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山行マインドワンダリング

2023年1月2日新春登山 雪山としては割と登りやすく山頂の眺望は申し分なく、その広大な山頂の異世界感は突き抜けている蓼科山。 日本百名山ですな。 その山行で「時間の正体」に気付いた。脳科学、哲学、物理学さまざまな角度から「時間」は考察されて 時間の矢は人間の錯覚と言われてる。時間は伸縮するし全方向に飛ぶ。

しかし左記は「時間」自体は存在する前提の理論だが、そもそも「時間が存在しない」とはいかなることか。 話を一旦「時間」から離れよう。 数学の概念でゼロとは極小値でどこまで行っても「0.000000000……1」でありそれでもゼロとみなして良いことなっている。 我々は水平な平面の上に暮らしていないから水平な平面紙はじつは細かくは水平ではない。それでも水平とみなす。それは斬り捨てて良い誤差だから。 時間も同様だ。人間が1日が経過したと実感するのは太陽が昇り沈むから。また僅かながら人間は老化し続けているから。 これがプシケのような鉱物の塊の彗星は1日では何も変化しない。つまりプシケにとって1日という時間は進んでいないに等しい。 結局はそれぞれのスケールで「時間という概念」を設けているが「それ」より遥かに巨大な存在・または不動な存在からしてみたらそれは「こじつけ」に過ぎない。人間にとって僅かすぎる「時間」(例えば0.0000000000000001秒はゼロと言っても差し支えない) しかし、物凄く微細な物質にしてみれば「0.00000000000000000000000001秒も」重大な長さの「時間」やもしれない。

それぞれのスケールで「時間」と決めてるスケールは異なり、「それは便宜上【時間】と定めているにすぎず」量子力学の観点までいくと時間という普遍的なファクターはそもそも存在しないということとなる。  それでも我々は感覚的に「時間は確かに存在している」。だから「時間が存在しない」と言われてもピンとこない。 時間が存在しない以上、伸縮するとか反転するとかタイムマシンとかも無意味。物理学では「物質は変化する」そして例えばビリヤードで玉を突き、各ボールが散りばめられたとき元に勝手に戻ることはまずない。まずないが、戻ることもある。つまり元に戻れば時間が元に戻ったということなのだ。つまり時間とは「物質の変化」でありその変化は不可逆的な場合が多いから「時間は矢のように過ぎて元に戻らないと錯覚しているに過ぎない。そして時間というもの自体は存在しない。 山行も「タイムを測るが」「それは地球の自転に対してどれだけ山行できたかに過ぎなくて」「時間は便宜上定めたものに過ぎず存在はしていない。」 でも存在していのに等しいから「存在していることにしている。」このことは山行すると「僅かにだが」どういうことか 実感する。以上

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