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学校ってなんだろう?

学校の語源って、知ってますか?wikipediaを引用すると、、、

「学校」を意味する英語のschool、フランス語のecole、ドイツ語のSchuleは、「スコレー」が語源となっている。
「スコレー」=たんなる余暇ではなく、精神活動や自己充実にあてることのできる積極的な意味をもった時間、また、個人が自由または主体的に使うことをゆるされた時間のこと


 この語源は、興味深くないですか?なぜ私が興味深いかと思うと、まさに今の学校教育の仕組みと180度異なるからです。もちろん、事象は発祥時から刻々と変化するものです。だから、「学校」も時代によって意味合いなどが変化していくことも当然です。ですが、原点に立ち返って、本質を見つめると、新たに見つかるものがあるのではないでしょうか。


 語源から考えるとまず学校に必要なのは、

①時間的・精神的な余裕                        ②集団活動の中で協働的に学ぶ機会                  ③興味関心の持った事象に対し自ら調べたり整理したりまとめたりする時間④子供を評価する評価軸を学力以外にも複数持つこと

以上の4つが大切だと考えた。教科書ベースの学びももちろん大切なのですが、そこで得た知識と知識が結び付き答えのある問いに挑んだのちに、子どもの身近な答えのない問いに挑み協働的に学ぶプロセスを踏みたいと考えている。樋口万太郎著『子どもと一緒に問いからつくるワクワクする授業が6つのステップでできる!』においては、答えのない問いでの課題を「シンキング課題」と名付け、単元の中の一つとして位置づけられていた。この著書を読んだとき、大変興味深かった。

 また、「主体的・対話的で深い学び」を平成29年度版改訂学習指導要領に掲げられたことは、記憶に新しいと思う。しかし、今「主体性」ということを意識するとなった際、教師が子どもに動機づけを図り、気持ちが授業に向かせることに注力しているように考える。しかし、人は生まれた時から、生きるために主体的に自ら学んでいて、学びを止めていない。それがいつ学びのスピードが落ちたり受け身に変わってしまうのかと考えると、小学校入学後ではないだろうか。「テストの点数が高いほうがいい」「学力は大切」と学力という単一の評価軸で子どもを見てしまい、勉強の出来不出来で子どもの人格が評価されてしまっている。その環境で育った子どもにとって、本来手段であるはずの「勉強すること」が目的化してしまい、学びは「与えられるもの、我慢して覚えるもの」という位置づけになってしまうのではないだろうか。そうではなく、自分の興味関心のある物事を追究していく中でいつの間にか得ていた学びの方が子どもの記憶に一生残るのではないだろうか。そのような学びの価値は非常に高く、もっともっとその時間を大切に守って学びに向かう力を維持増進できるようにしていきたい。


 今回は、語源から「学校」を考えてみた。私の思う学校像も、ついでに記してみた。賛否両論あると思うが、私のアウトプットの場として温かく見守っていただければ、幸いである。

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