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九州?畿内?あなたはどちらを選ぶ?〜Welcome to Japanese archeology〜

*この記事でわかること*
・2021年までの邪馬台国論争をプレイバック!
・まったく知らない人でも楽しめる!「邪馬台国論争入門」

mybestのアドベントカレンダー。12月4日号担当の大島凱斗です!
今回のテーマは「選ぶ」。ということで、みなさんには日本考古学における最大の謎「邪馬台国論争」から九州説・畿内説を選んでいただきたいと思います!

銀行出身ということもあり、現在は金融サービスチームで日々コンテンツ制作に励む毎日です。しかし、そもそも大学に入ったのは考古学で大学教授になるため。大学4年生のときにほんの出来心で社会に羽ばたいてしまいましたが、当時は1年生の4月から卒論に向けての勉強を始めるほどの熱中っぷりでした。

さて、みなさんにとって2021年はどのような年でしたか?
飛躍や挫折、みなさん思い思いに過ごしたことでしょう。
古くは江戸時代から今もなお決着を見せていない「邪馬台国論争」は、今年も平行線。今回は、論争の2本柱である「九州説」と「畿内説」の動向を、最新情報も含めてお伝えします!

と、その前に。
いきなり「考古学」「邪馬台国」といわれてもピンとこないですよね。
そんな人も心配無用!まずは入門編から、考古学のロマン旅をお楽しみください!

邪馬台国やまたいこく…ってなんだっけ?

「邪馬台国なんて小学生ぶりに聞いたよ。いったい何だっけ?」なんて人もいることでしょう。しかしこの女王の名を聞けば、誰しもが思い出すはずです。

女王の名は、卑弥呼ひみこ

女王・卑弥呼が治めた邪馬台国は、日本の国家のはじまりといわれています。邪馬台国ができる直前は、数十人単位の村同士で戦を重ねた時代。邪馬台国の誕生は、戦を治めるために諸国の人々が女王を共立した革新的な出来事だったといえるでしょう。

私たちが毎日何気なく暮らしているこの国のルーツ。邪馬台国の存在は、私たちのアイデンティティ形成にも遺伝子レベルで多大な影響を及ぼしているのです!

▶邪馬台国って何時代の話?
邪馬台国は弥生時代後期から古墳時代前期に存在したと考えられています。西暦でいえば200〜230年ごろ。いまから約1800年前の話です。
太古の時代変遷は以下の通り。(かなりザックリです)

・旧/新石器時代:〜紀元前10,000年
 →石!石!石!
・縄文時代:紀元前10,000年〜紀元前400年
 →狩り!土器!
弥生時代:紀元前400年〜200年
 →米!竪穴式住居!
古墳時代200年〜600年
 →古墳!金属!
・飛鳥時代:600年〜
 →聖徳太子!

邪馬台国は、集落が大規模化した弥生時代から、巨大墳墓が造られるようになった古墳時代の狭間に誕生した国。まさに、日本の歴史のターニングポイントに位置しています。

なぜ邪馬台国は論争になっているの?

では、邪馬台国の何が議論の的になっているのか。
それは、邪馬台国があった「場所」です。

邪馬台国のことを記している唯一の資料が、中国・三国志のなかにある魏志倭人伝ぎしわじんでん。資料には、中国から邪馬台国への行路や当時の人々の暮らしなど、さまざまな記録が残っています。

そして、魏志倭人伝に記された、邪馬台国への行き方は下記の通り。

1.狗邪韓国くやかんこく(韓国)から対馬に渡る
2.さらに南下し、九州(一支国・末盧国・伊都国・奴国)に上陸する
3.福岡県付近から、さらに南下。海上を約30日、陸路を1か月ほど進むと邪馬台国に至る

資料の通りに地図を追うと、邪馬台国は現在の鹿児島県の南の海上に存在することに!「さすがにそれはあり得ない」「記述のどこかが間違っているはずだ」とそれぞれの解釈が沸き起こりました。

そして、有力とされている候補地が下記の2つ。

1.九州(福岡県付近):弥生時代までの最先端地域
2.畿内(奈良県):古墳時代以降の最先端地域

九州説は「魏志倭人伝は日数の記載を誤っただけ。南に進むなら九州のどこかだろう」という考えから始まった論説。一方で畿内説は「記載が誤っているのは方角。実際は東だった」として邪馬台国を探し始めたもの。

また、邪馬台国を「や・ま・と」と読み替えた際に、弥生時代に栄えた九州の山門か、のちの国名にもなった奈良県の大和かという点でも解釈が別れています。

こうして、日本国家のはじまりの場所を巡る論争に火がついたのです!

