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2018年3月16日、4年後の誓い

今、私は石垣に来ています。本来1月に開催する筈のイベントを延期し再設定したつもりの日程でしたが、今回も感染状況を鑑み断念しました。

しかし有難いことにご縁に恵まれ、昨日は「一緒に何か出来ることがあれば」と話せた方に巡り合いました。
そこで「なぜ、GAJYUMARUの活動を?」という話をしていた流れで、「あぁ、今日で4年経ったのか」と思い出しました。
2018年3月16日は、私にとって忘れられない日です。

2018年3月16日、金曜日

私は当時塾講師をしていました。10年以上の講師生活の中で、私は知る限り生徒の死に3度直面しました。
1人目は一家心中。2人目は部活後突如倒れました。
そして3人目は、塾の帰りに自分でその道を選択しました。

16日の仕事後妻と食事を摂っていると、当時の生徒からその方が家に帰ってきていない旨の連絡がありました。心配しつつ塾からは帰っただろうことを伝えると、どうやら帰宅できたらしいとのことで胸を撫で下ろしました。

翌日17日、私は休日出勤で夕方に帰宅しました。ちょうどマンションの下で同僚の奥様と会い、生まれたばかりのお子さんを抱っこさせてもらっていたことを覚えています。
そこで、前日に連絡をくれた生徒から、その人が自分でその道を選んだことを知りました。

同僚でもあった妻がその人間性や資質を私に力説し、私のいた教室に呼んだ経緯のある人でした。私は直接の担当ではなかったものの、休み時間などではよく話す人でした。私もその人の人間性に惹かれていました。
2日前、その人は休み時間にふと「私そんな長生きするつもりはないんですよね」と私に言っていました。他の生徒たちとふざけていた流れだったことで私はその発言から何かを察知することができませんでした。

私は妻と共にその年に退社しました。
塾とは言え、社会に出た時に意味のある、人生に影響のある学びをと志した者にとってこの上ない挫折でした。当時はあれこれ理由をつけましたが、私はこれ以上大事な人たちを喪うことに耐えられず、その場から逃げたのだと思います。

もう教育はしない、できない。
そう思い、私は大人の世界から価値観を変えることができないかとフィールドを変えました。もしくは、それが私のすべきことだと思い込みました。
ただ、逃げたからこそ、私はあの日から逃げられませんでした。
そして、結局教育に立ち戻ってきました。

GAJYUMARUを始める上での私の想いは、

にまとめました。

>沖縄に生まれた子どもたち一人ひとりが自分の思い描く人生を後押しする

私がその人の人生を描くことに寄り添えなかったことも、このミッションには込められているのだろうと思います。

その人は、塾のクラスメイトたちから「天使」と呼ばれていました。それだけ人間的な魅力に溢れた人でした。

当時のクラスメイトたちには、GAJYUMARUの議論にも関わってくれている人もいます。彼らはこの3月に高校を卒業します。嬉しいことに、大学合格の知らせも私の耳に届いています。
心から嬉しく感じるとともに、あの人を思い出すことになりました。

2022年3月17日。
この文章を書くことが正しいのか、私にはわかりません。ただ、胸の裡に留めることができない衝動で書き殴ってしまいました。
結果として、私はあの人に逆に背中を押されているのだと気付きました。
改めて、沖縄に生まれた子どもたち1人ひとりが自分の人生を描く後押しをするのだとこの場を借りて誓いたいと思います。