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ヨーロッパ映画の基本的な問い(鑑賞の仕方)から『太陽と桃の歌』を見て、土地と家族の結びつきの破壊を考える



スペイン・カタルーニャで、三世代に渡る大家族で桃農園を営むソレ家の日常。社会傾向が強く、新人発掘が強いベルリン国際映画祭(第72回)の金熊賞を受賞した『太陽と桃の歌(原題ALCARRÀS)』(2022)。原題のアルカラスは、カタルーニャ地方の山奥。監督のカルラ・シモン(Carla Simón)の出身地で、彼女の家族も、ここで桃農家を営んでいる。

1.ヨーロッパ映画は、ヨーロッパ的問いをベースに見ないと意味不明

ヨーロッパ映画は、ドラマトゥルギーの起伏が少なくて、空気感や人間関係性の微細なものを感じ取る、「見る姿勢」をチューニングしないと、飽きてしいやすいです。映っている映像の背後にあるものを感じ取ろうとしないと、なかなか鑑賞しずらいと思う。「鑑賞する軸」を持たないとしんどいので、ヨーロッパ映画が持っている基本の問いを説明したいと思います。ちょっと長いのですが、この文脈が理解できると、ヨーロッパ映画がいっきに理解できるようになりますので、詳しく説明してみましょう。

ヨーロッパは、既に経済の最盛期を過ぎて、長期的で構造的な不況がもう100年近くも続いている地域で(アジアやアメリカの発展のほうが例外)そういった日が沈みっぱなしの無味乾燥で、明日に希望をもてない世界で「どうやって生きるか?」が、重要なテーマになっています。日本社会も、このへんの斜陽の成熟が、よくわかる社会になってきましたよね。ニートやワーキングプアの問題が焦点があてられるのは、日本がGNP2〜3%とという高度成長を目指す社会だから、おかしく見える現象であって、100年以上前に斜陽を迎えたヨーロッパでは、「そういう物質的な条件」「夢も未来もない環境」で、それでも満足して、この砂を噛むような人生を、どう楽しんで生きていけるか?ということに情熱を傾ける社会に転換しました。この作品は、この100年続く構造的不況の中で、いったいなにをよすがに生きていくことが正しいことか?というヨーロッパ的問いを、非常に秀逸に表しており、僕はお気に入りの作品です。

『天使が見た夢 LA VIE REVEE DES ANGES』
エリック・ゾンガ監督 なにを信じて生きていくのが、自分を支えるのか? 
物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
2008/7/21

僕は「高度成長期がない(=終わった)社会」という表現をよくしますが、後期資本制の社会に突入すると(たぶん資本主義が爛熟して100年後ぐらい)、そこに住んでいる人が、経済的、物質的な未来の希望が持てなくなるんですね。バブル経済直後の1980-1990年代の日本では、ほとんど理解できないものでしたが、あれから30年近く経った今では、このことの文脈や体感は、誰もがわかると思います。

高度成長期が終わり、バブルが崩壊して、マイナス・低成長が構造的に安定してきて、もう希望(=もう一度経済成長する)はないんだなというあきらめが心に定着した感覚です。一時期、小説家の村上龍さんらが「日本には希望だけはない」と叫んでいたことがあったのですが、あの正体は、(俺が体験した)バブルや経済成長が未来にないという恐怖だったんですよね。

この国には何でもある。だが、希望だけがない。

『希望の国のエクソダス』村上龍 2000

いま思うと、非常に間違った叫びでした。だって、二度と高度経済成長=人口ボーナス期はもどってこないのだから。そもそも、高度成長(=人口ボーナス期)は、経済の発展段階的にほぼ一回しかない特別事象なんだってことが、わかっていなかったんですね。この辺りのどの段階に自分が属する社会がいるか?は、先進国と新興国のグラデーションを見ると一発でわかるようになりました。

C:これから人口ボーナスを迎える中東や北アフリカ(坂の上の雲を目指すぜ!)

B:中国・インドのような新興経済成長国の高度成長期とバブル経済を全力疾走している社会(人口ボーナス期)

A:西ヨーロッパ(フランス・ドイツ・イギリス・イタリア)と日本のような高度成長期が終わって、低位安定の人口縮小社会(人口オーナス期)

まぁ2020年代の中国は、すでに日本のバブルが弾けた後のような世界に突入しつつありますけどね。このAの低成長縮小期に入った社会が200年以上継続しているのが西ヨーロッパ社会なんです。日本も、明治維新(1868年)から150年を超えてきているので、ほぼ同じ感覚の社会になりつつあります。

こうした社会で重要な問いは、すでに「報われることはないのが前提」で、若者に全く職はなく、格差は安定して拡大して、社会の流動性(=自分が成長して階級、階層が上昇すること)が努力によって達成されることがない、ほぼ封建社会のような階級、階層固定化社会になります。このような停滞する社会の中で、生きていくことはどういうことか?ということが、必死に考えられるんですね。

