湖に劣らない絶景と紹介し、島という島が集まり、二重に三重にかさなり、「児孫愛すがごとし」とつづく。なるほど松島の絶景は小島があちこちに点在している美しさなのだ。
 日が暮れて、海に写った「松島の月」も、ちゃんと見ることができたようだ。
 わたしが心打たれるのは松島の描写もしかり、その感動を体感したあとの芭蕉の行動なのだ。

 江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

 かつて松島に関して詠んだ詩や和歌の書物を、彼は持参していたのだ。宿の二階でくつろぎながら、
「袋を解て、こよひの友とす」
 旅先でその土地が舞台の書物を味わう喜びを、彼も堪能しているのだというのが嬉しかった。歴史上の偉人が、ぱっと身近な存在に感じる。
 そして〈平泉〉の章。これが一番、と決めるのはいつだって憚られるが、芭蕉に関心を抱いたきっかけとして強くわたしの心に刻み込まれているのは、この章で詠まれた句である。

   夏草や兵どもが夢の跡

 整備されていない道での壮大な長旅の果てに生まれた名作を、新幹線であくびしながら読むというのは、なんとも豪奢で狡い気がする。わたしは詩的精神のない無知な女だから、せめて価値を感じる書物には全身全霊で読む態度を崩したくはない。
 有名な平泉を謁見し、かつて流れた血と栄華、それらが消え去った後にも自然は残り夏草は息吹いていると実感した芭蕉。光堂を見て、遠い過去に思いを馳せ、涙を流す彼の感受性に寄り添っていたい。
 ところで『おくのほそ道』は晩年に集大成として書かれたものであり、それ以外にも紀行文は残されている。芭蕉全体を辿ろうとすれば、不易流行を唱えたとされるその境地に行き着くまでの修練の期間についても当然知ることになる。 
 芭蕉は俳諧宗匠を目指して江戸に出てきたのだった。そしてその目標を達成する。通俗的ではあるが、俳諧に関わった仕事で、安定した収入を得ることができる。
 ところが彼は三十七歳の冬に俳諧宗匠を止め、それまで住んでいた繁華街にある日本橋の住居を引き払い、隅田川を越えた先の深川に隠栖する。通俗的な生活を捨て、職を投げうち、俳諧を極める芸術の道を選んだのである。
 こういう挿話は、天才が天才たるゆえんとして華々しく映る一方、どのような偉人にも存在するありきたりな伝説譚のようにも映る。
 思うに、安定を考えない人間自体は一定数いるのだ。そういう人びとの多くは(そうでない人びとの多くも同様かもしれないが)、日が当たらない。生活の軌道に乗り切れず、社会に適合できない。たいていの場合親に迷惑をかけて、そのことによって個人的に苦しみを背負うことになる。親に迷惑をかけても苦しまない人間はいるだろうが、自分の意思が肯定されないことに苦しまない人間は稀有だろう。
 安定を考えない能動的人間の筆頭として思い当たるのはやはり拝島くんだった。

 彼とは、学生棟にある非常階段の、4Fの踊り場でしょっちゅう話をした。わたしの所属している文芸サークルは4Fに、拝島くんの所属していた軽音楽サークルは3Fにそれぞれ部室があった。そしてこの学生棟に部室がある愛煙家の学生は、みんな非常階段で煙草を吸っていたのだ。
「いつも弾いてる赤いギター、自分で買ったの?」とわたしは訊ねた。というのも午後になると軽音楽サークルの部室から漏れでたエレキの音がいつも学生棟全体に響き渡るからだ。
「ううん。親に金借りた」
「いくらしたの?」
「その煙草が千箱買えるくらいかな。でもさ、あなたのような黒髪少女がこんなところで吸うとはね。キャンパス内は全面禁煙ですよお嬢さん」
「うるさいなあ。お前だって吸ってるじゃんか」
「おれ携帯灰皿もってるもーん」
「わたしだってもってますぅ!」
 面白くなかったフランス語クラスの飲み会以降、わたしと彼の距離は急速に縮まったわけで、学生棟で長話をするようになったのもその頃からだった。
 その年の秋、つまり2年のときだが、サークルで新たに編集長になったわたしの最初の仕事は、学園祭で配布する部誌の特別号をつくる責任者だった。
 部員から送られてきた原稿を校正・校閲し、編集する。テキストを仕上げるのは編集部員の仕事だ。ここから全部員が参加して製本する。部員に参加可能な日程を答えてもらい、製本作業と輪転のスケジュールを組んだ。輪転室の使用許可を取り、二週間かけて3種類計六百部の部誌を印刷し、製本するのだった。
 ところが、突発で欠席者が出ることもある。九万字の長篇小説を提出したのに、輪転を休むという部員が現れた。ちょうどわたしと輪転のシフトが一緒だったのだが、誰か代役を探さなければならなくなった。とはいっても他のみんなは部室で製本作業の予定だった。仕方なく、誰か一人に頼もうと学生棟の階段を上っていると、3Fの踊り場で拝島くんと出くわした。
「忙しそうだね」
 わたしは状況を説明した。というより愚痴だった。拝島くんは、
「手伝おうか」と楽しそうな表情でいった。
 一度は断ったのだが、
「暇だからさー」と階段を上るわたしについてきた。それでわたしも気が変わり、Uターンして輪転室まで降りた。
 これが原本、と説明するわたしの言葉を、拝島くんは腰に手を当てながら聞いていた。
「授業のレジュメ刷るのと同じでしょ」
「だいたいそうだけど……。難しくはないけど面倒くさいよ。サークルのお金だから紙が無駄にならないように、こまめにちゃんとチェックしないといけないから」
 輪転室に木漏れ日が差しこんでいた。学生棟にはギターの音が響いていて、窓越しに見える裏の空き地ではスポーツウェアを着た学生たちがダブルダッチをしていた。外からキャンパスを歩く学生たちの話し声が聞こえたり聞こえなかったり。そして輪転機がうなりをあげてA4用紙に活字を印刷していく。
 一冊につき二百部刷る。速度を上げたいのだが、設定を最速にすると落丁が出てきてしまう。そのバランスが難しかった。
 わたしは刷るほうに専念し、拝島くんには落丁のチェックをしてもらった。
「大丈夫? これ官能小説みたいだけど。舐める、だとかどうとかさ」印刷された原稿をみて拝島くんはいった。
「でもその人の作品は、部員から評判いいんだよ。毎回欠かさず作品を発表してるんだ」
「ふうん。俺、小説ってあんまり分かんないや」
「わたしも」
「え、蓮見はすきなんじゃないの? 英米文学科だしさ」
「すきな作品はもちろんあるよ。でも小説ならなんでもすきなわけじゃないし……。どういうものが良いか、良くないか、そういうのも分かんない」
 彼は不思議そうにわたしの方を見ていた。
「編集長っていうくらいだから、てっきりもっと偉そうなんだと思ってた。なんか変な感じだなぁ」
「偉そうな方が良かった?」
「ま、そのほうが心を乱されることはないな。ああ、どうせそういうもんだろうって」
 拝島くんが手伝ってくれたのは後にも先にもこの時だけだったが、おかげで制作のペースを下げることなく助かったし、その日仕事していた他の部員たちにも感謝されていたのだった。
 彼が特別に思えたのは、一言でいえば寛容だったからだ。わたし以外にも異性との交流はあったが、それも納得できた。柳のようにしなって女たちの論理的とはいえない話を受け止め、ああだこうだ意見をいわない。それでいて消極的ではなく、程よく食事に誘ってくれる。
 拝島くんは時間にルーズで、絶対出ると誓った講義に寝坊して単位を落とすことも多々あった。
 待ち合わせには遅れてくる。わたしのほうも、向こうが常習犯と分かっているから時間に神経質にならなくてよくて、むしろ楽だった。向こうは十分でも二十分でも待っていられる性格で、たとえわたしが遅れた場合も怒らなかった。
「あらゆることに期待してないんだよ。常に最悪の状況を想定しておく。おれはすき家に行くときも、もしかしたら牛丼が売り切れてるかもなと思って生活してるよ。すると落ち込むことが減る。蓮見が笑ってるのを見るだけで、天国にいるように錯覚できる」
 ライブハウスでストラトキャスターを弾く拝島くんは、切れ長の眼をさらに細めて、他のどんなことをしているときよりも生き生きと輝いてみえた。その変貌ぶりは、彼の表情も含めて、わたしに狐を連想させた。
 だがしかし彼は彼自身のことを紹介したり説明したりするとき、「ギタリスト」だとか「バンドマン」だとかいう呼び方をしてほしくないと語っていた。
「蓮見が俺のことを誰にどういおうと自由だけど、少なくとも俺は自分でギタリストだとかバンドマンだとか思っていない。
 ていうか、普通に生きてれば誰だってギターくらい弾くでしょ」
「は?」と思わず声が出た。
「おれの視点で語ればそうなんだよ、このレベルの演奏なんて。自転車に乗るみたいなもんでしょ。それにコピーバンドもやってるけどさ、それはあいつらがやりたいっていうから付き合ってるのであって、やりたいからやってるわけじゃない。蓮見だから分かってもらえると思っていってるんだけどね。人によってはひねくれてるとか中二だとかいってくるからさ。中二はともかく、ひねくれているはおかしいよな。どちらかといえばおれはひねくれてるんじゃなくて真っ直ぐなんだと思うけどな」
「でも、わたしの友だちにギター弾く人はいないよ」
 それはさ、と彼はいい、すぐに、やっぱなんでもないといった。
「そういう人もいるんだな」
「『ギターを弾いてる』ってのはどう? これじゃ嘘にならないでしょ」
「それならいいよ。というかやっぱり何でもいいよ、蓮見がいう分にはさ。俺が指図することじゃないから」
 彼は自分の発言を撤回することのできる男性だった。わたしは彼のことを決して『ギタリスト』とは紹介しないようにした。
 また、わたしはツイッターもラインもSallyという名前で登録しているのだが、拝島くんは頑なにサリーとは呼ばず、そういうところもすきだった。
 全身を吸い込まれような勢いで音にもそれを演奏する拝島くん自体にも虜になったのは一昨年の秋がピークで、その頃彼はスライドギターを熱心に練習していた。ずっと髪を長く伸ばしていて、ギターをプレイするとき風に靡くすがたは美しかった。
 彼こそわたしがいつまでたっても得られない能動性を生まれつき有してるようで、選択にうじうじ悩んだりしているそぶりがない。その分だけ苦しみも大きいように傍から見ていれば感じてしまう。自分の欲求に正直に生き、社会との折り合いがつけられない人生に待っているのは、挫折だ。
「その髪型、恰好いいよ」と何度もいったが、彼は喜ばなかった。
「禿げてさえいなけりゃ誰だってできるんだ。こんな髪型、何でもないよ」
 わたしは褒めた手前、そのとき素直に同意しなかったが、確かに拝島くんのおっしゃる通りだった。彼が重要視していたのはギタープレイで、外見ではない。しかも単に演奏技術の高さや、ピッキングの速さによって、聴衆が感動するライヴができるわけではない。いってみればそれはセンスの問題で、努力量とは違う生まれ持った才能という話になってしまう。
「何でもないよ」といった拝島くんは、ほんとうは「何の才能もないよ」といいたかったんだろうとわたしは思う。
 ただし彼は、髪型に全くこだわりがなかったわけではない。ある日バイト先のスーパーマーケットで前髪の長さをマネージャーから注意されると、すぐに退職したのだった。そのせいで彼はそれからしばらく昼食を菓子パン一個で済まさなければならなかった。
 わたしが悲しい気持と共にやるせない気持がするのは、そこまでこだわりを持ち大切にしていた長髪を、今年の正月に何の前触れもなく丸刈りにしてしまったことだ。それによって失ったものは、バリカンで刈り上げた髪の毛の他にも、いくつかあるように思えたが、その一方で常に能動性を失わない拝島くんの強さを感じもしたのだった。

