ヨーロッパ映画の基本的な問い(鑑賞の仕方)から『太陽と桃の歌』を見て、土地と家族の結びつきの破壊を考える
スペイン・カタルーニャで、三世代に渡る大家族で桃農園を営むソレ家の日常。社会傾向が強く、新人発掘が強いベルリン国際映画祭(第72回)の金熊賞を受賞した『太陽と桃の歌(原題ALCARRÀS)』(2022)。原題のアルカラスは、カタルーニャ地方の山奥。監督のカルラ・シモン(Carla Simón)の出身地で、彼女の家族も、ここで桃農家を営んでいる。
1.ヨーロッパ映画は、ヨーロッパ的問いをベースに見ないと意味不明
ヨーロッパ映画は、ドラマトゥルギーの起伏が少なくて、空気感や人間関係性の微細なものを感じ取る、「見る姿勢」をチューニングしないと、飽きてしいやすいです。映っている映像の背後にあるものを感じ取ろうとしないと、なかなか鑑賞しずらいと思う。「鑑賞する軸」を持たないとしんどいので、ヨーロッパ映画が持っている基本の問いを説明したいと思います。ちょっと長いのですが、この文脈が理解できると、ヨーロッパ映画がいっきに理解できるようになりますので、詳しく説明してみましょう。
僕は「高度成長期がない(=終わった)社会」という表現をよくしますが、後期資本制の社会に突入すると(たぶん資本主義が爛熟して100年後ぐらい)、そこに住んでいる人が、経済的、物質的な未来の希望が持てなくなるんですね。バブル経済直後の1980-1990年代の日本では、ほとんど理解できないものでしたが、あれから30年近く経った今では、このことの文脈や体感は、誰もがわかると思います。
高度成長期が終わり、バブルが崩壊して、マイナス・低成長が構造的に安定してきて、もう希望(=もう一度経済成長する)はないんだなというあきらめが心に定着した感覚です。一時期、小説家の村上龍さんらが「日本には希望だけはない」と叫んでいたことがあったのですが、あの正体は、(俺が体験した)バブルや経済成長が未来にないという恐怖だったんですよね。
いま思うと、非常に間違った叫びでした。だって、二度と高度経済成長=人口ボーナス期はもどってこないのだから。そもそも、高度成長(=人口ボーナス期)は、経済の発展段階的にほぼ一回しかない特別事象なんだってことが、わかっていなかったんですね。この辺りのどの段階に自分が属する社会がいるか?は、先進国と新興国のグラデーションを見ると一発でわかるようになりました。
C:これから人口ボーナスを迎える中東や北アフリカ(坂の上の雲を目指すぜ!)
B:中国・インドのような新興経済成長国の高度成長期とバブル経済を全力疾走している社会(人口ボーナス期)
A:西ヨーロッパ(フランス・ドイツ・イギリス・イタリア)と日本のような高度成長期が終わって、低位安定の人口縮小社会(人口オーナス期)
まぁ2020年代の中国は、すでに日本のバブルが弾けた後のような世界に突入しつつありますけどね。このAの低成長縮小期に入った社会が200年以上継続しているのが西ヨーロッパ社会なんです。日本も、明治維新(1868年)から150年を超えてきているので、ほぼ同じ感覚の社会になりつつあります。
こうした社会で重要な問いは、すでに「報われることはないのが前提」で、若者に全く職はなく、格差は安定して拡大して、社会の流動性(=自分が成長して階級、階層が上昇すること)が努力によって達成されることがない、ほぼ封建社会のような階級、階層固定化社会になります。このような停滞する社会の中で、生きていくことはどういうことか?ということが、必死に考えられるんですね。
これがヨーロッパ的問いです。
この辺りの理解の補助線なるのは、藻谷浩介さんの『デフレの正体-経済は人口の波で動く』と『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』 などがおすすめです。ヨーロッパの話をされるより、日本の話をされる方が体感的に腑に落ちることが多いと思います。
ちなみに、この映画の予告を見るとわかるのですが(ぜひ下にリンクがあるので見てください!)、すごいミスリードをしている。家族の絆の美しさを描いている作品と考えたら、全然おもしろくないと思います(笑)。そんなもの何も描いていないもん。
この映画は、端的にいって産業構造の変換(農地がソーラーパネルに覆われていく)によって家族や地域共同体が壊れていくその様を切り取ったもので、それ以外のなにものでもありません。まったく絆が復活していないのは見ればわかるでしょう。
なのに、こういうミスリードをする宣伝をするのは、そうしないと人が呼べないからでしょうね。でもこれを期待してみたら、肩透かしにも程があって、次は二度と来なくなりますよね。ダメな宣伝だと思います。もしくは理解力がなさ過ぎて、この作品を家族の絆が再構築される美しい作品と誤解するような人ぐらいしか鑑賞者にはいないのかもしれません(苦笑)。
いや、だってなかなか社会派で、相当知識がないと、理解できない文脈ですよ、これ。ベルリン国際映画祭の金熊賞は、渋い社会派の作品が受賞する傾向にあります。ヨーロッパやグローバルな文脈がきちっと理解できていないと、なぜそれが選ばれるかの意味文脈が全然わからないでしょう。
さてまとめておくと、ヨーロッパ的な問いというものに対して、いくつかのアプローチ(解決方法)が存在します。
