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いろんな人と触れて擦れて

今の会社(といっても間もなく辞めるんだけど)に入る前、面接で社長に「私もたくさんの人を見てきた。あなたは伸びると思う」というようなことを言われた。
同席していた常務にも「もう何千何万と見てるから」と言われた。

確かに自分は優秀な人材になるだろうという自負はあったのだけど、この面接を受ける時、人事からは「なるべく発言はせず、社長の喋っていることを傾聴してください」と言われており、僕は聞かれたこと以外ほとんどしゃべらなかったので(しかも質問も2、3しかなかった)、こんなんで人がわかるもんだろうかと疑問に思った。なんならチョロすぎるのではないか。
だけど、実際創業社長は誇張抜きに何千何万という人を見てきたのだろう。

自分が今まで知りあってきた人を合計すると何人になるのだろうか。
中学校の同級生が120人、高校が360人、大学の部活の先輩後輩で200人ぐらい、大学のクラスと学科で60人とかと思えば(もちろん同級生全員と知り合ったわけではないけれど)、その他いろんなの含めて1000人ぐらいなんだろうか。あ、Facebookみたら「友達」が一応535人いることになっているな。ただ、この人数は大して利害関係があったわけでもなく、それゆえ衝突するようなことも少なかった。学科の旅行でうるさいやつと一緒の班になっちゃったとか、文化祭の出し物の脚本が夢落ちだったから「こんなのよくないよ」と言っていたら脚本書いた女子に泣かれたとか、せいぜいそんなこと。

高校大学なんて自分と似たような連中ばっかりだから、誰と過ごしてもだいたい楽しかった。
そう思うと会社の人間関係って小学校以来の異文化環境だったな。
いや、人によっては会社も同質的なんでしょうけど、僕の一社目は、いろんなバックグラウンドの人々が集まっていた。
かといって烏合の衆というわけではなく、現場の人たちは実力主義の環境の中で、年齢や性別を問わず、ある種対等な関係を築いていたように見えた。「おじさん臭いノリだな」と思うようなものも、同じ事業所のメンバーで頑張ってやっていくためのコミュニケーションだと思えば悪くない。

今僕にとって問題になっているのは、年上の部下のAさんで、「場当たり的でなく先を見て指示を出すべき」「無駄を減らして効率化してほしい」「業務を洗い出してやることやらないことをはっきりさせるべき」などと、立派なことをおっしゃる一方で、振られた仕事は進めず、不要不急の勝手な取り組みに時間を費やすなど、言行不一致どころでない不可解なことをやっている人だ。部活でいえば、朝練来ないくせに「このままじゃ勝てない」と言うようなものだろうか。そして、その不一致を指摘しようものなら「ショックを受けた」「過ぎたことを責めるな」と猛反発をするのである。

はっきり言って持て余しているのだが、意外にも外面はいいようで、他部署の知り合いに愚痴ると「そうは見えないのにねえ」と言われる。
当たり障りのない距離感であれば、そういう部分は見えないのだろう。
同じ課、同じチーム、上司と部下という利害関係によって、人と人との摩擦が生まれてくるのだと思う。
摩擦はまじで嫌です。心が擦り減るとか消耗するとかいう表現ってよくできているよな。

でもまあ嫌は嫌なんだけど、そういう摩擦が生じるような関係で人と向き合ってこそ、「いろんな人を見てきた」ということが言えるようになるんじゃないか。本当に消耗するから嫌なんだけど。
酸いも甘いも嚙み分けるには、そういう摩擦も必要か。

残念ながら2年かけても部下のことは理解できなかったし、その人以外にも、例えば全然協力してくれない他部署の人には「なんやあいつ!」と後で愚痴るぐらいしかしてこなかったので、あんまり摩擦から何かを得てこなかったな。
いろんな人を「見た」だけ。
自分割と直球タイプなので、器用に対処できないんすわ。
でもその辺の器用さがないと、どこまでいっても人間関係を運任せにするようなものだと思う。もうちょっと人のタイプによって接し方を変えたりできるといいな。

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