 門人に囲まれた江戸での暮らしをまたもや捨てて、生涯最後となる奥の細道への旅を企画した芭蕉。彼に導かれるように、わたしは漂泊について思いを馳せた。
 大学には週一度金曜日に通えばよいし、それも数回なら欠席できる。面接を一通り終えたらさらに東北方面へ新幹線を乗り継ぐことも可能だ。ただしそれでは貧弱な就活費用がさらに減ってしまい、両親と交渉しなければならなくなる。
 愛知県での就職を希望している両親から、東京での就活費を貰うのは難しい。
 トンネルを抜けるとにわかに視界が開けて、じっと窓の外をみて富士山を見逃さなかった。山頂は雲が厚く、見えたのは山肌にすぎなかったが、それでも大地に屹立している様は見事だった。三か月前ならさらに雪化粧が濃かったんだろうとわたしは思った。


    *


 翌朝、余裕を持ってホテルを出るはずが、アラームを無意識で一度止めてしまったせいで、あわただしい支度となった。
 昨日の夜は寝付けなかった。夕食と一緒に珈琲を飲んだのも原因だと思う。
 電気を消したあとも目を開いて暗闇を見つめていた。窓から入り込む夜光によって、そのうち目が慣れてきて、起き上がり外を見たりしていた。ビルばかりであまりいい景色ではなかった。 
 もう一泊するのでスーツケースは置いていく。もう一度髪にブラシをあて、就活用鞄だけ持ってロビーを出て、早足に神田駅まで向かった。
 多くの勤め人たちが行き交う道路を歩きながら、土地勘のないわたしは水を買うことと手洗いに行くことに神経を使いすぎていた。朝の時間の流れや身体に残っている眠気、これからの緊迫感などで居心地がわるい。一刻もはやくこのプレッシャーから解放されたかった。
 三か月前は複数の社員からこれまでのキャリアや一日の仕事内容、就職活動にあたってのアドバイスなどを聞いた。周りの就活生は熱心にうなずきながら話す内容を詳細にメモし、いつどんなタイミングでも適切な質問を常にだせるように準備しているようだった。
 わたしは同じように努力する気力が起きなかった。そうすることがこの場で求められていることはよく承知していたが、どうにも頑張れない。結果として「質問ありますか」の問いに、一度として挙手することはなかった。まだ選考が始まっているわけではないし、こちらが会社を選ぶ側なのだから、気負わなくてもいいはずだ。わたしは海外文芸の編集者の話を座談形式で聞きながら、そういう思いになっていた。
 その後、計四社の出版社にエントリーシートを提出した。書類選考と筆記試験を突破したのはそのうち三社だった。
 面接を受ける出版社の入り口にはすでに、リクルートスーツの若者が列をつくって並んでいた。膨大な人数だった。わたしたちはきちんと用意された椅子に並んで座らされた。まるで大学で受ける健康診断みたいだった。どこにどのように並ばせるか、マニュアルが決まっているのだ。
 これまで何度も用い、その都度練り直してきた面接のデモンストレーションを、頭の中で再確認した。
 面接はテンプレートがある程度決まっている。大事なのは志望動機と、それに呼応する自己アピールだ。学生時代に取り組んだことは間違いなく訊かれる。自分の長所が志願先の企業で発揮でき、貢献できるということを、熱意をもって伝えなければならない。その為には場数を踏んで慣れることが肝要だ。

 わたしが学生時代に最も熱心に取り組んだことは、サークル活動です。文芸サークルに所属していました。主な活動内容は、小説を書いたり、部員の作品をまとめた部誌を制作したりすることです。
 わたしは編集長という役職についていました。編集長の仕事は、部員の書いた小説をまとめあげて、校正や編集をする、いわば部誌を作る際の責任者です。
 編集は一人でする作業ではなく、編集部員たちの共同作業であり、そこで人を管理する必要がありました。編集の仕事が苦手な人にも丁寧に説明し、人を管理する立場として、コミュニケーション力を高めました。部員の一人がいつも締め切りを守らず、困っていました。そこでわたしは、
「無理をせずに、余裕をもったスケジュールを決めて、一つ一つクリアしていこう」と声をかけました。人にはそれぞれの性格があって、感じ方も人それぞれです。強い言葉を用いた時、それでやる気を出す人もいれば、逆にやる気をなくしてしまう人もいます。大切なのは、日頃からコミュニケーションをとり、一人一人の性格や特徴を知ることです。わたしはそのようにして、その人にあった会話の仕方に気を配りました。その結果、早くから仕事に取り組んでくれ、協調性も高まり、部誌作成の生産性が向上しました。  

 迷惑をかける部員は実際にいたのだが、このエピソードはかなり誇張したものだ。面接でこの通り話せば、必ずといっていいほど、
「蓮見さん自身は、小説を書かれないんですか?」と訊かれた。わたしは、

 はい、一度だけ挑戦してみました。でも上手く完成させられなくて、わたしには編集の仕事が向いているなと実感しました。
 ですが、執筆に挑戦したことで学んだことがあります。小説を書くには、様々な人の視点に立って考えたり感情をおもんぱかったりする必要があります。わたしは執筆に挑戦したことで、物事を論理的かつ客観的に思考する力が身に着いたと実感しています。

 実は小説を書いたことなど一度もなかった。しかし「ない」というのでは話が続かない。そこで、挑戦したけど「上手く完成させられなかった」という言葉を用い、嘘を嘘で塗り固めなくていいように工夫した。そしてすかさず学んだこと。少々話を盛ろうが問題ない。伝えたいことを筋道立てて話せるトーク力が、面接では必要なのだということを、繰り返し話すことで徐々に心得ていた。
 コツを掴んできたわたしの自己アピールだったが、今日に関しては不安のほうが大きかった。面接相手が正真正銘プロの編集者だからである。これまでとは勝手が違う。
 これまでの企業の面接では、文芸サークルといってもピンとこない面接官ばかりだったから、編集という作業がどういうものか上手く伝わっていなくても、わたしの日頃の努力さえ伝われば問題なかった。しかし今回はそれが通用しないだろうことは容易に想像できた。それが懸念であり、憂慮している部分だった。
 カジュアルな服装の女性社員がやってきて、わたしたちの列を起立させ、移動させた。そのとき、列の前方に見覚えのある後ろ姿を発見した。文芸サークルの先輩の玉城さんだ。
 彼は部誌の連続作品掲載記録保持者だった。年三回発行される部誌を、四年間、十二冊すべてに寄稿して学部を卒業した。それ以外にも、小説の公募新人賞に幾度も応募していた。院進してサークルにめっきり顔を出さなくなった今も断続的に書いてはいるようだったが、部誌への発表はしていない。
「賞を受賞したら、東京の出版社に呼ばれちゃう」と彼はよくいっていた。「サリーも一作書いてみたら? 誌面を盛り上げてくれよ。エッセイとか書評でもいいからさ」
 わたしは、そういってもらえて嬉しいとは答えたが、書いてみるとはいえなかった。
 玉城さんは学内書店にしょっちゅう本を買いに来ていて、バイト中のわたしによく話しかけてきた。大方読んだ本について情報を交換するのだったが、そういえばわたしが退職して以来、しばらく会っていなかった。
 その後歩き出し、わたしたちの列は、階段を上った。階段の折り返しで正面を向いた時、玉城さんと目が合った。ずんぐりした体躯に、猿のように大きな耳。向こうが微笑みかけてきたのでわたしも笑って会釈を返した。「サリー」という口の動きだけで声には出さなかった玉城さんは、さほど驚いたようでもなかったから、わたしの存在を見止めていたのかもしれない。口を開くリアクションをしたわたしもまた、わざとなのだった。驚きがあるとすれば四百㎞離れた土地での再会よりも、彼が就活をしているという事実だ。修士2年の玉城さんは教職につくか博士後期に進むかのどちらかだろうと思い込んでいた。

 面接室に入るまでに、とても時間がかかった。午前中すべてを拘束されて出版社を出た時、残っていたのは疲れとそして諦念だった。
 地下鉄の駅に入った。永久にたどり着かないかと思われるほど地下深くのホームに向かって、エスカレーターはゆっくり下っていく。
 わたしはこれ以上面接に参加する気力をなくしていた。
 面接官からの予想外の質問に、何度もたじろいでしまった。無理くり言葉を繋いだが、「なぜ?」の部分を述べることができなかった。失敗した、と思うと同時に、たとえもう一度やり直せるとしても、このような質問に上手く答えられる自信などないと痛感していた。
 就活というのはお芝居なのだ。本音を出さず、かといって虚飾しすぎず、絶妙な配分で今求められている内容を話す。明るい声で、明るい表情で、面接官の眼を見て……。
 わたしはこのお芝居に惨敗した。大根役者のお芝居ではその能力の限界など容易に見透かされるということだ。