これがヨーロッパ的問いです。

この辺りの理解の補助線なるのは、藻谷浩介さんの『デフレの正体-経済は人口の波で動く』と『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』 などがおすすめです。ヨーロッパの話をされるより、日本の話をされる方が体感的に腑に落ちることが多いと思います。

ちなみに、この映画の予告を見るとわかるのですが(ぜひ下にリンクがあるので見てください!)、すごいミスリードをしている。家族の絆の美しさを描いている作品と考えたら、全然おもしろくないと思います(笑)。そんなもの何も描いていないもん。

この映画は、端的にいって産業構造の変換(農地がソーラーパネルに覆われていく)によって家族や地域共同体が壊れていくその様を切り取ったもので、それ以外のなにものでもありません。まったく絆が復活していないのは見ればわかるでしょう。

なのに、こういうミスリードをする宣伝をするのは、そうしないと人が呼べないからでしょうね。でもこれを期待してみたら、肩透かしにも程があって、次は二度と来なくなりますよね。ダメな宣伝だと思います。もしくは理解力がなさ過ぎて、この作品を家族の絆が再構築される美しい作品と誤解するような人ぐらいしか鑑賞者にはいないのかもしれません(苦笑)。

いや、だってなかなか社会派で、相当知識がないと、理解できない文脈ですよ、これ。ベルリン国際映画祭の金熊賞は、渋い社会派の作品が受賞する傾向にあります。ヨーロッパやグローバルな文脈がきちっと理解できていないと、なぜそれが選ばれるかの意味文脈が全然わからないでしょう。

さてまとめておくと、ヨーロッパ的な問いというものに対して、いくつかのアプローチ(解決方法)が存在します。

たとえば、この無味乾燥で未来のない社会でどのように生きるかに対して、ひたすら人間関係のドロドロを追求しようというのが、フランス的な答えです(笑)。石田純一的作法(もうさすがに古いか?)とでも言おうか。とにかく、ひたすら男女(に限らないけど)の性愛を追求して、ややこしい関係性をゆっくりねっとり、ダラダラ見続ける、やり続けるといったことです。この類型のパラフレーズが、ファム・ファタール(仏: femme fatale)だったり、女性に対してロマンを投影する物語などが頻出します。ここで重要なのは、なぜ、社会をよくしよう!とか、そういう建設的な、もしくは生産的なことではなくて、ひたすら非生産的なものに自分をコミットさせようとするのかは、なかなかに意味不明です。僕の感覚としては、フランス革命とナポレオン戦争で、疲れちゃったんじゃないかなって、いつも思っています(笑)。

この辺りの、社会は変わるはずもないという、階級固定化社会の中で、明日も明後日も、死ぬまで人生に変化がないと思い、そして努力しても全く意味がない(社会的流動性がないので、報われない)からこそ、毎日浮気して、SEXして、人間関係の深みでドロドロしながら、生きる理由を探そうぜっていうフランス映画の深みはわからないと思います(苦笑)。ちなみに、フランス人は愛に向かい、イタリア人やスペイン人は、食に向かうと思っています。←個人的な経験からの偏見です。もちろん、日本人も食に向かいます(笑)。

こういう複雑な世界に生きているめんどくさい人々からすると、高度成長がまだ続いている、素朴に努力が報われると思っているアメリカ人とかみたいな脳内お花畑のシンプルな人々とは、話がわあわないでしょうね。

2.イギリス映画の炭鉱もの類型の系譜は、エネルギー転換が背後にある

さらにこのヨーロッパ的問いを具体的に展開したのが、イギリス映画に特徴的な、炭鉱ものだと僕は思っています。『パレードへようこそ』(2014)、『リトル・ダンサー』(2000)、『ブラス!』(1996)、『フル・モンティ』(1997)などが思い浮かびます。

炭鉱の問題は、石炭から石油へのエネルギー転換問題です。

この映画も同じエネルギー代替問題ですよね。非化石燃料への転換というパラダイムに即して、ソーラーパネルによる太陽光発電の比率を上げようとしてい流のが背景にあります。

こうした産業やエネルギー構造の転換により、一気に職がなくなり、それまで形成されていた地域や家族共同体が不可逆的に壊れていく過程を、ヨーロッパ映画はよく描きます。資本主義が勃興して、近代化が進んでからこのような「社会構造の大転換」を繰り返しているので、大きなテーマになるし、見ている人も共感しやすい。この場合は、ソーラーパネルによって、農地が代替されているんですよね。農業を営むより、ソーラーパネルで補助金をもらった方が、地主も、管理する人も、地方も潤うのです。土地が経済型に換金されるのは、資本主義が貫徹している近代社会では仕方がないですよね。ただ、それによって、土地と結びついていた有機的な共同体の伝統が破壊される。

