カタブイ、1995
「カタブイ、1972」に続き、2作目の「カタブイ、1995」を観てきた。
自身の記録によると、前作を観てから15ヶ月が経ったらしい。
この間、幾つのお芝居を観たか?と、記憶を辿ってみる。
思いつくだけでも、両手の指じゃ足りないことに少し満足しながら、開演を待った。
前作を観た時に感じていたことに引きずられぬよう…
まっさらな気持ちで観ることができるようにと、深呼吸をする。
はじまった。
そして、おわった。
記しておこう。
今回の物語は、自分の記憶にもある時代の設定だったこともあり、とにかく身近に感じた。
少女から伝わる、屈託のない明るさと、踊り出したくなる流行のおかげで、まるで、友達の家にタイムスリップしたかのような感覚になる。
一方で、私がセーラー服に浮かれていた時期に、沖縄で起きていたことが明らかになるにつれ、九州の田舎の中学生だった私と、沖縄の認識の差が迫ってくる。
ニュースで聞き覚えのある単語と、世の中が騒いでいるように感じていたこと思い出す。「学校も家でも、誰も話してはくれない」という14歳の主人公のセリフに、当時の自分が重なる。
いずれ大人になる私たちは、心配させまいと護られたのか、どうせわからないからと伏せられたのか、選挙権がないからと軽んじられたのか。
大人たちは、その時々の適切な伝え方を模索することを放棄し、子どもが意思をもつことを恐れ、子どもへの説明や解説を押し付けあってきたのか。
そして、40歳になった自分も、そうしてしまってはいないか。
無論、子どもに正しく物事を伝えることの難しさや、「刷り込みになってしまわないか」という不安を認識しているつもりではあるが、同時に、さまざまな見解の中で「私なりの答え」を子ども自身ができることも知っている。
子どもは、ある瞬間から、大人のように扱われることで、大人にさせられる。
急に大人になるわけではないのに。
与えられた権利と義務の発生によってだけ、大人になったのか。
子どもだったはずの自分が、今の時代への流れのなかで大人になり、そこそこの歳を重ねたことを、鮮明に感じる。
あっという間に、今は2024年だ。
自分より年上の人たちに、社会を作ったのは誰だ?とは、もはや言えない年齢だ。
その自覚をするかしないかで、物事の見え方に大きな違いが出ることもわかっていながら、「今の若い人は」という批判するだけの自負も、「これからは若い人に」と譲るだけのスキルも、まだない。
とにかく、目の前の課題から逃げることのできない、そして逃げたくない時期だと、思う。
芝居の中では、知事や憲法、反戦地主など身近なものから初めて聞く言葉まで、休むま間もなく出てくる。
娘、母、祖母、そして久保さん。
出てくる女性の一人一人に、生きた時代が浮かんで来て、価値観の変遷が面白い。
一人一人の中に、すっぽりと入る。
1人の人間が分裂して、4人になったのではないか?と錯覚もする。
その4人を際立たせる、男性2人の存在も、個性が光っていた。
つくづく、演劇は、私にとってなくてはならないものだと思わされた。
生活、事件、社会、時代、文化…まるっと、家庭の中から見えてくる。
ニュースで見る出来事も、間違いなく私たちの生活の一部であるのだ。
どこかの遠い出来事は、そこで暮らす人たちの生活であること。
国家による責任と、一人の日本人としての感覚は整理する必要がある。
沖縄に暮らしてみて感じる独自性の中には、勝手な解釈をされていることが多い。それは、私の中にある怒りに火をつける。
立地的な魅力(観光・自然・軍事)に群がる、人間の欲の強さにも、削がれる。
そして、ダイアモンドが採れることで、紛争になっている国の話を思い出す。
国際通りでは毎日、道行く人のほとんどが大きな口を開けて笑っている。
ある人は肩を組み、ある人は暑くもないのにノースリーブで歩き、揃いのTシャツでカメラに収まっている。
ほんの5年前まで、私もそちら側だったのだが。
この道の歴史を知った今、そっちには戻れなくなってしまった。戻りたいと思わない。
「カタブイ、1995」は、タイムスリップによって、物事への目の向け方を定める機会を与えてくれた。
そして、知っている、学ぶ、考えている、行動する、持って生き続ける、は、全く違うものだ。
2024年を生きる私は、確実な意思表示を続けよう。
時代に流されるのではなく、流れる時代の中でも、ちゃんと生きよう。
大袈裟にならぬよう。
もちろん変化することを前提にしながら。
4人の女性たちの生きる姿を、時々は頼りにしよう。
沖縄公演は終わってしまいましたが、東京公演はこれから。
可能な方は、ぜひ。
https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=76404&
2024.03.07 がじゅまる学習塾
<おまけ>
「わ」「れ」はゆく 晴れ晴れとした 沖縄を
そこに佇む ふみ知らずして
ふみも知らずに、と迷った。
「ふみ」は、文と踏みの意味を持っている。
文…文化、手紙、言葉
踏…踏んでいること、足跡
知らずして、にしたのは、「わ」「れ」の人たちに悪意はなく、かつての自分もそうだったように、いつか知ることがあるかもしれないという願いを持ったから。
「ふみも知らずに」にしてしまうと、自分が被害者のようにも優位に立っているようにも感じるからだ。そう思う時点で、逃げを作ってしまっているような気もするのだが。今の私は、ふみ知らずして、に落ち着いた。
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