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何かに挑戦するのがこわいというきもち

観光案内の部署で私しかいないVIP担当を増やすべく後輩指導をしていたとき、英語の苦手なコがわたしの作った台本をかたくなに開こうとせず、ひたすら

「がじらんさんが出来るのは英語が得意だからですよー」

とか

「わたし英語が苦手なので、ひとりで練習しておきます」

とか

「この業務は来年の4月までやらないって課長にもお伝えしました(ドヤァ)」

などとひたすらやらない言い訳を並べられてほとほと困ったことがある。(彼女は英語ができるし、練習もしてくれなかったし、課長はそんなつもりはないと私にだけ言っていたが彼女と直接対峙すると押し切られていた(;^ω^))

なにが言いたいかというと、今のわたしは分かる!!!!!今ならその気持ちめちゃめちゃ分かる!!!!!という状態になっている。

この未知のものに対峙する恐ろしさ、、私の場合は英語ではなく、自分のスキル(イラストであったり、WEB制作であったり)を生業にしようとする作業そのものなのですが、、
なんというか今まで必死に温めてきて大切に育ててきたものをいきなりひとの評価が下される場所に放り出すなんてそんなん待って!!!!やめたげて!!いじめないで!!(?!)という気持ち。

じぶんの出来ていないことを誰かに開示して何か言われてしまうかもしれないという予感を感じるだけで迫りくる恐怖。痛いところつかれるってわかってて目が開けられないみたいな。
そして実際に何か言われるともうやる気が起きなくて何日も放置して努力することすらできなくなるみたいな、、、なんなんでしょうね。この気持ちは。

なぜデビュー(挑戦すること)に抵抗する?

彼女は私に対して、「待って!」「準備させて!」「無理やりさせるならやらない!」と散々抵抗したのですが、実際に彼女が恐怖を感じていたのは自身の中にあった想像上の恐怖であり、まだ具現化していない自分へのダメ出し、自分の実力を思い知ることへの抵抗のようなものだったのかなぁ。。。と想像します。

いまとなっては聞くこともできないのですが。当時の私からすると、

「待って!」

→「失敗することは当然の過程であり、通過儀礼」

「準備させて!」

→「あなたの言う通りの準備期間を設けたのに準備を怠ったのは自己責任。
いずれにしても何度か通しで本番を体験し、自信をつけるべき」

「無理やりさせるならやらない!」

→「やるといったのにやらないのはなぜだ???時間がない、マニュアルが悪いという言うから時短でも覚えられるマニュアルに改定したぞ?????」

とひとつひとつの反応に”対処”してしまっていて、彼女が言葉で主張する抵抗の裏にあった言外の意味を感じ取ることができなかった。周りのせい、ひとのせい、マニュアルのせいにしていた彼女が手放すことを恐れていたもの、それは

「自分ならできる」という思い込みだったのだろうか。

「自分ならできる」VS「客観的な視点/フィードバックを受け入れ、改善する姿勢」

それでは一体どこまでが自分を励まし、勇気づけてくれるモチベーションとして必要な自己肯定力で、どこまでが自分を客観視、よりよくするための建設的な意見を取り入れることができる距離感なのだろうか。

先の外国語を例にとると、大人になって新たな言語を身に着けるとき、避けられないのが

・失敗することと

・恥ずかしい思いをすること(〃ノωノ)キャッ

の2つだと思う。この2つ無くして新たな言語獲得はまず難しいのではないかという位この2つは上達するうえで避けられない気がします。英語が話せないまま海外留学した方が「赤ちゃんからやり直しになった気分」というように、数をこなし、質をあげて、自分の目標に特化して力を強化したとき、はじめてそのツール(ここでは言語)が使えるようになる。そんなことは外国語習得の基本で分かっているはずなのに。。。今できない。。

今がんばっている分野でだめだしをされたら、余裕で数日立ち直れなくてそもそもの生産性がガタ落ちになっている。よわよわの精神状態だ。

努力もしている。(していた)

自信をつけようとしている。

ある程度は力もついてきた(はず)

それでも、吹けば飛ぶような自尊心、現時点であえてそれに名前をつけようとするとそれは

失敗して出来てない自分を受け入れられないプライド、、なのかなぁ。。

わたしが人生で一番ためになった本のひとつに、「自分の小さな箱から脱出する方法」という本があり、たびたびその中身を思い出しては自戒することがある。

この本のなかで初めて知った概念に「自己欺瞞(じこぎまん)」という言葉があって、

自己欺瞞とは、簡単にいうと自分で自分を騙して都合よく考えさせようという思い込みの総称である。例えば自身を「妻のことを献身的に支え家事もよくする夫」だという自己欺瞞がある場合、その思い込みがあるがゆえに妻から少しでもお皿の洗い方、子育てへの参加割合、妻への態度に批判的なことを指摘されると火になって怒り、その考えを否定する。それは否定しないと自分の持つ「協力的な良き夫」というイメージが失われてしまうからだ。
だから全力で否定し、イメージを傷つけるような批評には一切耳を貸さない。
だが俯瞰してみたとき、果たして本当にその姿は「良き夫」だろうか?

この本ではそんな自分の「ありたい姿」と「実際の姿」には隔たりがあることを知った上で、「こうありたいけど、もしかしたらそうではないかもしれない」という視点をもつことの重要性を説いている。初めから自分が理想通りではないことを前提にしているため、他者からのフィードバックにも柔軟でいられるし、理想と自身を一体化して考えていないため、修正をすることがよりたやすい。

この本に書かれていることを今の私に当てはめて考えると、実際には案件をこなしたり、人にスキルを求められたことも無い私が

口では自分はまだまだ。。といいながら、

実際には「私のスキルって結構イケてる。。」と思ってる(思いたくて手放せない)のかも。

だとしたら、そうそうに「私は結構イケてると思いたいけど、実際はそうでない可能性もあるな」という自己像に書き換えたい。。のかもしれない、、、この恐怖と痛みを感じずに済むならば!(;;)

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