 九段下駅近くのファミリーレストランに入ってから、玉城さんからラインが来ていることに気づいた。
〈まじびっくりした!
 面接お疲れ~。お互いファイトやで!〉
 彼は佐賀県出身なのだが、しばしば好んで関西弁になるのだった。わたしは既読をつけなかった。
 玉城さんは毎年わたしの誕生日にプレゼントをくれる。彼はわたしに対しておおよそどんなことでも真摯になってくれる。真摯になりすぎて干渉されてしまう恐れがないわけではなかったが、なんとかちょうどいい距離感を保てるようにわたしは気を遣っていた。
 昼食のあと、ここで少し読書をするつもりだったが、じきに混んできたのでやめにして店を出た。入った時からすでに席はほとんど埋まっていた。昼時だということもあるだろうけれど、京都の街では河原町を除いてここまで人が多いことは珍しい。イライラが全身を支配してきて、片手で一度髪の毛をかきむしったが、すぐ他者の視線を気にして髪を触る仕草に変えた。九段下駅周辺にも人は密集していて、リクルートスーツ姿の就活生もたくさんいた。彼ら全てが同志でありライバルだと思うと、弱気さは加速してゆく。午後どうしようかと考えながら、しばらく歩行を続け、腕時計を見ると午後の面接の開始時刻になろうとしていた。
 連絡なしで欠席しても何かしらのペナルティがあるわけではない。講義と違って単位もなくならない。
 わたしはこれまで印刷メーカーの一次面接を三社と、製紙メーカーの面接を二社受けている。グループディスカッションもいくつか受けた。そのうち一社はすでに最終面接が決定している。落ちたところも何社かあって、それ以外は結果待ちだ。京都に帰って、これらの面接に集中すればいいのではないか。
 空はさっぱりとした晴れ模様だった。これから自由だということに納得してしまうと、にわかに開放感が押し寄せてきた。とにかくスーツとパンプスを脱ぎ捨てたかった。
 わたしは神田のホテルに近づくように歩いていたのだった。それは次の面接会場に背中を向けているわけでもあった。
 スマホで調べると三時までは部屋を清掃している可能性があった。それ以降の時間を見計らってホテルに帰ることに決めた。
 カフェにでも入って今日これからの予定を立てようと思った。松島および平泉行きがどのくらい現実的か、金銭面と時間面から計算しなければならない。
 舗装された路は、どこを歩いても人が多く、京都も名古屋も敵わない。
 群衆から逃れるように足早に歩いていると神保町まで戻ってきていた。ビルのはざまに古書店がずらり並んでいるのは壮観だ。わたしは入りやすそうな店を覗いて、現代詩文庫や作家の対談などを立ち読みした。多く「文学」の営みに対して語られたり紡がれたりした言葉の連なりは、わたしに少しのあいだ現実の時間を忘れさせてくれた。
 その結果、新たに二冊購入した。一冊目は『芭蕉紀行文集』。また手持ちの本が増えるが、芭蕉とその周縁に取り憑かれているので仕方がない。こんなふうなら日本文学科のゼミに入ったほうが良かったかもしれない。いや、学業が絡んでいないからこれだけ奔放に読書ができるのだ。二冊目は、フォークナーの研究書で、こちらは卒業論文の参考文献のつもりで買った。
 というのもわたしは『響きと怒り』という小説を、とくにキャディ・コンプソンという登場人物の言動を事あるごとに思い起こすほどに愛しているのだった。
 こちらがさみしさとか欲とか呼ばれるものに身を預けて事を起こしたり、偶発的な流れに巻き込まれてやり切れなくなったときに、記憶の中のキャディが出てくる。彼女はわたしに語りかけることはなく、ただ映像として浮かんでくる。映像のキャディは押し黙ったまま弟のベンジーを抱きしめ、兄のクェンティンが救済されるよう両手をかさねて祈る。
 奔放で身勝手な部分もありながら、それでも大切なものへの愛を失わず、藻掻きながら生きる若いキャディは、わたしの心に寄り添ってくれる存在なのだ。
 初めて読んだのは大学2年の夏だった。玉城さんに感想を話した時のことをよく憶えている。サークルメンバーで川辺に行き、バーベキューを行っている最中だった。わたしが読んだ本のことを話す相手は、文芸サークルの中でも数少ないのだが、新入生の頃から対話しさまざまな知識や示唆を与えてくれたのは玉城さんしかいない。
 彼は肉を焼きつづけている七輪のまわりや、一通り食べたあとプールで使うような巨大な水鉄砲を打ち合っている部員のどちらとも距離を取って、ハイネケン片手に岩の上でぽつんと川を眺めていたのだった。わたしは紙皿に肉を載せて、割り箸を持って彼のところへ歩み寄っていった。
「思いやりの権化だな」と彼はいって、眼を細めながらわたしに微笑みかけた。
「そのTシャツ、だるだるですよ」
「うん。高校ん時から着てるからな」
「お肉食べてください」
「いいや、俺はいいよ。キミが食いなよ」
 太陽の光が玉城さんを照らしていた。浅黒い彼の肌に体毛が薄く透けて、額には汗が粒になっていた。遠くで他のグループが川に入ってはしゃいでいた。
「じゃ遠慮なく」といってわたしは焼肉を食べた。
「最近何読んだ?」
 わたしたちのお決まりの会話だ。それでわたしは『響きと怒り』の感想を話したのだ。
「フォークナーに共鳴するってのは、女の人じゃ初めてだ」と率直な表情で玉城さんはいった。
 ま、俺女友達少ねえから。
「男だったらたくさんいるんですか?」
「三人……、俺を入れたら四人だな。四人知ってる。
 フォークナーの女性造形って、キャディにしてもリーナにしても、あとテンプル・ドレイクもそうだな、ちょっと男性の理想を盛り込みすぎてる感じがする。恋に惑い肉欲にひれ伏す美しく哀れな女性像。しかも共通してるのが、知性のなさだな。無知であるがゆえに無垢であり、慈愛に満ち溢れている。そういう存在がある種の救いとして読み手に作用するというのは、黙って胸に秘めておく分には俺みたいな人間には万々歳だけども、女性読者から見て、リアリティがあるのかどうか分かんないな」
 そういって玉城さんはハイネケンを飲んだ。わたしは少し考えてからこういった。
「リーナとテンプルは分からないけど、少なくともキャディは、生きている感じがしますよ。それも切実に生きている感じが。わたし、読んでると泣きそうになるんです」
「どういう場面で?」
「娘のために必死になるところです」
 すると玉城さんは、
「そうなんだ」とまたもや率直にいった。彼は文学に関して知らないことに直面すると、事細かに訊ねてくるのが常だったので、だからわたしは今の説明でどの場面について話しているのか彼に伝わったんだろうと受け取った。
 玉城さんはわたしの主観的な感想についてはよくこの「そうなんだ」で答える。大方腕組をして、二、三度うなずく。そしてまた話題は移りかわっていく。
 この潔さが心地良いのだった。むやみに反論して自分の意見をわたしに押しつけようとか、そういうことは全くなかった。それに、「娘のために必死になるところ」などという乱暴な説明で伝わる相手は彼くらいしかいない。
 それでいて、わたしの読みが浅かったり、はっきりテクストと矛盾している点は、ご丁寧に指摘してくれる。その指摘が優しく諭すようなものいいならば聖人なのだが、実際はヒートアップして声を荒げる場合もある。動物園で喧嘩している猿みたいだ、とわたしは思う。大声になる必要など何もないのだから、つまり彼は間違いというものに出くわすと、単純に興奮してしまうタチなのだ。逆にいえばテクストに対してそれだけ真摯になれて、真摯になることにこだわりを持っているということだった。それは玉城さんの個性であり、長所でもあるとわたしは思う。
 もっとも長所であるというのは人間としての魅力という観点においてであって、例えば就職活動という観点でみるとこれは反転するだろう。玉城さんは民間企業に就職せず、進学して哲学博士を目指すほうがわたしから見れば向いているような気がしているが、哲学や思想の研究がどういったものなのか、文学研究とどう相違があるのか、わたしにはよく分からない。
 あの日川辺では強い風が吹いていて、話していると髪が乱れるほどだった。最後にはわたしたちの部員も酔っぱらった何人かが川に飛びこんだ。玉城さんもそのうちの一人だった。
 わたしはというと、もちろん飛びこむようなことはなく、岩の上に立って他の部員と大笑いしていたように記憶している。ここ最近はあんなふうに開放的な気分になることも減ってしまった。


