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谷川晃一


 先日、終了してしまったが、足利市立美術館で開催していた「浅川コレクションの世界」に谷川晃一の絵が飾られていて嬉しくなった。

 それで思い出したこともあり、谷川晃一について少し書いてみたい。

 自分が谷川晃一の作品を最初に見たのは、神戸のBBプラザ美術館での「ニャンニャンカーニバル」の絵本の展覧会だ。


 神戸での展覧会は、旅のついでにふらっと入ったもので、その時の目当ては兵庫県立美術館の方だった。確かピサロの企画展をやっていたと思うが、それよりも常設にあった小磯良平「斉唱」が尋常なく素晴らしく時が止まるようだったのをよく覚えている。

 そして、記憶が確かなら、「ニャンニャンカーニバル」の展覧会は、その帰りがけに見たはずだが、これがある意味では「斉唱」と同レベルで自分の記憶の中に長く残るものとなり、今に至るも谷川晃一のファンとなっているのだ。

 谷川晃一の作品、特に絵本の作品は、ある種「へたうま」な絵と言えるだろう。


 初めて見た時は、これが素でやってるのか、わざとやっているのか、判別がつかなかったが、そのどちらなのかは、展覧会を見てるうちに朧げに分かった。

 というのも、見てる途中、自分は谷川晃一の評論本を持っている事に気付いたのだ。ふらっと見に入った時、名前が妙に引っかかったのもあるのだが、その評論の内容と絵があまりにも結びつかなかったので、本のことをまるで思い出せないまま絵を見ていたら、会場に確か本が置いてあって、あ!となった。

 谷川晃一は80年代に「アール・ポップ」という進駐軍文化の連なりからなる文化の在り方のようなものを提唱して、イラストレーションとアートの横断的な事を書いていた。その中で「へたうま」についてもよく取り上げていた作家だ。

 この辺の話は評論のような話なので噛み砕くのが難しく、詳しくはどこかで「アールポップの時代」などを読んで欲しい(若干、入手難だが太田市美術館図書館にあったので読めた)のだが、要は、その評論と作品がつながってみると、評論文で書いていたようなことを実践して、こうなっていったんだなという事が素直に感じられたのだ。とはいえ、これが、何処がどうつながっているかは体感的にはイマイチ分からない。それぐらい文章そのものと絵の印象はかなり違う感じだ。

 なので、頭では方向性づけられても、実際に「ニャンニャンカーニバル」のようなものが理論だけで出来るのか?というと、そんなことはないと思う。というか、自分も割と「そういう作家」なので、何となく思うが、おそらく、そういう理論立てをしていくうちに「へたうま」的なところから派生するようなある種の方向性を身体に落とし込んで「素でやっている」状態にしているんだろう。何となく、そういう絵だなと感じた。

 「浅川コレクションの世界」で見た谷川晃一の作品「泥水と星」は、1988年作でパネルにアクリルで描いた本画だが、絵本の絵に比べるとかなり評論の印象に近い。これは単に自分が読んだ評論本の時期とその絵が描かれた時期が近い事によるのかもしれないが、それだけでも無いだろう。そして、ちなみにこの展示の隣には紙に水彩の絵ももう一点あったが、そちらは、筆致が軽く、やや絵本の印象に近かったように記憶している。しかし、これに比べても、ニャンニャンカーニバルの絵は本当に素っ頓狂な感じでナンセンスが本質的なところで突き抜けてる感じがするのだ。絵がストレートに手から出ている感じで、あまり迷いが感じられず「思い切り」がある。

 ニャンニャンカーニバルは2009年の作品だが、谷川晃一は、その前後にかなり絵本を描いており、絵本の製作に熱心だったのが分かる。では、それを経ての近年のアクリル画はどうなっているのか?

 その答えは、日曜美術館でも取り上げられて話題になった神奈川県立近代美術館 葉山での「陽光礼賛 谷川晃一・宮迫千鶴展」の新作で一端を見る事が出来た。

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 ここでの作品を見ると、何というか、色や形状がストレートに出ている感じがして、ある意味でニャンニャンカーニバルから受ける印象と近いものがある。それをもっと洗練させているというか、単純に言えば、絵を見たときに「ただ絵が描かれている」感じがするのだ。これが本当に素晴らしい。しかも、「陽光礼賛」のタイトル通り、絵が本当に明るく突き抜けてる感じだ。

 現代美術の世界は、ある意味では、「ただ絵を描いてない」ものの方が多い。ある主題があって、そのテーマのために絵を描くとか、構成するとか、「絵を使う」ないし「絵を作る」といったものが多い世界だ。

 それはそれで良い面もあるのだが、しかし、窮屈な面もある。そこであるタイミングではアール・ブリュットなどが流行ったりもするのだろうが、谷川晃一の作品も一見すると、その方向性にあるような気もする。

 しかしながら、前述のように谷川晃一の作品には、分厚い評論活動の蓄積があり、それを知ってしまうと、もはや一筋縄では見る事が出来ないのだ。谷川自身、「伊豆高原アートフェスティバル」というアマチュア主体のアートフェスを立ち上げているし。谷川の文章を読むと、ナイーブ・アートのような素人文化に高い関心があるようで、それを作品で追っている感じなのだろう。

 これはある意味では、安西水丸に代表されるような日本のイラストレーションの在り方にもちょっと似ている。全体的には「子供の絵」を追っていて、本来の自分の良さ=「素の状態」を保つようにしているといった手法(態度)だ。しかし、実際の絵は、奔放に見えて、定規などを使ってまっすぐに引かれている垂直線などに「理知的な感じ」が宿っている。全体の色彩構成が計算されているようでもあり、そうでも無いような気がする微妙なバランスで、見ていると考え込んでしまい、ずっと見ていたくなる。非常に絵の中に微妙なバランスの緊張感が弛緩して存在していて、それが相反する作用として深みになっているように感じられるのだ。

 無論、見た感じ、率直にマチスの晩年に近いところはある。おそらく方法論に少し通ずるところもあるだろう。そして、それはある意味でポロックとかにも通ずるテーマでは無いかとも思うのだが、「自然」と「人為」の関係というのは、絵の中では結構大きなテーマで、それを扱っていると思う。インタビューでも少しそのようなことを語っているが、見ていると単純にその関係性について、いろいろ想像したくなる絵だ。谷川は伊豆高原に住んでいるのだが、「住んでいる場所」というのも、確かに絵にとっては大きな要素と言えるだろう。

 いずれにしても、絵描きというのは「良い絵」を描ければ勝ちである。そして、自分の見る限り、谷川晃一の近年の作品は抜群に「良い絵」だった。

 これが何でこんなに良いのか?

 そんな事を考えられる絵が見られるというのも、絵を見る時の一つの醍醐味なのかもしれない。日本でもかなり独自の立ち位置にいる作家だと言えるだろう。
 

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