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備忘録・巡回の巡回

かれこれ10年以上前に遡るが、かつて現場にいた頃。
保育所等訪問、つまりは巡回指導に手がかりを求め、助けられ、励まされ、時には腹を立てていた。

当時関わった心理士の方達が不親切なわけでも、専門性が低いわけでももちろんないのだが、保育という集団の中での個別対応と、個別支援が前提の療育での条件の違いをより考慮する必要があったし、保育士の受けてきた教育、時間的な課題を考えると、現実的ではない提案も少なくなかった。

その頃を振り返りつつ、さまざまな研修を企画・運営する中でたどり着いた一つの答えは、

保育とは
"集団の中で生活と遊びを通して、子どもを育むこと"であり"健康な状態の子ども"が前提であること だ。

付け加えるとすれば、安心して教育を受けるための"福祉"が土台であることと、"保護者との信頼関係があってこそ成立するもの"であり"子どもの生育状況に合わせて、対応が変化して然るもの"だという共通理解が必要だ。

もちろん、子どもの最善の利益に立った保育でなければならないことは、言うまでもない。

前振りが長くなったが、私自身"保育とは何か?"ということを整理しないまま、立場に任せて巡回指導を受けていたことは確かで、本や研修をいくら漁っても、目の前の子どもと大人の状況と照らした場合に出る答えは、現場の保育士のメンタルに頼ることが多かった。


巡回指導そのものが、何を目的になされているのか。目的を達成するに足る、保育士、園、巡回者のスキルがあるのか?

特に、巡回指導に際して、保育園側の事前情報の提供スキル、その前の観察や見解、ひいては文章力を鑑みると"書類が苦手だ""お便りが負担だ"と話す保育士たちには、それ相応のトレーニングが必要だ。

日々の関係性の中で、感覚値による対応ができたところで、それは子どもをあやす、宥める、にとどまるし、それは本来の"発達支援"とは程遠い。

それは保育士の能力が低いということではなく、普段の仕事で求められていることと、トレーニングされていないことによって(研修ではなく、あくまでもスキルトレーニングが必要)起きているのである。

制度や配置の問題にすり替えられることも多いが、いやはや、保育士自身がそこのスキルの必要性と自己研鑽、自分のキャリアに対する自覚が足りないことが根本だと、自戒も込めて私は思う。

能力とはもともとあるものではなく、日々の研鑽によって積み重なるものであり、そこを放棄していはしないか?単なる時間の長さを、感情の動きを、経験と呼んではいないだろうか?

巡回の巡回を重ねていると、保育士の持つ洞察力や推測、柔軟性に心を打たれることがある。

あるとき、保護者との関わりの中で"頑張っています"と、頻繁に伝えているとの報告があった。

その子は、そんなに頑張らないといけないのか?

楽しんでいる、味わっている、自然とやっていることまでも"頑張っている"に置き換わってしまってはいないか?

障害=できない▶︎頑張っている、という構図を、保護者に植え付けることにならないか?

この投げかけに対し、ある保育士から「確かに。僕たちは頑張っている、と表現することで保護者が安心することや、子どもを褒めることを強いていたかもしれない」と返ってきた。

頑張った、というものは他者からの評価によって認識するものではなく、自分自身の自覚によって持つものではないだろうか。
側からは頑張っているように見えずとも、自分では相当苦戦しているもあるし(私の場合、時間管理や忘れ物)、楽しんでやっていることでも、そもそも一般的に難しいことだと頑張っていると、勝手に印象を持たれるものだ。

私たちは、他者評価によって自分を外側から作り上げ、まさしくそれが本来の自分だと思い込もうとしている。

そして自己の認識よりも他者評価を優先した結果、しっくりこない選択をしてきたことも少なくない。
(もちろん他者に見つけてもらった適性もあるが)

発達障害、気になるこ、神経発達症…いろいろな見立てはあれど、何かに当てはめることをなるべくなら避け、今の目の前にある事実と向き合い、言葉にできるだけのスキルを、やっぱりどうにか培いたい。

ミーティングからの帰り道、次に来る時の報告を想像している。
気付けば鼻歌が大きくなっている。

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