    *


 見つけて入ったスターバックスは、駅から少し離れているからだろう、幸いにも満席ではなかった。しばらくのんびり過ごして、神田のホテルに戻ったのは十六時少し前だった。夕食用にコンビニでサンドイッチを一つ買った。このまま部屋に籠るつもりだった。明日朝の出版社のグループディスカッションも、このままだと行かないだろう。
 わたしは鏡の前の椅子に腰かけて無心に窓の外を見ていた。九階だが、夜と同様日中も大していい景色ではない。すぐ前にはビルが建っていて、そのせいで遠くまで見通せない。窓際に身を寄せれば道路を行き交う自動車や通行人などが見えるが、それもありふれた都市の喧騒にすぎなかった。
 自然の景色に触れたいような気もするが、あまり金を持っていないし、一人で泊まる勇気もない。明日どうするかをそろそろ決めないといけなかった。朝一番に東京を出て松島だけ見て日帰りで京都まで帰ることも可能だ。しかし移動ばかりで疲れるだろう。お金もかかる。わたしが目に焼き付けたいのは松島の月であり、つまり夜まで滞在しないといけないのだが、それはどうだろうか。そもそも明日は晴れなのか? 行き当たりばったりでは何も得られない。なにごとも準備が大切なのだ。受動的ではいけないのだ。それに松島と同じくらい平泉の中尊寺も見てみたいのだった。
 結局思ってみるだけで叶えず京都に帰るかもしれない。そのほうが楽ではある。
 ホテルのバスローブに着替えてベッドにもぐりこんだ。仰向けになって頭の後ろに両手を組み、天井を見つめる。だんだん自分がどうしようもない人間に思えてきた。
 生まれたときから一定の時期までは親の庇護下に入る。親たちが勝手に産んだのだから当然だ。しかし教育を受け社会で労働する力をつけさせられると(これは義務である)、今度は社会に出て食費・家賃・洋服代、それに税金を払わなければならなくなる(これも義務である)。労働を拒否するなら、誰かに養ってもらうか、生活保護を受けるか、そうでなければ死ぬしかない。
 そこまでの思考になんの陥穽があるとも思えない。
 ところが、仕事をするということは、今までのように決められた範囲の勉強をして、試験を受けて受かればよいというわけではない。
 答えのない就職活動を成功させて内定をもらい、やはり答えのない仕事をして、上司の指示を聞き、顧客の要望に応え、それを週五日繰り返さなければならない。
 そして自分の仕事によって経済的価値を生み出すのだ。経済的価値を生み出さない労働は、ただ時間と体力のみが失われ、報酬は期待できない。それが対価というものだ。
 それ以外だと、二人分以上の生活費を稼いでいる人間と仲良くなって、その人に養ってもらうという方法もある。すでに社会に出ている高校の時の同級生は、付き合っている彼氏に依存している場合も多い。そしてまた、高収入の彼氏のほうがいいと、遠回しに教えてくれたりする。
 誰かに養ってもらう場合、その人と対等な関係を保てるだろうか。主従関係というのは大袈裟だとしても、その人に気を遣った振舞いを常にしなければならないのではないか。そう考えると、あまり望ましいとは思えない。わたしに高収入の彼氏のほうがいいといった知人は、彼氏の複数人への浮気が発覚して泣いていた。
 ところで、拝島くんと一緒にいたとき、彼の女性関係はいかなるときも不鮮明だった。わたしのほうはわたしのほうで、拝島くんへの仕返しの気持から、他の男の人たちと寝ていたのだった。それは悲劇には違いないが、至極まっとうなことにも思えた。個性を持っている拝島くんに魅力を感じる女が他にいることは当然だった。わたしが他の男と遊ぶことで、彼のプライドなり気持なりが傷つけばいいと思っていたのかどうなのか、いずれにしてももう済んだことだ。
 結局、ずるずると親の庇護下にあるのが手っ取り早く、楽なのではないかと思う。後ろめたさ、罪悪感、そういったものと天秤にかけつつ、肩身せまく過ごしてゆく。暗澹たる思いがする。なぜわたしなんかを産んだんだろう? 身勝手すぎる。身勝手に産んだんだから、一生わたしを庇護してくれてもいいじゃないか。就活なんか辞めてやる……。
 考えてもどこにも終着しないのでやめにする。
 わたしは幼い頃から物語や小説がすきだったし、そこに書かれていることを通して、生き方について考えるのもすきだった。しかしそんなことでは学位こそ取れてもお金は稼げない。
 分かっている。そんなことくらいずっと前から知っている。

 漂泊するか留まるか、布団にくるまりながら逡巡しているといつの間にか眠っていて、目覚めると夜だった。選ばなければいけない状況というのはいつでもわたしを困らせる。重い頭を起こし、無理やり伸びをした。
 そして椅子に腰かけて煙草を一本吸った。音もなく上昇してゆく煙を、目を細めて眺める。煙草の先が赤く燃えていた。
 手持ち無沙汰になり、スマホでツイッターを開くと、昼に会った玉城さんがわたしの知らない男の人と飲み屋で肩を組んだ写真が目に入った。
「久々のさいかーい! ビールさいこー!」
 丸く巨漢な玉城さんが、痩せ型の男にくっつき、破顔している。皮膚はニホンザルのように紅潮していて、すでに酔いがまわっているようだ。
 わたしはすぐさまツイッターを閉じた。そしてそのままホテルの予約サイトを開き、最初に出てきた仙台市内のホテルを予約した。明日も漂泊しようと思った。そのまま帰らないという手もある。
 それから机に置かれた案内のファイルを見て、着替えてから一つ上の階にある自販機コーナーに行き、缶チューハイを買って戻ってきて、飲んだ。わたしは酒に弱く、500㎖を一本開ければ頭はふわふわして平常でなくなる。
 壁が薄いせいか、隣の部屋から会話する声が聞こえていた。男二人が話しているが、内容まではわからない。会話は止むことなく続いていて、ときおり低い笑い声が数秒間続いた。笑い声が繰り返される度にわたしの不快感は高まった。
 窓の外では電車の音がこれも等間隔でひっきりなしに続いていた。
 服を脱ぎ、バスローブに着替えてベッドに寝転んだ。ここにきてようやく都会の孤独が肌に染みてくるような気がした。
 猫がいないせいだ、とわたしは思った。京都の街を歩いていると、狭い路地裏には大抵猫がいて、アスファルトに寝転んだり前足で顔を掻いたりしている。だいたいどの道も碁盤の目になっているので、一本隣の道に入ってもちゃんと行きたい場所に出る。
 夕暮れ時など、アパートの周りを時たま散歩しているが、太陽の光を浴びることや四季折々の花や木々を眺めることと同じくらい、路地裏の猫にばったり出会うことを期待しているのだった。北野天満宮や妙心寺の境内を歩くのも風流だ。木漏れ日を浴びながら敷き詰められた白い小石を踏んで歩くのだ。
 ところが、昨日と今日で歩いた道に、猫などいる気配はなかった。どこを見渡しても人、人、人だった。
 それに細い路地を見つけ、期待しつつ入り込んでも、その先は行き止まりで、ただ住宅だけがある。地図を見ないと前にすら進めないのだった。
 京都で流れる時間のゆるやかさに比べ、この街の時間はせわしなく、余裕なく、仏頂面で、要領がよく、すなわち厳しい。まるでわたしがその入場券を手に入れようとしている「社会」というものの無料サンプルを見せられているかのようだ。
 竜安寺に座ってじっと枯山水の石庭を眺めたり、左大文字山をみながらソフトクリームを食べたあの穏やかな時間の流れは、この街にいては味わえないのではないだろうか。あの日々のゆとりは、どこへ行ってしまったというのだろう。
 文庫本を開いても、文字が滑って脳内に入ってこなかった。よく分からないまま視線だけを走らせてページを繰っていたが、それも諦めてスマホでゲームをしていると、玉城さんからラインが来た。スターバックスを出るときに、既読をつけてスタンプを返していたのだった。
〈もう京都帰った?〉
 この一言は、わたしを瞬間的に苛立たせたが、二分後には返信していた。
〈まだ東京です〉
〈電話していい?〉
 その画面のまま、必死に頭を回転させて、なすすべなしと思い〈どうぞ〉と打とうとした時に着信があった。
 わたしは着信音を三回聞いて出た。
「もしもしサリー?」
 声の通りが悪かった。どうやら屋外を歩いているらしい。
「玉城さんこんばんはです」
「いやー遅くに悪いね。明日朝早いの?」
「昼からです」とわたしは反射的に嘘をついた。
「そうかそれは良かった。ところでさ、俺就活辞めるわ」
「えっ?」
「辞めるも何も最初から始めてないようなもんだけどな。今日のとこも一次面接だし。キミは上手くいくといいな」
「えなんで辞めるんですか? というか、なんで始めたんですか?」
 玉城さんが自慢話をしてくるならすぐに切ろうと思っていた。あるいはわたしのことを詮索してくる場合もそうだ。しかし就活を辞めると言われるとは予想していなかった。
「今いったように始めてすらいないんだよ。俺の中では。つまり俺があそこにいたということが決まり悪いんだな。失態だ。生き恥だ。また恥を積み重ねたんだ。わんこそばの椀みたいにな。どうせなら徳を積み重ねたいもんだぜ」
「わたしも大体おんなじです」
「なんだって? 電波悪いのかな」
「わたしも玉城さんとおんなじふうに考えてます。つまり就活辞めようかと」
 一瞬、否定されるのではないかと思った。勿体無いよとかなんとか。しかし違った。
「俺の考えがまともだと知れてほっとしたよ」
 わたしは呆れるように笑ってから、
「まともじゃないですよ」といった。
 玉城さんは大笑いして、
「そうだな。俺なんか今どん詰まりだもんな。目的なく院行って論文書いてたんじゃね。就職先もありゃしない。奨学金は増えていく一方だしね。
 働いてる友人と比べてね、なにやってんだと思うよ。教授やら研究室の人たちには気も遣うしね。対するキミは、無限に選択肢がある」
「無限じゃないですよ」
「無限だよ」
「例えば、もう医者にはなれません」
「なれるよ」
「なれません手遅れです」
 玉城さんは掠れた声で笑って、大きなくしゃみをした。
「てかどこ歩いてるんですか?」
「品川」
「なんで?」
「夜の散歩だよ。月が綺麗だぞ」
「はあ」
「日本は良いよ。真夜中に出歩いても事件に巻き込まれない。男だから余計にだろうけど」
「ツイッター見ましたよ。一緒に飲んでた友達はどうしたんですか?」
「とっくに解散したよ。明日も仕事なんだってさ。まあ当たり前だよな。お先真っ暗な社会不適合者に付き合ってくれただけ感謝すべきだよ。
 そいつは新卒2年目でさ、今年の採用面接を任されてるらしいんだよな。俺ちょっとびっくりしちゃってさ。まあ社員数が五十人くらいの規模の小さいメーカーなんだけどさ。
 嫌になっちゃったな」
 そうなんですね、とわたしはいった。
「学部のときはヘーゲルだとかシェリングだとか語り合ってたのにさ、あいつ今は思想書読んでないんだってよ。休みの日は彼女と映画館に通ってるらしくてさ、頭使わなくてリフレッシュになるんだって。ちょっと稼いでるからって、冗談じゃないよ」
「肩組んで、あんな楽しそうに見えたのに……」
「盛り上がったのは最初だけだ」
「それで今は徘徊してるんですね。泊まるところないんですか?」
「愚問だね。どこでだって泊まれるさ。それよりもさ、サリーは『野生の探偵たち』って読んだことある?」
「聞いたことないです。誰の本ですか?」
「ボラーニョって作家の小説だよ。上下巻あるけどさ、あまりに感動して二周しちまった。良いよ。俺たちのための本だよ」
 俺たち、という言葉がやけに反響した。
「今だって持ち歩いてるんだ。読みながら歩こうにも暗くてだめだね。特に気に入ったページには折込をいれてあるんだ」
 玉城さんはどちらかというと寡黙なのだが本の話になると饒舌になる。こういう一方的な会話は今までさんざんやってきた。
 わたしは通話をスピーカーモードにして、煙草に火をつけた。ライターのカチッという音が彼に聞こえたかどうかは分からない。
「どういう本ですか」
「詩を書いてる若者たちの話。みんな仲間なんだ。詩ってのは夢であり野望だからさ、そういう自分のやりたいことを続けている奴もいれば、詩に見切りをつけて働いたり、恋人に生活費稼いでもらって生きてる奴もいる。人の数だけ人生があるわけなんだな……」
 玉城さんはあらすじを語り続けていた。わたしは彼の言葉を一字一句聞き逃さないように集中していた。いつものことだった。
 わたしは子供の頃から一方的に会話を吹っ掛けられることが多かった。相手はその都度変わったけれど、みんなクラスで浮いている人たちだった。話しかけてもらえるのは嬉しいし相手を傷つけたくなかったから、以前のわたしはできるだけ真摯に会話していた。そのせいで他人に執着されることがあった。そのうち、無視したりその場を立ち去ったりと、徐々に防衛の手段を憶えてきた。その実行は最初こそ胸が痛んだが、話しかけるほうが自分のことしか考えてないことを悟ると、会話しない権利はこちらにあると確信できたのでなんでもなかった。
 わたしが玉城さんの話を集中して聞き続けるのは、饒舌の渦中においても彼がわたしの相槌や返事を聞き逃すことがないからだ。この会話を対話だと認識しているゆえんでもある。それに内容もわたしにとって聞く価値を見出し得ることが多かった。
「なんでページを折るんですか?」
「なんでってそりゃ、分かりやすいようにでしょうが。どのページだったか分からなくなる」
「ポストイットを使えばいいじゃないですか」
 あー、と玉城さんは声を上げた。
「そういう発想なかったな」
「本も汚れなくて、いいですよ」
「でもさ、付箋貼ることで満足しちゃいそうじゃない。それじゃスタンプラリーになってしまう」
「そんなことないですよ」
 わたしは色分けしてポストイットを貼る。気に入った表現と、重要な記述に。
「ともかく俺は思ったんだ。今日特にさ。つまり、働いて金を稼ぐことはこのうえない愚行なんだって」
「で、どういうページを折ったんですか」
「興味あるのか。流石だ」
 わたしは缶チューハイを飲み干した。
「暇つぶしですよ。せめて笑わせてください」
 玉城さんは一瞬沈黙したあと、
「一言で紹介できるもんじゃないんだが」と前置きして話してくれた。
「この小説は複数の人物へのインタビューで成り立ってるんだ。その数なんと五十三人。みんながアルトゥーロ・ベラーノっていう主人公について語るんだけど、その中にボディビルダーの女の子のインタビューがあってね。主人公の友だちなんだ。
 ある時ベラーノが彼女に映画『シャイニング』の話をする。ジャック・ニコルソンが演じてる劇中の男は、500ページ以上の小説を書いている。しかもたった一つの文章を際限なく繰り返して。なんだっけな、『とても早起きしたからといってそれだけ夜明けが早く来るわけではない』だ。この文章を繰り返してる」
「面白そう」とわたしは感心していった。あい変わらず電波が悪いようで、電話越しにノイズがしていた。「それってほんとにそうなの? つまりキューブリックの映画も」
「それがどうやら違うらしい。って解説に書いてあった。
 それでさ、同じ文章を大文字とか小文字とか下線引いたりなんかして500ページ書いた小説に対して、彼女は『気が狂ってたのね』というわけなんだ。そしたらベラーノが、『いい小説だったかもしれない』っていうんだ。興味深いだろ。そのあとがすごくよくてね。大体この挿話は海岸で語られるんだ。で、俺も来た」
「来たって、玉城さん今どこにいるんですか?」
「海を見てる」
「じゃあさっきからのは波の音なんですね」
「波の音なんかしないよ。とにかく彼女は反論するんだ。えーと……」

