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信心深い日本人

日本人全般は無信教ではなく多神教であるとの言説を最近よく聞きますが、まさにその通りかと思います。

元日に初詣して基本的に神道に帰依し、(明治期の神仏習合令の影響もあり神社だけでなく寺に初詣する場合もあり、その場合は厳密には神道ではなく仏教に)、クリスマスというクリスチャン要素もあり、厄払い、厄年みたいな発想はまたしても神道か。節操なく多神教であるのは枚挙に暇がない。

ここまでは非常にステレオタイプな説明ですが、
この特徴を心理学的、精神医学的な分析をすると
ちよっとおどろおどろしい表現をすると強迫神経症の主に縁起恐怖、縁起強迫と呼ばれる心理と関係深い。

お祈りすると良いことあるかもレベルならそつ言ったシンドロームとは言えないが、それが境界線を越えてお祈りを怠ると悪いことが起こるまで心理が進むと強迫神経症レベルと進む。
前者と後者はかなり違いはあるようだが、結局は程度の差であり、根源的には一緒の心性だろう。

代表的なのはスポーツ選手によくある儀式的な行動パターン(いわゆる験担ぎ)がこれに中る。
私はスポーツ選手の多くは縁起恐怖レベルまで強迫観念が強まっているのではないかと予測する。
スポーツのような厳しい競争の世界ではある意味神頼みに心が向かうのはむしろ自然であろう。

私は小学生くらいから社会人にもなってもしばらくは、この縁起恐怖は強く感じていた。これらは自分の内面世界に収めていて他者に(親にも)語ったことがないから、周りの人間が心配して心療内科を受診させるということはなかった。あるいは、シンドロームか否かの境はそういった観念が生活を著しく破綻させるか否かにボーダーラインがあるとすると、そうでもなかったからそれはシンドロームではなかったのかも知れない。

小学校低学年の頃、心配事と著しく嫌なことは2つあった。
1つはどこの家にもあろうが、両親の夫婦喧嘩だ。
夫婦喧嘩にも色んなタイプがあって、口喧嘩レベル、現代だとすぐに問題になるが物に当たったり暴力を伴うものやら。うちの両親の場合は今の時代だとアウトなレベルで激しくやっていたので子供心に恐怖を伴う忌避したい出来事であった。
もう1つは母方の祖母が好きであったのだが小学校低学年の頃に祖母が体調を崩して寝床から出てこなくなった。(かなり後年にその頃に祖母はうつ病を煩っていたと聞いたのでおそらくその影響だろうが)当時はうつ病はまだまだ社会的にひたすら隠される風潮にあったから表向きは風邪をこじらせて体調不良と説明され、孫にもそういった説明であったからそう信じていたが。
いずれにせよ上記二点が忌避したいベスト2であり
いつしか、縁起恐怖を作りあげていた。幸い、複数作らなかったのでまだ良かったが、当時を思い出すと、とあるスーパーの移動販売カーが流していた悲しげな曲を聴くと夫婦喧嘩が起きるとまさに縁起恐怖を作り上げており、それを聴かないように真剣にしていた。

これは験担ぎレベルではなく強迫神経症的だ。

受験の頃は色んな験担ぎを周りも言っていると、かなり気にする方だった。受験前に伊予柑を食べると良い予感だから良いというのは可愛いものだが、禁忌要素のものだと受験直前の年末大晦日に紅白歌合戦を見ると落ちるという根拠のないジンクスを聞くと本気でそれを信じるわけではなくとも、気になってしまったり。

まぁこのレベルだと誰しもがあることかと思うが

その後も幼少の頃に曲と悪い出来事を関連付けた縁起恐怖は最近まで続いていて、いや今でも完全には克服できていないのかもしれず。とあるバンドのアルバム自体と出来事を関連付けていたり。

ややこしいのは、とある人物の好調期と自身の好調期が反比例するということを社会人なりたての頃に感じていたり。

成人してからのそういった観念は若干病的に感じるが、それは幼少期のトラウマの名残かとは自己分析している。

10数年前からそれらを克服したく、気にしないように考えたが、なかなか理性だけでは寛解しない問題であり感情は理性でコーティングしても、奥深くではそういった癖は消えていないことは感じていた。

とは言え、新しい縁起は作らないルールを自分に課して、大分楽になったのと
その方法論のひとつして、ともすると「貼り紙を貼るなという貼り紙」もしくは「クレタ人は皆嘘つきだとクレタ人が言った」的な矛盾に近いが、「験担ぎをすると良くないことが起こるという験担ぎ」但し、この言葉遊びは馬鹿馬鹿しくなりそもそも験担ぎにもならないのだが、それこそ副産物で験担ぎそのものを緩和できた。

縁起恐怖に関しては以上だが、繰り返しになるが、程度の差はあれど、日本人の多くが意識する無意識にも差はあれど誰しもが持っているものかとは思う。

ただ私がそうかは別として感受性の豊かな子供などはこの罠に陥りやすいと考える。私は工夫や後で述べるが、歳を重ねるにつれズボラになることにより、病的レベルまでは至らなかった。しかし、内面では悩んだことは確かである。

コロナ禍において国民の衛生観念は何段階も上がったが、そもそも私は先の縁起強迫と同様に清潔恐怖(潔癖症)観念も強い。
先に述べたようにどんどん歳を重ねて鈍感力も発揮しているから潔癖症ほどではないが、実は内面は潔癖症的なマインドを強く持っている。
逆に言うと、病的レベルに行くのを防ぐためにズボラ力を高めたとも言える。

このコロナ禍でニューノーマルがかなり神経質な衛生管理に近づき私などは堂々と除菌や予防を出来て快適である。

今回何度も述べるが、私が特殊なのか、多くの割合の人が似たような内面を持ちつつ表に出していなかったのか?それは分からないことだが、敢えて程度の差はあれど神経質なマインドは誰しも保有しながら自らの中でそれと巧く付き合っているのかと考える。今はすぐに症状名を付けてともすると治療してしまうことがあるが、

武田鉄矢の三枚おろしでやっていたがパラリンピックの選手だけではないが身体の機能の欠損や、例えば吃音症の人などの障害があっても、それをベースに自らの身体を作りあげてきた人々は一様に特効薬が出来てもそれを利用しないといっていた。

縁起恐怖なども病的でないとしたら実はプラスの効能がある。私は朝のウォーキングをここ半年ほどほぼ毎日継続しているが、ここに縁起恐怖はないのであるが、元々縁起強迫的な性格だからこそ挫折せず継続している面も明らかにある。顕在意識のうちでは縁起強迫はないと言えるのであるが、潜在意識(無意識)では微妙に存在していてプラスに作用しているのかも知れない。

善玉細菌ではないがこういった考え方の癖もマイナス面ばかりではないのかなと捉えている。
コロナウイルスも長い歴史でみると人間にとってプラス(ガンの治療を含め免疫を大きく向上させる善玉ウイルスの可能性も武田鉄矢は今週話をしている。)

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