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手記2022.5.28 モデルナ、2回目

今週の土曜日、2度目のワクチン接種を行った。
その日のことを書く。

なぜこのタイミングで3度目ではなく2度目なのかということを説明したい。常日頃与えられた権利にはそれなりの意識を向けて判断している。衆議院選挙にも都知事選にも投票に行かない、などはその一つだ。
昨年自治体から接種権が届いたワクチン接種も、個人的判断で受けなかった。それはいつもと同じく、受けるよりも受けない方が自分にとってメリットが大きいと考えたからだ。

それがなぜ今になって受けるようになったかといえば、ようやく海外旅行が解禁されそうで、海外旅行を順序よく実行するためには、ワクチンを打っておいたほうが良さそうだからである。
海外旅行は、私に残されたこの世界の唯一の希望みたいなもので、特にここ数年はそう感じている。生まれて一度も国外に行ったことがないから、アメリカもフランスもスイスもスペインもドイツも、行きたいところは山ほどある。
アメリカはニューヨークもいきたければ西海岸も行きたいし、フォークナーの町にも行きたい。フランスはパリはもちろんだが、南部、アルルなどにも行きたい。
その一点のためにワクチンを打つことに決めた。

それで予約できたのが都庁での接種だった。
先月末に1度目を済ませているのだが、この時は打つのが面倒だらけだった。まず都庁への行き方が分からない。
それからいざ会場に行ったら、打ち間違いのないように5、6度、自分の打つべきワクチンの種類と回数を聞かれる。
「モデルナ、1回目です」
そういった私の首にかけさせられたのは、モデルナ1、2と書かれた青色の札だった。
ところが、列に並んでいる他の人々は、私以外みな「ファイザー 3回目」とかかれた赤色の札をさげていた。

おかげで列をくぐり抜けて、ディズニーでファストパスを使うみたいにすぐ医師の予診まで進んだのだったが、ひとりだけ「モデルナ一回目」と言わされる疎外感は羞恥をもよおした。
自分が選んでそうなっているのだから、そんなことで恥ずかしく感じることもないはずであるが、どこまでも社会性からは抜け出せない。

そんな前回は打った腕が痛くなる程度の副反応だった。
コロナ陽性になったからといって重症化するなどとは微塵も思っていない私は、だいたい、副反応がでるようなワクチンなど打ちたくはないのだ。

それでこの日、2回目だ。
まず新宿のペッパーランチでステーキとハンバーグのセットを食べた。ビーフステーキは好物なのだが、当たり外れがある。いい肉は90点台だが、悪い肉は60点のこともある。その点ハンバーグは安定して80点をキープするから、両方たべれるセットはお得だ。
最近は休日の昼食も出前館かウーバーイーツが多く、家での食事はスマホを見ながらになる。
ただ食べ物に集中して食べている時間がすきだ。また、生活のなかで必要な時間帯でもある。頭を真っ白にして食べることで、逆に脳内で無意識のうちに思考をはじめる。その無意識の思考が自分にとって大事なのだ。

ワクチン接種まで時間があったので東口の紀伊国屋書店に行った。だいぶ改装も進んでいるらしい。四階の文庫本売り場は馬鹿みたいな人だかりで早々に抜け出したが、白いボリュームカチューシャをつけた女性の姿が印象に残った。彼女は私が階段をのぼりたどりついた瞬間にレジの行列に並んでいてそれがまず目についたのだが、私が出て行くときにレジを終えたはずなのにハヤカワ文庫の棚で熱心に立ち読みしていた。どうも本を読む女に惹かれてしまう。
その後地下鉄に移動するまで街を歩く人間を観察していたが、膨大な人波の中にあんな大きなカチューシャをつけてる人間は1人もいなかった。
彼女に似合っていたし、それが私に衝撃を与えたわけで、面白いものだ。彼女はそのことを知る由もない。
しかし、見た物にこのような衝撃が起こるせいで、(精神の疾患などで)自己を制御できないある一部の人間が、付き纏ったり、不適切な行為を働いたりして、被害者と加害者が出るという構図は、考えはじめると暗い気持になる。
ツイッターをひらけば、フォローしてないのにこんな話ばかり目につくから、最近は極力タイムラインを見ないようにしている。

何事も一度やった事は要領が分かっているから、都庁での2度目のワクチン接種は万事うまく進んだ。
私は新宿西口まで一本道を歩き、モード学園の地下のブックファーストにより、解放された気分で3冊文庫を買った。こちらは紀伊國屋と違い人が少なく、店内も広く、快適だった。
島崎藤村『夜明け前』の一巻、エミール・ゾラ『ナナ』、前田愛『都市空間のなかの文学』。
さいきん『細雪』を読んで感銘を受けたので、最新のものや突飛なもの、カルト的人気と宣伝されているものよりも、まず時の洗礼をうけ歴史的評価の定まった、なおかつ絶版になっていない未読の作品を読んでいったほうが、これも自分にとってメリットがあると思い始めた。
3冊を併読し、前田愛の本では「獄舎」についての評論、フーコーのいう監獄から実際に監獄ですごしたサドの想像力についてなど、興味深く読んでいる。小説を読むのとは違う脳を使った読書だが、題材が文学なのだから面白い。
その他の小説2冊は、文章の一文一文を味わう歓びが、とくにゾラには感じられない。かたわらにあった未読の川端康成『舞姫』が、こちらも例に漏れず川端的美質を備えていて、この上なく平易な語彙なのに奥ゆかしく、仏像のはなしなどするものだから、そっちに惹かれている。

川端は仏典がこの世界で最も優れた書物だと言っている。
ところでさいきん私はYouTubeでオウム真理教関連の動画を観あさっていて、特に朝まで生テレビや他の特番ワイドショーで上祐とジャーナリストの江川紹子や二木や有田が討論する番組をみながら、オウム教の幹部それぞれの境遇について知ったり考えたりしているのだが、朝生に麻原が出演した回に、幸福の科学の仏典の捉え方を否定する麻原の言葉から、2000年以上続いた古宗教である仏教に関心が向いてもいるのだ。

オウム教はもちろんテロ組織で、それは私が生まれる前からそうだったわけだが、そうだと判明するまえは仏教とヨーガを結びつけながら、キリスト教もリミックスした考え抜かれた教義があったわけだ。

その日私は読書しながら寝たのだが、翌日の日曜日、朝から頭が痛く、腕も痛く、倦怠感があり、熱が38.3℃あった。
そういえばその前の日、ワクチン接種会場で、書類に適当に36.2℃と記載したのだが、のちに会場ではかることになり、そうするとぴっはり36.2℃で驚いたのだった。
それはともかく、一度目よりひどい副反応で、その日は一日寝ていた。目を閉じながら、やはり朝まで生テレビを再生して(麻原逮捕後の会だ)、音声だけでラジオのように聴いていたが、発言者の発言の途中で「ちょっと待って」と入り込み、聞くものをあっとさせる単純な疑問を投げかけて人にパスする90年代当時の田原総一郎の司会ぶりに、私は好感を持った。

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