 たったひとつの文章が繰り返されるだけのものが、どうすればいい小説になるっていうの? それは読者に対して失礼な行為じゃない、人生ってのはそれだけで充分ひどいのに、そのうえお金を出してまで「とても早起きしたからといってそれだけ夜明けが早く来るわけではない」とだけ書かれている本なんて買わないわよ、それはあたしがウィスキーの代わりにお茶を出すようなものよ、詐欺よ、無礼よ、そう思わない? 

 以上、と玉城さんはいった。
「で、どこがいいの」とわたしはいった。しばらく沈黙がつづいた。
「『人生ってのはそれだけで充分ひどいのに』だな。それに『読者に対して失礼』ってのもぐっとくる。小説は書き手の独りよがりじゃいけないんだ。商品として出版するなら尚更ね。でもベラーノは、別に商品を作って金儲けしたいわけじゃないんだろう。読者の為ではなく、自分の欲求に従って書く。失礼かどうかなんていうモラルとは無縁なんだな」
「人生ってのはそれだけで充分ひどい、って、そんなのいうまでもなく当たり前のことだと思うんだけど」とわたしはいった。
 玉城さんは咳払いして何も答えなかった。
「聞いてます?」
「ああ聞いてるさ。おっしゃる通りだな。しかしこんなエンタメ小説読んじゃってさ、修論が全然進んでないよ。ほんとは論文をもっと読まないといけないのに。キミは最近なに読んでる?」
 逃避としての読書。わたしと玉城さんの共鳴は、驚きでもあり微笑ましくもある。そう思いながら、
「芭蕉」とだけ答えた。
「え、松尾芭蕉? 予想だにしなかったよ。面白い?」
「ずっと『おくのほそ道』を読んでるんですけど、やはり言葉が格別だと思います。それに、とても古い作品ですけど、日本のことが描かれてるのは良いですね。
 例えば、

   秋涼し手ごとにむけや瓜茄子

 なんて、日本の食べ物だから馴染みが深いんですよ。海外の小説だと、食べ物もそうだけど、土地のこととか風習とか、馴染みがなく距離が遠すぎて、新しい世界を知れるということもあるけどその反面実感が湧きにくいんですよね。
 わたしはすぐにお盆のおばあちゃん家のことを思い出すんです。昼ごはんに素麺と一緒にきゅうりと茄子の浅漬けがいつもありました」
「おばあちゃん家ってどこ?」
「瀬戸市です。名古屋の隣」
 玉城さんはへえ、といい、尚も何か話そうとしていた。わたしは一気に話した手前、黙って彼の言葉を待っていた。
「松尾芭蕉とは風流だなぁ。でもサリーはやっぱり『野生の探偵たち』読むべきだよ」
「そこまでいうなら今度貸してください」
「えー。手放したくないんだが。俺いつもいってんでしょ。本を貸すときは金を貸すつもりじゃなきゃだめだって。だってどうせ返ってこないんだし。貸すならば返ってこないという覚悟をして……」
「今更なこと訊いていいですか」
「なに?」といったあと、またくしゃみが聞こえた。「寒いな。そろそろ帰ろうかな」
「玉城さんって、なんで院に行ったんですか?」
「あーね。そりゃ働きたくなかったからさ」
「そんな……」
「教授にも声かけられてたし。
 キミだって、院進という選択肢もあるんだから。専修免許とって高校教師ってのも何人かいるよ。俺は絶対無理だけどな。ガキに勉強教えるなんて」
 院進? 玉城さんが本気で話してないことはすぐにわかる。普段からそのことを突っ込むと白状してくれる場合も何度もあった。でも今日はそれには答えず、
「わたし、そういう選択って苦手なんですよね。受動的っていうか。状況に流されちゃうっていうか」
「受動的って……でも就活してるじゃないか」
「就活はみんながやってるからです」
「それに、ちゃんと読んでもいる。読んでるやつって少ないぞぉ」
「それこそ受動です!」とわたしは勢いよくいった。「作家の書いたものが面白いから」
「ああ分かった! 哲学と物語は違うわな。哲学書は読むのも一苦労。書いてあることを元に考えるんだから。思索してはじめて、その本を読んでるといえるんだろう。俺にとって読むとは思考することが前提だからな。文学でもそうだよ。サルトルとかドストエフスキーとか。
 ところがたしかに、キミが好んで読んでるものはそれに当てはまりづらい。論理というより美的感覚。思想というより芸術だ。芭蕉は十七音の詩人だし、前に話してたフォークナーだって元来詩人だものね」
「フォークナーって詩人なんですか?」
「当たり前だろうがよ!」といきなり声を荒げた。「『大理石の牧神』も知らないのか? 常識だろ」
「いやいや。常識ではないと思いますよ」
「いやいやいやいや。常識やで」
「なんすかそのエセ関西弁は」
「だから俺はボラーニョを読めっていってるんだ。すべてお見通しなんだよ。ボラーニョもフォークナーと同じように詩人から小説家になって成功したんだ。サリー絶対すきだって」
「でも玉城さんのいう通り、わたし哲学的なの嫌いかも」
 すると玉城さんは満足そうに鼻を鳴らした。わたしはきっと紅潮しているであろう彼の顔面を引っぱたきたい気持がした。
「で、何の話だったっけ」
「もう大丈夫です。先輩あんまり外にいたら風邪ひきますよ」
「おう。もうすぐ帰る」
「そうして下さい」
 サリー。
 はい。
 健闘を祈ってる。
 不意打ちの言葉にわたしは心を乱された。
「ありがとうございます。玉城さんも、身体に気をつけてくださいね」
「ああ、そこの公衆便所で小便して帰るよ」
「泊まるとこあるんですよね?」
「ん? それって泊めてくれるって意味?」
「はい?」
「なんでもねえよ。ホテル取ってあるよ。あたりまえやろ」
 お疲れとお休みをいい合って通話が終わると、にわかに静寂が訪れた。窓の外も隣の部屋も、しんと静まり返っていた。
 話したり聞いたりしたせいで、頬が熱い。ベッドにどかりと寝ころんだ。
 久々に人と本音で話せたことで、充足感が身体を支配していた。寝ころんだまま両腕を頭の上にぐっと伸ばすと、長い間同じ姿勢でいた筋肉がほぐされて気持よかった。
「人生ってのはそれだけで充分ひどいのに」
 一度否定したはずが、だんだんと良い言葉に思えてきたから不思議だ。
 少し休み、シャワーを浴びた後、布団にもぐりながら頭の中を巡っていたのは彼がいった「月が綺麗だぞ」という言葉だった。
 というのもわたしはこの日一度も月になど目もくれなかったからだ。玉城さんと同じ感慨を味わうためにホテルを出ることはおろか窓から外を覗いてみることもせず、そのまま眠ろうとしている。松島の月うんぬんとずっと夢想しながら、今夜が満月なのか三日月なのかそれすらも把握していない。
 月こそ、地球唯一の衛星として古今東西さまざまな詩人の詠嘆の対象になってきたというのに。京都にいても東京にいても、月の光は我々を等しく照らしているのだった。もっとも玉城さんは月見の為に歩いていたのではなく、海を見るために歩いていたのだったが……。