たとえば、この無味乾燥で未来のない社会でどのように生きるかに対して、ひたすら人間関係のドロドロを追求しようというのが、フランス的な答えです(笑)。石田純一的作法(もうさすがに古いか?)とでも言おうか。とにかく、ひたすら男女(に限らないけど)の性愛を追求して、ややこしい関係性をゆっくりねっとり、ダラダラ見続ける、やり続けるといったことです。この類型のパラフレーズが、ファム・ファタール(仏: femme fatale)だったり、女性に対してロマンを投影する物語などが頻出します。ここで重要なのは、なぜ、社会をよくしよう!とか、そういう建設的な、もしくは生産的なことではなくて、ひたすら非生産的なものに自分をコミットさせようとするのかは、なかなかに意味不明です。僕の感覚としては、フランス革命とナポレオン戦争で、疲れちゃったんじゃないかなって、いつも思っています(笑)。
この辺りの、社会は変わるはずもないという、階級固定化社会の中で、明日も明後日も、死ぬまで人生に変化がないと思い、そして努力しても全く意味がない(社会的流動性がないので、報われない)からこそ、毎日浮気して、SEXして、人間関係の深みでドロドロしながら、生きる理由を探そうぜっていうフランス映画の深みはわからないと思います(苦笑)。ちなみに、フランス人は愛に向かい、イタリア人やスペイン人は、食に向かうと思っています。←個人的な経験からの偏見です。もちろん、日本人も食に向かいます(笑)。
こういう複雑な世界に生きているめんどくさい人々からすると、高度成長がまだ続いている、素朴に努力が報われると思っているアメリカ人とかみたいな脳内お花畑のシンプルな人々とは、話がわあわないでしょうね。
2.イギリス映画の炭鉱もの類型の系譜は、エネルギー転換が背後にある
さらにこのヨーロッパ的問いを具体的に展開したのが、イギリス映画に特徴的な、炭鉱ものだと僕は思っています。『パレードへようこそ』(2014)、『リトル・ダンサー』(2000)、『ブラス!』(1996)、『フル・モンティ』(1997)などが思い浮かびます。
炭鉱の問題は、石炭から石油へのエネルギー転換問題です。
この映画も同じエネルギー代替問題ですよね。非化石燃料への転換というパラダイムに即して、ソーラーパネルによる太陽光発電の比率を上げようとしてい流のが背景にあります。
こうした産業やエネルギー構造の転換により、一気に職がなくなり、それまで形成されていた地域や家族共同体が不可逆的に壊れていく過程を、ヨーロッパ映画はよく描きます。資本主義が勃興して、近代化が進んでからこのような「社会構造の大転換」を繰り返しているので、大きなテーマになるし、見ている人も共感しやすい。この場合は、ソーラーパネルによって、農地が代替されているんですよね。農業を営むより、ソーラーパネルで補助金をもらった方が、地主も、管理する人も、地方も潤うのです。土地が経済型に換金されるのは、資本主義が貫徹している近代社会では仕方がないですよね。ただ、それによって、土地と結びついていた有機的な共同体の伝統が破壊される。
日本でも全く同じモチーフで名作があります。李相日監督の『フラガール』(2006)です。福島県の常磐炭鉱でのスパリゾートハワイアンズの誕生を描いた物語です。僕は、あまりに感動して、家族で泊まりに行ったこともあります。この構成やドラマが、『リトル・ダンサー』や『ブラス!』とほぼ同一なのはわかると思います。エネルギーの転換は、社会のインフラの問題なので、村や地域が丸ごと消失してしまったり、ある世代の伝統的に形成されて安定していた技術や職人の共同体が、丸ごと消失してしまったりするので、衝撃的なテーマなんですよね。そして近代資本主義国家における頻出するパターンです。この共同体が破壊されることと、そこに住む人々の自己表現の問題が、自尊心と結びついているのは、ダンスや音楽で、この苦しみが表現されて、解決策に結びついていくことからわかると思います。
3.逆に高度成長期にどんな社会問題が生み出されるかは、インド映画『きっと、うまくいく』が面白い
ちなみに、逆に、高度成長期の文脈が社会に何を生み出すのかを描いた傑作は、インド映画の『きっと、うまくいく』ですね。
僕は、エンターテイメントが大好きで、基本的にアニメやマンガを強烈に愛する人なので、エンタメにとっての本質は、意味がわからなくて面白いことや感情的なカタルシスがあってこそだと思っています。だからこうした社会背景を読み解いて分析することが、自覚的に必要かどうかは、いつも悩むところではあります。ただ、これを勉強と取るのか、より物語を深く体感して面白く感じるためのベースの教養を習得する修練と取るかは、姿勢が分かれることだと思います。とはいえ、ヨーロッパ映画や日本映画は、すでに黄昏の時代に入っている芸術の領域なので、こうした背景にある経済変動の移り変わりやメカニズムなどをベースに、一体何が文脈テーマになって問われているかを考えていかないと、さっぱり楽しめないと思います。まぁ、この辺りで挙げている映画は全てウルトラ名作ばかりなので、知識関係なく面白いですけどね。
でも例えば、この『太陽と桃の歌(ALCARRÀS)』なんかは、多分こうした背景を考えないと何の映画かさっぱりわからないと思います。視点も一人に固定しないで群像劇的に移り変わるので、誰に感情移入してほしいのかも全然わからない。また、実際のところ、最後のオチも全くない。これでそんな凄い賞とったの?って疑問に思うと思います。
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