では邪馬台国の場所をどうやって探す?

上記の通り、文字で書かれた資料のすべてを信用することはできません。ではどうやって邪馬台国を探そうか…

答えは、発掘して出てきた資料(遺物)の特徴をつなぎ合わせて、決定的なロジックを組み上げること。つまり、モノから歴史を考える「考古学」の出番です!

いよいよここからは、邪馬台国の場所を巡る論争に踏み入れていきます。

九州説:弥生時代終盤の資料数が圧倒的

★九州説でおさえたい2つのポイント
 1.大陸文化との交錯地点
 2.巨大環濠集落・吉野ヶ里遺跡

1.大陸文化との交錯地点
九州説の舞台は北部九州(福岡県・佐賀県)です。この地域は大陸との距離が近く、弥生時代に最も発展していた地域だといえます。

太古、権力の証は「青銅器(銅剣や銅鏡)」。弥生時代の日本は加工技術が未熟だったため、権力者は大陸と交流して手に入れていました。そして、北部九州の遺跡からは、その時期に大陸で制作が盛んだったさまざまな種類の青銅器が多く出土しています(井原鑓溝遺跡・三雲南小路遺跡など)。

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出典:http://www.kojindani.jp/iseki/

また、大分県日田市から鉄製の鏡が出土しています。この鏡、発見されたのは1964年と少し前ですが、2020年に大きな注目を集めました。それは、魏の始祖・曹操の墓から同じ鏡が見つかったためです。魏志倭人伝に記されているような交流を、まさに感じさせる発見といえます。

さらに、福岡県志賀島からは、有名な金印が出土。魏志倭人伝には中国皇帝が卑弥呼に金印を下賜したと記述があるため大発見でした。しかし、発見された金印に記されていたのは「漢委奴國王」。魏志倭人伝に描写がある金印は「親魏倭王」であるため、卑弥呼が持つ真の金印は未だ見つかっていません。

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出典:https://ja.wikipedia.org/

2.巨大環濠集落・吉野ヶ里遺跡
佐賀県にある吉野ヶ里遺跡が発見されたのは1986年。全長2.5kmで、当時最も巨大な集落遺跡の発掘成果として世間を賑わせました。

遺跡のなかには大量の竪穴式住居跡に加え、食料備蓄用の倉庫、遠方を見渡すための櫓も多数。卑弥呼が女王になったのは、「倭国大乱」を治めるためであり、この巨大な集落遺跡は象徴的だといえます。

また、遺跡内の墓からは豪華なガラス製アクセサリーも多く出土。ガラス製品は権威ある女性が身につけていたことから、吉野ヶ里遺跡には女性の有力者がいたと伺えます。

畿内説:巨大遺跡と巨大古墳

★畿内説でおさえたい2つのポイント
 1.纏向遺跡と箸墓古墳
 2.中国書物と銅鏡

1.纏向遺跡と箸墓古墳
畿内(近畿地方)の舞台は奈良県天理市・桜井市。ここで2009年に驚くべき発掘成果がありました。

遺跡の名前は纏向遺跡まきむくいせき。まず目を引く特徴は、その大きさです。

発掘された纏向遺跡は全長2kmほど。さきほど紹介した吉野ヶ里遺跡が全長2.5kmだったのに比べるとやや小さいですが、なんとこの纒向遺跡、現在発掘が進んでいるのは全体の約2%と考えられています。

さらに、発掘が完了している一部分だけでも驚異。この時代では異例の大きさの建物跡が3棟も見つかっています。大規模な政治活動が行われていたことは想像に難くないでしょう。

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また、遺跡のすぐとなりには全長280mの巨大古墳・箸墓古墳はしはかこふんも。周囲には巨大化するまでの変遷が辿れる古墳が集中しており、大型古墳はこの地域で発展したと考えられます。