    *


 カーテンの隙間から太陽の光が差しこんでいた。ベッドから起きあがったわたしは伸びをして、カーテンを開けた。午前九時半だった。本来予定していたグループディスカッションは、すでに始まってしまっている。  
 顔を洗い、窓の外を眺めながら冷蔵庫に入れておいたサンドイッチを食べた。そして歯を磨いたあと、クローゼットにかけていたスーツを畳み、スーツケースにしまった。代わりに取り出したのは花柄のワンピースだ。昨日の夜からこれを着ようと決めていた。一緒に、シューズケースに入っているスニーカーも取り出した。
 今日この後をどうするか、まだ決めかねていたのだった。ただ就活のことは、京都に帰るまで一旦忘れようと思った。 
 仙台のホテルを予約してしまっているので、東北新幹線で松島に向かうというのが、まず考えられる選択肢だった。実際に行ってみると、わたしの内省的な気分が絶景によって癒されるかもしれない。しかしさらに時間とお金をかけて移動するというのは、その対価を考えたときに、億劫でもあった。
 とりあえず東京駅に向かうことに決めた。場合によっては、そのまま京都に帰れる。

 チェックアウトを済ませて神田駅から東京駅に移動した。キャスター付きのスーツケースをひっぱりながら群衆の行き交う構内をすりぬけ、新幹線の切符売り場にたどり着き、近くの椅子に座り込んでも、わたしはいまだに判断しかねていた。
 行きたい気持は山々だが、ここからさらに交通費をかけて、北上する価値が果たしてあるのか分からなかった。結局は京都に帰ってまた面接を受けるに決まっているのだ。
 どれを選んでも料金は発生するが、ホテルのキャンセル料だけで済むのならまだましな気がした。衝動的に予約した昨日の自分を恨んだ。
 これまで、旅行するときは必ず誰かと一緒だった。今のわたしは、漂泊する決心もできず、やるべき事から逃避しただけで、途方にくれている。
 芭蕉が隠棲していたという深川あたりに足を運んでみるのはどうだろうか。たしか芭蕉記念館があるはずだ。悪くないが、ルートを検索するのも面倒だった。
 これまで受動的に、流されて生きてきたツケがまわってきたのだ。
 将来のプランも展望もなく、英語が得意なのと小説を読むことに惹かれているという理由で文学部の英米文学科を志望し、指定校推薦で進学を決めたのだった。就きたい職業はこれといってなく、ただ周りに流されて面接を受けていた。出版業界や印刷業界を受けようと思ったのも、サークルで部誌を編集し、印刷していたという安直な動機にすぎない。
 わたしは専門的な資格をなにも持っていないし、働くことへの強い意欲もない。気持がないのだから、内定を貰えるように自分の価値をアピールできないのだ。
 アピールには、強い言葉が必要だった。面接官が期待を抱くような、分かりやすく、極端で、意欲的な言葉。夢を感じさせる言葉で、なおかつ現実に即した言葉。そのような言葉を、的確に、戦略的に、したたかに、人に届く声で発する必要があるのだ……。
 また就活について考えてしまっている。これでは堂々巡りだ。諦めろ、わたし。人生のレールなんて所詮自ずから決定されていて、努力なしに切り替えることなどできない。すべては、なるようになっていく。
 わたしの鈍痛はわたしの無知さに起因している。狭い小屋の中で孤独にうずくまっていた兎が広野に放り出されて途方にくれている。世界にはありとあらゆる生物が行き交う。わたしは耳をそば立て、遠くの物音を聴きのがさず、わたしだけの呼吸を続けるしかない。
「仲間」という題のつけられた、三人の裸婦の彫像の前を、多くの人が行きかっていく。そのほとんどがわたしよりも年上だった。揃いもそろってよくそんなに生き続けているものだな、とわたしは思った。
 電車を乗り継いでどこかに行きたい気持ちがしなかった。用事もないのに出歩くなんて、面倒くさい。わたしはこれまで、垂れている糸を辿ってきたのだ。糸のない道には行くことはない。
 急に中学校の卒業式のことを思い出した。卒業証書授与のあと、体育館で私たちの学年は「旅立ちの日に」を合唱をしたのだった。
 合唱の前に、選ばれた生徒たちが言葉を述べた。

A  私たちは今日、
全員 卒業します!
B  **中学校で過ごした三年間の日々は、
全員 決して忘れません! 

 誰かひとりが一言いい、全員が声を揃えて言葉を繋げる、お馴染みのやつだ。
 わたしもセリフをいううちの一人だった。前後の流れはすっかり忘れてしまったが、不思議と自分のセリフだけは今でも憶えている。わたしのセリフは、
「これからは、自分で道を選ばないといけないんだね」というものだった。
 確かにみんながみんな、高校に進学するわけではなかったし、進む高校だってさまざまだった。しかし、私立高校から私立大学へと、わたしの進路は「自分で道を選んだ」とはとてもいえそうにない平凡なものだ。
「これからは、自分で道を選ばないといけないんだね」
 今がまさしくその時だった。知人たちは次々に内定を獲得し始めていた。拝島くんは大学を中退した。玉城さんは就活を辞めるといった。わたしは?

 ――先ほどから視線を感じる。向かいの通路に立っている中年男性の視線。あまりここにいるのも危険だと勘づき、椅子から立ち上がった。
 構内にはレストランやカフェがいくつも並んでいる。商業施設のようで、とても駅とは思えない。少し歩いていくとコインロッカーがあったので、財布から千円札を出してキャリーバッグと就活用鞄を預けた。
 小さなポーチだけの格好で身軽になり、力も湧いてきた。わたしは今後の判断を保留するかのように、丸の内中央口の改札を抜けると、そのまま歩き続けた。すぐに人はまばらになった。しんとした空間に、わたしの足音だけが響いた。スニーカーは軽くて歩きやすかった。

 皇居外苑の外堀には水が溜まっていて、川と見分けがつかないほど大きかった。一羽の白鳥がくちばしを使って水をかけていて、そのすがたを散歩中の老人が眺めていた。わたしも歩きながら遠目にみた。ここから見えるのは高層ビルばかりで、民家などとても建っていない。それもずいぶん遠くにあるばかりで、車もあまり通らない広い車道に街路樹が等間隔にならんでいる。急にひらけた空間は、わたしがこれまで感じていた人の波で窒息しそうな狭苦しさはなく、開放的な空間だった。
 丁寧に手入れされた公園には、芝生の上にたくさんの黒松が植わっていた。それぞれの幹の模様に感動しながらしばらくじっと眺めたりスマホで写真を撮ったりしていた。そのうちの一本に近づいて幹にある大きなウロを覗きこんでいるだけで、わたしはじんわり回復してゆくのを感じた。根源的な解放・解決ではないにしろ、そのとき確かに不安な気持が消え失せたのだった。たくさんの緑に囲まれるのは素晴らしいことだ。
 皇居外苑は絶えずスポーツウェアを着た人たちがジョギングをしていて、わたしは思わず頬を緩めた。
 皇居は外苑を除いても、面積が約百十五万㎡。東京ドームは約四万七千㎡だから、それが二十四個まるまる収まる広さだ。ほんとに広いので、歩くだけでも段々と疲れてきた。ようよう桜田門まで歩きながら、この広い敷地が芭蕉の時代は江戸城だったという事実に思いを馳せた。にわかに信じがたいことだった。そして『おくのほそ道』の文章を思い出していた。〈旅立〉の章で、遥か彼方に富士山を見た芭蕉のことだ。

 明ぼのの空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。

 昔はこの辺りから富士山が見えたのだ。芭蕉は隅田川を舟で進んだ先の千住で、出立のための句を詠んだ。

   行春や鳥啼魚の目は泪

 わたしは時間も空間も旅をした気持で浮遊していた。しかし、「いつかはと心ぼそ」くなって初めて可能になる放浪の旅というのは、なにかを賭けた人間にしかできないのだった。
 言葉だけを頼りに、身体を張らずに追体験して悦にひたっているのは、罪深いような気もする。そんなままではどんな感動をも掴み取ることはできないのではないだろうか?
 しかしわたしは歩いている。しかも一人で歩いている。生まれて初めて皇居を見にきた。少しは進歩しているじゃないか。今はそれで精一杯だ。
 悠久の時に比べたら、わたしの人生はちっぽけで儚く、一瞬なのだと、月並なことだが身に染みて感じた。江戸城からの時間の流れ、かつてあったものは消え失せ、かつて生きていた人も消え、それでも街は、草木は、川は、ずっとこの場所でとどまりつづけている。
 季節は巡り、今年もまた春が行き去ろうとしているのだった。
 わたしは充足した。これ以上この土地に滞在する必要がないという直観めいたものがあった。
 帰ろう。芭蕉にゆかりのある深川とか、ゼミで教授に勧められていた国立国会図書館とか、東京にしかないもの、東京でしか体験できない場所に行くことはなかったけど、それでも帰る。
 京都方面の新幹線に乗ることだけが自分の求めていることだと思い、吹っ切れたように回れ右して東京駅に戻り始めた。

 帰りの新幹線で『おくのほそ道』を読み終えた。そのあと開いた『芭蕉紀行文集』の解説に、冷や汗をかくようなことが書いてあった。
 それは『野ざらし紀行』の旅と深川隠棲について触れられた箇所だ。

 俳諧を生活の手段としてではなく、生きる方法として考えなければならないと決意した。それはまず世俗を去ることであった。しかし生計を支えるためには世俗を全く遮断するわけにはいかない。この矛盾を切るためには生活を最低限において環境を変えることであった。深川隠棲も旅に身をおくこともその方法であった。これは彼においては世俗生活に対する敗北としての現実逃避ではない。貧しさを清貧とし、「わび」と見る積極的な孤高の精神である。これを知識としてでなく体験の場としてえらんだのがこの行脚ではなかったか。

