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隷書体の成立と発展

1.睡虎地秦簡の発見

 1975年に中国の湖北省雲夢県睡虎地の秦時代の墓から、竹簡1150点が出土しました。その墓には秦の南郡に属する県の官吏を務めていた喜という人が埋葬されていて、竹簡の記録から紀元前262年に生まれ、紀元前217年になくなったとみられています。

 竹簡に記された内容は、当時の出来事や個人的な出来事を記したものや、法律の条文の抜粋、調書を取る際の文例集のようなものや、役人としての心構えのようなものまであるということです。2300年近く前の人の日常をうかがうことができるものが現代に発見されるというのは、歴史のロマンを感じます。

 この竹簡の発見は、歴史的に貴重な資料の発見ですが、書道史にとっても大きな発見の一つとなりました。というのもそこに記されていた書体は、篆書体ではなく隷書体だったからです。隷書体が秦時代にはじまるという文献はすでに発見されていましたが、実際の肉筆が発見されたことによって、それが裏付けられることになったのです。

2.隷書の登場

 秦の始皇帝によって「小篆」とよばれる文字が中国全土の標準文字となりましたが、篆書は早書きするためには向かないので、下級役人が事務処理用に速記するため、篆書が徐々に隷書化していったのではないかと考えられています。

帛書 戦国縦横家書(馬王堆出土)

 公に記録に残すために用いられる書体を「正体」と呼びます。それに対し日常の書写に用いる書きやすい文字のことを「通行体」と呼びます。
通常、漢字を体系別にとらえるとき「篆書」「隷書」「楷書」は正体に分類され、「行書」「草書」は通行体であると考えられます。

 とはいえ、現代では行書・草書を習う機会がほとんどないので通行体というものがない状態かもしれません。指導要領では中学校で行書体を習うことになっているのですが、私自身も、おそらく日本人の多くの人が学校教育の中で行書体を習った記憶がないのではないでしょうか。
 それはさておき、秦時代において隷書は「通行体」だったことになります。

帛書 「老子」乙本(馬王堆出土)

3.馬王堆漢墓からの出土品

 秦は、550年ほども続いた春秋戦国時代から初めて統一王朝を確立しましたが、わずか15年ほどで滅んでしまいます。秦を滅ぼした劉邦は、項羽との争いに勝利し漢王朝(前漢)を建て、7代武帝の時に全盛を迎えます。

 この頃までの書跡が20世紀に多く出土しています。
 その中でも1972年に発掘された「馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)」からは、多くの書道史にかかわる文物が発掘されており、紀元前196年頃~紀元前180年頃の「帛書(はくしょ)」が含まれていました。


4.波磔を備えた隷書への発展

 写真の「戦国縦横家書」では、篆書風をとどめており、別の「老子 乙本」では収筆が波磔に変化し始めていて、隷書化が進んでいます。

元康四年簡(敦煌出土 BC62)

 前漢から後漢にかけての漢時代に、秦代の篆書風の隷書が徐々に波磔をもち八分をそなえる隷書となっていったのです。

 後漢になると端正で扁平、きれいな八分を備えた隷書の石碑が現れ、隷書が正体として完成されたことがわかります。


参考:
「墨 スペシャル 第9号」

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