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2.中国書物と銅鏡
魏志倭人伝には、中国皇帝が卑弥呼に「銅鏡百枚」を下賜品として渡したとの記述があります。

当時の日本において、銅鏡は権力のシンボル。残念ながら上記の箸墓古墳は宮内庁が管理していることから発掘調査を行えないので手つかずですが、近隣の古墳から、銅鏡百枚に迫る大発見がありました。

古墳の名前は黒塚古墳くろつかこふん。全長130mほどで、箸墓古墳よりも3kmほど北に位置しています。この古墳1基から出土した鏡の枚数は34枚。鏡が1枚出土するだけでも貴重なのに対し、30枚超えは格が違うとしか言いようがありません。

さらに出土した鏡は三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう。この種類は中国で制作された形跡がある一方で、大陸では出土しておらず、日本向けに制作されたものとの意見があります。

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ほかにも纏向遺跡周辺には100mを超える巨大古墳と、豊富な出土品が大量に確認されており、まさに文化の中心地だったことが伺えます。

さあ、あなたはどちらを選ぶ?楯築弥生墳丘墓たてつきやよいふんきゅうぼの存在

邪馬台国論争の2軸となっている九州説・畿内説。ここまで読んだあなたの気持ちは、いまどちらに傾いているでしょうか?

ここでひとつ、見落とすわけにはいかない楯築弥生墳丘墓たてつきやよいふんきゅうぼをご紹介します。

楯築弥生墳丘墓があるのは、岡山県倉敷市。造られた時期は、出土品の特徴から弥生時代の終わりごろと考えられています。全長は約50mで、弥生時代の墳墓としては類を見ない大きさです。

また、特殊器台とくしゅきだい特殊壺とくしゅつぼと呼ばれる、この地域で発達した特別な土器も。これらは古墳の周りに飾られる埴輪はにわにつながる特徴を有しており、のちの古墳時代に多大なる影響を与えたと考えられています。

岡山県は九州と畿内の中間地点。この場所に弥生時代から古墳時代への移ろいを感じさせる遺跡があるのは興味深い限りです。

まとめ

★九州説でおさえたい2つのポイント
 1.大陸文化との交錯地点
 2.巨大環濠集落・吉野ヶ里遺跡

★畿内説でおさえたい2つのポイント
 1.纏向遺跡と箸墓古墳
 2.中国書物と銅鏡

多くの人が邪馬台国の正体を捉えようとしているのは、この国の歴史を知る上ではっきりさせないわけにはいかないから。

文字資料が少ない時代においては、モノとモノをつなぎ合わせて考える考古学の成果に期待するしかありません。

邪馬台国を巡る議論は今なお進行中。明日には大発見が待っているかもしれないと考えると、楽しみにせずにはいられませんね。

さあ、これを読んだあなたは、九州説・畿内説どちらを選ぶでしょうか!?

おまけ〜753論争!本当に日本国家が成立したのはいつ?〜

邪馬台国が、この日本のはじまりの形であることはおそらく間違いがないでしょう。それまで数十人単位の村で暮らしていた人々が、戦を治めるために一人の女王を共立して平和に暮らす。革新的な出来事だったことに疑う余地はありません。

しかし、真に集権的な国家が成立したのが邪馬台国であったかというと意見が分かれるところです。邪馬台国の後には400mを超える巨大な古墳を作る王や、大陸の文明である仏教を用いて国を治める時代が到来します。

この議論は、年代を取って「753論争」と呼ばれています。逆順ですが、「3」は邪馬台国があった3世紀、5世紀には超巨大古墳の時代、7世紀は聖徳太子が現れる仏教の時代に当たります。

日本が本当の意味でまとまったのは一体いつだったのか。邪馬台国を探ることで、その答えを得られるかもしれませんね。

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ひさしぶりに自分のなかの考古学を掘り起こしたところ、湧き溢れ出るものがありました。連載するなら次回タイトルは「大和古墳群の隆盛。そして忍び寄る佐紀の足音」に決定です。

以上!楽しんでいただけたでしょうか!?
明日はホビーチーム・アウトドア担当の小松さん!乞うご期待!

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