 収入のない芭蕉が一人で生活できることはなく、実際には弟子の厚情により米や菜や半紙などを贈ってもらっていたことが、芭蕉が弟子たちにあてた書簡の内容から明らかになっている。都市生活からの脱出を可能にしたのは、彼の才能に傾倒する支持者のおかげだともいえる。
 しかしそれを踏まえた上でも、「世俗生活に対する敗北としての現実逃避ではない」という言葉は、わたしの肺腑に刺さった。世俗が嫌だから芸術を志すのではない。世俗を捨てる決断をして芸術に奉仕するのだ。それは後戻りの許されない人生をかけた跳躍だ。圧倒的芭蕉の能動的人生だ。
 対するわたしは、この身を捧げようとする芸術もなければ人間もいない。ただ勝手にやってくるその場その場が耐えられなくて逃げ出したいと思うだけだ。松島の絶景を願ったのはまさに逃避であり、それは芭蕉の生き方とは正反対のものだ。いや待て、わたしはなぜ芭蕉の生き方を問題にしているのだろうか? わたしはただ『おくのほそ道』のテクストのみを愛読しているのではなかったか? 芭蕉の詩的精神が偉大だろうがそうでなかろうが、わたしが言葉に圧倒されている事実に変わりはない。
 そしてわたしは芭蕉のようには生きられない……。

 京都に帰ってくると郵便受けには配達物がたまっていて、ほとんどがチラシで一枚は水道料金の明細書だった。洗濯機をまわし、スーツケースの中身を整理した。


    *


 翌日は朝からずっと雨だった。目覚めてからも、しばらくわたしは蛹のように布団にくるまっていた。
 梅雨入りなんだな、と思って起き上がり、部屋干ししている洗濯物のあいだを潜りぬけてキッチンに出た。冷蔵庫から緑茶を取り出して飲み、再びベッドに戻って寝ころぶ。やるせなく、身体が重かった。
 窓の外から雨降りの音が聞こえてくるのは心地良い。昔からこの音がすきだった。子供のころは病弱で高い熱を出してよく学校を休んだ。そんなとき、実家の自室で母親の用意した氷枕を敷いて眠っていたが、朦朧とする頭の中で、雨の音は一定のリズムで降っていた。その心地良さというのは、雨が自分の身体をふわりと包みこむような感覚がするのだ。 街をゆく自動車のエンジン音が混じることもあったが、静寂のなかに雨の音だけがあった。アパートの庭や、近くの植物たちに恵みと潤いを与えていることだろう。
 印刷会社の最終面接の日時のメールが来ていた。それともう一社からは「お祈りメール」。最終面接に受かれば来年からの職場は大阪になる。もう一社選考をつづけている会社は、全国七か所にオフィスがあった。
 もし、受けている企業すべてが上手くいかなければ、名古屋の実家に帰ることになりそうだ。暗澹たる思いだが、根詰めて未来のことを考えても仕方ない。なるようになる。なるようにしかならない。どの街に住むことになっても、わたしの生活はどうとでも続いてゆくだろう。
 スマホもほとんどさわらず、ずっと雨の音に耳を傾け続けていた。退屈したところで、ふと、久々に本棚を整理しようと思いたった。
 本棚の空いたスペースにいつの間にか置いてしまっている、爪切りや眼鏡や頭痛薬をどけ、無造作に積み上げられている本も含め、五十音順に並びかえてみた。新しい本が追加されるとまたズレてしまうから、あまり実用的意味はないけれど、ゆっくり自分の蔵書を眺めてみるのは楽しい。特にハードカバーの小説は、装丁を気に入っているものも多かった。
 芭蕉専用の場所を作り、今までローテーブルに置かれていた幾冊かの本をそこに並べた。本棚に入れられてしまうということは、しばらくは読まれない運命を辿るという意味になる。

 拝島くんが頭を丸めて中退した後、彼と一度だけ連絡を取り合った。
 バンド活動を継続しながら、工房でピザを焼く仕事を始めたということだった。
 拝島くんが大学を中退した真意も、その結果がピザ工房でのアルバイト生活であるという現状も、わたしにはなんともいえない他人の人生ではあるのだが、ぐずぐずと籍だけ置くこともできたはずなのにきっぱりと辞める決断をした彼のやり方は、やはりわたしには選べない手段に違いないのだった。
 忘れようとしてもこうやって過去の記憶を辿るのは拝島くんが他の男の子にない魅力を備えているのもあるが、それよりもやはり、わたしが持ち合わせていない、そしてまたわたしがそうなりたいと思ってもなれない能動性を有しているからなんだろう。
 かつてその能動性について、彼に話したことがある。わたしの敬意が、恋心や依存心などと混同されることなく彼に伝わったかどうか自信はないが、それと引き換えにだろうか、彼はわたしのことを褒めた。
「蓮見って人の悪口いわないよな。誰かが教授の指導態度なり他の誰かの空気の読めなさなりに対してボロカスいってるときも、君は同調しない。同調しないでいられることは、すげえなと思う」
 それはそのほうが得だからだ、とわたしはいわなかった。黙っていると、こちらが納得していないと思ったのだろうか。
「他にも流石なとこあるぞ」と、彼はたたみかけるように続けた。
「シン・ゴジラ観にいった時、ゴジラが可哀想だといった」
「だってほんとに可哀想だったじゃん」
「ところがそれほど感受性が豊かな人ばかりではないらしい。でも極め付きはそれじゃない」
「何さ」
「猫に名前つけてる」
「え?」
 フランス語の講義が終わって、二人で図書館まで歩いていたとき、校舎の植え込みに茶毛の猫が寝転んでいたのだった。
 わたしは気がついた瞬間に、
「きなこもち」と呼びかけていた。
 拝島くんは戸惑ったようにわたしを見下ろして、それから笑い声を混じらせて「きなこもち?」と復唱した。「名前つけてんの?」
「うん。ほんとの名前は知らないけどね」
 大学内の猫の管理をするサークルがあって、キャンパスに居ついている猫たちにはそれぞれ正式な名前が別にあるはずだった。
「あれは俺をまどわす演技ではなかったな。そのあとの顔の赤らめようからして、思わずいっちゃったんだなってのが伝わった。蓮見らしさだな、と思ったよ」
 わたしはしばらく言葉に詰まっていた。
「んにしても、高校までは誰もおれを認めなかったのに……」
「そういうもんだよ」
「大学入って、バンドの奴らとか蓮見とかは良いようにいってくれるけどさ、変な感じだし、なんならその考えは間違ってるとも思うよ。俺は何も凄くない」
 それでわたしは拝島くんが誰にでも気安く話しかけるような人ではないことを改めて悟ったのだ。学生棟の非常階段や飲み会の後に見せたあの笑顔、切れ長の細い目をさらに細めて笑っていたあの表情は、大学生活という新たな環境で、わたしという存在にいくばくかの期待を抱いてくれた、幻滅するか否かのある種の賭けだったのだろう。
 拝島くんは音楽を作りたかったのだろうか。大学を中退すれば、それに専念できるとでもいうのだろうか。就職活動のスタートラインに立つことすら棄権しているのだから、参考になどなりはしない。
 わたしたちはずいぶん会話をしたはずなのに、肝心なことは知らないままだった。中身のないことばかりをいい続けていたように思う。
 拝島くんはわたしの黒髪がすきだといった。
「真っ直ぐじゃなくて、ウェーブしてるのがいいよな、しかもふんわりゆるく。よくそんなことが作為的にできるよな」
「それ皮肉? 作ってなんかいないですけど。湿気とかでこうなっちゃうの」
「じゃ天性のものか。ますますいいや」
 ベッドの上で、彼はわたしの髪を噛んだ。
「おいしい?」
「うん。日本酒に合いそう」
 炙ると美味いぞ。
 香ばしくなるからな。
 ちりちりになるよ。
 マヨネーズと七味つけたら最高だな。
 ――憶えているのはこんなやりとりだ。こんな下らないやりとりばかりが恒例となってわたしの部屋で幾度も繰り返され、いまだに忘れることはない。
 ギターの話は? 拝島くんが高校時代に使ってたアコースティックギターをわたしに貸してくれていて、この部屋でコードのことやピッキングのことを教えてもらったはずなのに、そういうことは全部忘れてしまった。
 そして何より、就職がどうとか、将来がどうとか、そういう話はそもそもしなかったのだ。そういう話はわたしたちにとって重要ではなかった。そういう話がわたしたちの瞬間的な熱狂や、流れてゆく時間の穏やかさに割って入ってくる余地などなかった。
 これといってやりたいことのないわたしが何かを目指して大学を辞めるなどということはあり得ない。しかし大学の勉強は、しなくても良いならしない方を選びたい。
 非正規雇用でギターを弾きながら暮らしている拝島くんに憧れるのは、辞めるという決断ができる強さに対してだが、わたしはそれを選ばないのだから、そうなりたくないのであって、そうなりたくないのならばなぜ憧れているのか分からなかった。いっそのこと軽蔑してしまえるくらいの方が楽な気がする……。
 決断できる強さを持てるほどに夢中になることがある事実にわたしは憧れているのかもしれない。

 東京で撮った写真を見返してみると、ほとんどが皇居外苑で撮影したものだった。堀や黒松など似たような構図で幾枚も撮っていたが、最も印象に残ったはずの松の大きなウロだけは一枚も撮っていなかった。
 午後、わたしは布団にくるまってだらだらしていた。カーテンの隙間から鼠色の空が見えた。ふと思い立って前髪をハサミで切りはじめた。その日の気分で、衝動的に散髪することはたまにある。あい変わらず雨の音が細かく聞こえていた。
 鏡でじっと自分の顔をみた。そうして面接を意識した笑顔を作ってみた。左右の頬にえくぼが浮かんだ。
 前髪は、幾分切りすぎてしまったような気がする。