日本のエネルギー産業が九州の炭鉱を一つのベースにしており、炭鉱労働というイギリス映画のモチーフになっている「あの世界」が日本にも深く深くしみついて存在していることを、なんかリアルに感じました。これ凄い発見でした(←ちなみに、何度も言いますが、東日本に住んでいると、わかんないんだってば、身体的記憶としては!。うちは一族そろって東京とか東北が基盤なんで)。
中略
ああ、そうか、イギリス病とかヨーロッパ病のモチーフとして、イギリス映画や『フラガール』みたいな作品をよく見ていたことも、この炭鉱労働の話が、すっと胸に落ちた理由かもしれないですね。

『あんぽん 孫正義伝』 佐野眞一著 愛する祖国日本に多様性をもたらしてくれる彼らに乾杯!
物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
2012

日本でも全く同じモチーフで名作があります。李相日監督の『フラガール』(2006)です。福島県の常磐炭鉱でのスパリゾートハワイアンズの誕生を描いた物語です。僕は、あまりに感動して、家族で泊まりに行ったこともあります。この構成やドラマが、『リトル・ダンサー』や『ブラス!』とほぼ同一なのはわかると思います。エネルギーの転換は、社会のインフラの問題なので、村や地域が丸ごと消失してしまったり、ある世代の伝統的に形成されて安定していた技術や職人の共同体が、丸ごと消失してしまったりするので、衝撃的なテーマなんですよね。そして近代資本主義国家における頻出するパターンです。この共同体が破壊されることと、そこに住む人々の自己表現の問題が、自尊心と結びついているのは、ダンスや音楽で、この苦しみが表現されて、解決策に結びついていくことからわかると思います。

3.逆に高度成長期にどんな社会問題が生み出されるかは、インド映画『きっと、うまくいく』が面白い

ちなみに、逆に、高度成長期の文脈が社会に何を生み出すのかを描いた傑作は、インド映画の『きっと、うまくいく』ですね。

高度成長にまつわるほぼ普遍的なメカニズム(家族の解体と自尊心の低下)といった部分が、とても感心した部分です。なぜならば、頭でわかった感じになっても、相対化の衝撃(=自分だけが特別じゃなかった感覚)というのは、人間はなかなか受け入れられないものです。体感のレベルでは。けど、この文脈で追うと、小津の『東京物語』もこのインド映画も、時系列の過去に遡り、地理的にとても遠い国にいっても、起きていることは、そう極端は変わらないものだというのが、僕にはとても腑に落ちたんです。
(中略)
ただこれは、日本的な特殊事情ではありません。この高度成長がもたらす大きな変動は、世界の先進国、新興国が皆、経験することなのです。ちなみに、高度成長の後のバブル崩壊、そして希望の無い低成長時代というこの一連の流れも、ほぼすべての国や地域が組合せや濃淡はあるものの同じ経験をしていることが、最近分かっていました。労働人口の極端に多い世代(ベビーブーマー)が高度成長を支え、それが高齢化すると一気に経済が縮小するというメカニズムもほぼ同一です。各国と地域の文化的な文脈と、それがいつの時期に生まれるかによっての違いは多少あれど、発生することは、世界各国ほぼ同じメカニズムで発生します。また、それに伴って発生する家族の関係性の崩壊と絆のリビルド、その中で生まれるバブル的雰囲気の盛り上がり(日本でいえば1980年代だし、アメリカならばなんといっても1920年代だろう)や、それと比例するかのように静謐さを求める新興宗教的雰囲気やハルマゲドン、終末への吸引などの文化的現象も非常に酷似している。

『きっと、うまくいく(3 idiots)』(2009)高度成長を超えつつある新興国インドの現在
物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

僕は、エンターテイメントが大好きで、基本的にアニメやマンガを強烈に愛する人なので、エンタメにとっての本質は、意味がわからなくて面白いことや感情的なカタルシスがあってこそだと思っています。だからこうした社会背景を読み解いて分析することが、自覚的に必要かどうかは、いつも悩むところではあります。ただ、これを勉強と取るのか、より物語を深く体感して面白く感じるためのベースの教養を習得する修練と取るかは、姿勢が分かれることだと思います。とはいえ、ヨーロッパ映画や日本映画は、すでに黄昏の時代に入っている芸術の領域なので、こうした背景にある経済変動の移り変わりやメカニズムなどをベースに、一体何が文脈テーマになって問われているかを考えていかないと、さっぱり楽しめないと思います。まぁ、この辺りで挙げている映画は全てウルトラ名作ばかりなので、知識関係なく面白いですけどね。

でも例えば、この『太陽と桃の歌(ALCARRÀS)』なんかは、多分こうした背景を考えないと何の映画かさっぱりわからないと思います。視点も一人に固定しないで群像劇的に移り変わるので、誰に感情移入してほしいのかも全然わからない。また、実際のところ、最後のオチも全くない。これでそんな凄い賞とったの?って疑問に思うと思います。

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