    *


 翌週の火曜日に行われた印刷メーカーの最終面接は、答えづらい質問をされることもなく、二十分ほどで終わった。女性面接官のにこやかな笑顔に励まされ、企画営業の仕事に就きたいという意思を、自分の言葉で話すことができた。どちらかといえばこちらが質問をしている時間の方が長かったと思う。
 顧客の注文に合わせてパッケージや看板を印刷するというその業務内容について、面接官の話を聞きながら疑問に感じた事柄を数点質問した。彼女は企画営業部の日々の業務を具体的に説明しながら、優しく丁寧に答えてくれた。
 緊張もほとんどしなかった。「ありがとうございました」と頭を下げて会社を出た後も、疲れを感じることはなく、不思議なことに開放感すら感じなかった。来年からここのオフィスに通うとなると、大阪に引っ越すことになるのだろうと思った。
 帰りの阪急電車には十三駅から乗ったので、席は空いていなかった。わたしは扉の横にもたれかかって、車窓の外のしだいに暮れゆく街並みを眺めていた。遠くに鳥の群れが飛んでいた。
 その瞬間見ていた景色が次の瞬間には様変わりしているのと同じように、今までわたしに絡みついていた何かが、離れていってしまう感覚がした。紐がからむようにわたしに絡みついていた何かというのは、目には見えない感情の震えだという以上に、いいようがない。 
 わたしが面接官に向かって言葉を話せば話すほど、これまで見ていた景色、これだけは、と盲信していたこの世界への拠り所みたいなものを、すっと手放したような気がした。
 快速急行だから駅をいくつも通過していく。かつて拝島くんと一緒に降りた西向日駅も、――あの時乗ったのは準急で、彼の実家から駅へと続く一本道を歩いたときの、田畑に覆いつくされた夜の暗さと、静まり返った闇の中にただ蛙の鳴き声だけが響いていた、あの時、その記憶の残像も、さよならの気分を交えて通過していく。
 全身がこわばってその場で金縛りにあったようで、わたしはじっと電車の揺れに身を任せていた。そうしてこれまでわたしに起こった様々な出来事を追憶していた。知らず識らずのうちに下していたあらゆる選択とか、偶発的な巡り合わせとか。過去に思いを馳せると今わたしがこの瞬間ここにいることの不思議さに直面する。言葉にならない記憶の破片たちがいくつもの音になって、心の中を交響しながら、やがて電車はトンネルを超えて京都盆地にたどり着いた。

 就活と並行して、わたしは卒論に取り組みはじめた。提出はまだまだ先だが、二週間後のゼミで進捗状況を発表する必要がある。研究対象はウィリアム・フォークナー『響きと怒り』。前衛的な叙述の技法が内容に奥行きを与えていて神憑り的に見事なのと、なによりキャディがすきだからだ。閉塞的なコンプソン家から逃避する娘のクェンティンも身に迫るし、この作品を選んだ理由は無数にあるのだった。キャディの少女時代が描かれている、短篇「あの夕陽」との比較もやってみたかった。
 毎日午後から夕方にかけて大学図書館に通っていた。発表用のレジュメは日に日に文字数が増えていった。
 図書館では主に日本語で書かれた論文や研究書を網羅的に読み、家に帰ってからは『The Sound and the Fury』 を翻訳を参照しながら読み進めた。
 神保町で買った本も参考文献の一つとして大いに役立った。ページを開くと『大理石の牧神』に関しての記述があり、後悔と恥のまじった感覚が押し寄せた。
 あーあ、わたしは就活だけでなく、専攻している文学の知識だってろくにないんだ。
 そう思うと気分が一瞬落ち込んだが、本を読み進めていくうちに立ち直った。とにかくフォークナーを精読したい気持にさせてくれたのだった。

 空は青く染まって晴れわたり、京都の街を囲う山々の緑も楚然としていた。わたしは今年初めて日傘をさした。
 その日の作業を一段落させて貸し出し用ノートパソコンを返却すると、出入口ゲートの前で後輩の麻帆ちゃんにばったり出会った。彼女は正面入口に併設されているタリーズのアイスコーヒーを持っていた。
「図書館に来るなんて珍しいね」とわたしは冷やかした。
「ちょっとサリーさん、そんな人聞きの悪いこといわないでくださいよ! 一応これでも大学生ですからね」と麻帆ちゃんはハイテンションで答えた。
「いまそこでレポートを書いてるんです」
 指さしたのはレファレンス・カウンターの正面にある多目的スペースだ。書架はなく、ディスカッション用のテーブルやゆったりした椅子があり、会話もドリンク持ち込みも許可されている。
「あ、邪魔しちゃったかな」
「そんなことないです。むしろ黙々と作業するの嫌なので話し相手になってくれませんか? それとも用事あります?」
「わたしは大丈夫だよ。課題も一段落ついたし」
「ほんとですか! 最近ずっとひとりで鬱だったから嬉しいっす」
 鬱、という言葉をそのままの意味で受け取ることは難しかったが、そう表現した麻帆ちゃんにとっての苦悩をなんとなく想像しながら、
「じゃあわたしも飲み物買ってこようかな」といってリュックから財布を取り出した。
「あたし先戻ってますね。右側の奥から二番目のテーブルです」
 了解。
 多目的スペースは満席に近かった。わたしはアイスカフェラテをテーブルに置きながら、
「この騒がしさで作業できるの?」と訊いてみた。
「あたし、沈黙が苦手で。これくらいのほうがいいんです。いつもここでレポート書いてますよ。友達としゃべりながら」
「ふうん。わたしは逆だな。三階の個人席が一番集中できる。窓辺は人気だからほとんど空いてないけど」
「それはサリーさんが優秀だからですよ」
 返事に窮して、わたしは曖昧に笑った。
「そういえば東京どうでしたか?」と麻帆ちゃんはわたしの顔色をうかがうような仕草で訊ねた。
「実は一社しか受けなかったんだよね。ちょっと嫌になっちゃって。そこは全然ダメだった」
「そうなんですね」
「だからまずいなあ。この間最終面接受けた企業があって、その結果待ちなんだけど、受かってないと困る」
「じゃそこに受かればオッケーなんですね!」
「うーん。そうともいえないな。その会社、休日が少なめで、あまり待遇がいいわけじゃないからね。でもこれ以上続けてうまくいくとも思えないな」
「やっぱ人生はそう簡単にうまく行かないですよね……」
 麻帆ちゃんがそういったのは、わたしのことだけではなかった。麻帆ちゃんの彼氏が、バイト先で出会った女の子とデートしたのだ。それが発覚して以来、連絡を取らないようにしているらしい。
「許せない」と彼女は怒っていた。わたしは麻帆ちゃんがすきなので言葉少なに慰めつづけた。この話題は三十分ほど続いたが、それで何かが解決したわけではなかった。
「まあでも振ったりはしないですよ。あたしだってそんな偏狭な女じゃないから。ただ今はまだ会いたくないんだ」
「仕返ししてやったら?」
「じゃあサリーさんと相席居酒屋行っちゃいますか」と彼女はいった。わたしは大声で笑った。
「もうこの話はやめましょう。それよりサリーさんの話ですよ」
「東京でね、サークルの先輩と会ったよ」とわたしはいった。
「え、それはロマンスということですか?」
「違うよ。偶然同じ会社の面接受けてたの」
「それでそれで」
「そんな大したことはないよ」
「あたし、サリーさんの話聞くの大すきなんですよ。過去のロマンスとか。先輩って結構大胆ですからね」
「今はそんなことないもん」
「最近おとなしいですよね……残念」
「なにそれ」
「だってサリーさんは股のゆるさに定評があるじゃないですか~」
 ぶはっ、と自分の発言に大笑いしている。わたしはちょっと焦って周りを見渡した。幸い多目的スペースはあちこちで会話が盛り上がり騒然としているから、他の人には聞かれていないだろう。
「怒るよ」
「すみません、つい」といっても笑いが収まる気配はない。つられてわたしも笑ってしまう。
「ねえ麻帆ちゃん。ほんとにわたしの話がすきなの?」
「何いってるんですかもちろんですよ。サリーさんの話を聞くとね、生きることへの真摯さが伝わってくるんです。何事においても強く生きてるというか、あらゆることに対してよく考えて、考慮して、そして決断を下してる感じがするんですよね。やらなきゃいけないことに妥協もしないですしね。一緒にバイトしてるときもそうでしたし、サークルでも編集長務めるくらいなんですから。それに就活もちゃんとやってる。紗莉さんはあたしにとって、指針ですよ」
 思ってもみない発言にわたしは心の底から驚いた。特に麻帆ちゃんが「決断を下してる」といってくれたことが信じられなかった。
「でも、わたしって何事も受動的だよ」
「そんな人が最終面接までいけるわけないじゃないですか。謙遜しないでくださいよ。それじゃ意地悪なくらい人が良すぎる……」
 麻帆ちゃん。
 なんですか。
 大すき。
 そういうと麻帆ちゃんは少し吃って顔を赤らめた。
「あたしもすきですよ。人間として」
 そのあとわたしが喋ったのは、玉城さんとの昔話や、神保町の古書店街に行ったことなどだった。学内書店でしょっちゅう話していたのだから当然といえば当然なのだが、麻帆ちゃんは玉城さんの存在を認識していて、わたしは驚いた。  
 麻帆ちゃんは眼を輝かせて、興味津々な態度で話を聞いてくれた。おかげで彼女の公共福祉のレポートは一文字も進むことはなかった。
 わたしは申し訳ないと謝ったが、もちろん口だけで本心ではどうとも思っていなかった。麻帆ちゃんにしてみても提出日前日に徹夜すればいいやというくらいの楽観さで、わたしとは意識の持ち方がまるきり違っているのだ。
 ところで麻帆ちゃんは以前わたしが似合うといったバッグを使っていて、そういうところもわたしは無性に嬉しかった。
「じゃそろそろ帰ろうかな。麻帆ちゃんはまだ頑張る?」
「ここの閉鎖時間までは粘ります!」
「ファイト!」そういってわたしは右手をグーにして小さく上に突き上げた。麻帆ちゃんも同じポーズを取った。
「また今度、ご飯行こうよ」
「行きましょう! 誘ってください」
「またラインするね」
「あたし、このあいだの店でスープカレー食べたいです」
 いいね!
 手を振って出口に向かっていくときも、多目的スペースはあい変わらず賑やかだった。(了)

引用文献

 芭蕉『おくのほそ道』萩原恭男校注、岩波文庫、一九七九年
 ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち 下』柳原孝敦・松本健二訳、白水社、二〇一〇年
 中村俊定「解説」(『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、岩波文庫、一九七一年)


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