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大学教育のサービス化のジレンマ

『まちの風景をつくる学校 神山の小さな高校が試したこと』の感想聞かせてシリーズ3人目は、大学教員で教職課程を担当する木村栞太(かんた)さん。
九州大学の教育学部から修士、博士課程へと進み、現在は福岡県内の私立大学に勤めています。

学生時代から教育・福祉系の活動を共にしていた後輩で、出版記念の報告を兼ねて福岡を訪れた際に久しぶりの再会を果たしました。
ふと見ると、彼もまた本にびっしりとマーカーを引き、赤ペンでがっつりと書き込みをしているじゃありませんか。
怖い。ゴリゴリの教育学研究者からフィードバックを受けるのは怖い…。と思いつつ、でもやっぱり「どう読んだ?」と感想を聞かせてもらうことに。

大学教員3年目を迎え、日々学生と接しながら教育業界の非営利性と営利性の狭間で悩み考えていることを聞かせてくれました。

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木村)「なぜ大学進学するのか」という問いに対して、多くの学生さんからは「行くものだと思っているから」「親が大学までは行ってほしいと言うから」といった答えが返ってきます。教職課程を履修してるなかには、「別に教員は目指してないけど保護者が『取れるんだったら取っときなさい』って言うから履修してる」という人もいるんです。別に、それはそれでいいかなと思うんですけど。

大学として、学生側から求められるままに提供し続けることが、その学生のことを本当に考えられているのだろうか、と疑問に思う時があって。大学は大学で、すごい競争社会の中に晒されているから、生き残りをかけて教育サービスを提供しないといけない。さじ加減の話だと思うんですけど…。

「教育はサービスなのか」みたいな話は、常にテーマとしてありますよね。消費者が求めるままに提供することが本当に教育なのかとは思ったりするんですけど、でもそれをしないと食っていけない。
…ということを考えながら本を読んだんですよ。

森山)うん、うん。

神山校の取り組みは、いまの世の中の価値観に対してちょっと違う角度から提案してるじゃないですか。高校のなかでも専門教育の領域に入っていって。現代の潮流に絡め取られない価値観とか経験を提供していて。
「大学は必ずしも行くもんじゃないよね」って価値観が広まってくれたら、それはいい意味で高等教育のためにもなるな、と思ったんです。

神山の人たちがそこをどういう風に落とし込んでいったのかは、聞いてみたいんですけど、そういう話ってありました?

森)落とし込んでいった?

木)もはや神話ですけど、いい大学出ていい企業に行って、みたいな考え方がまだまだ主流の中で、神山はそれとは違う価値観を提供しているように感じたんです。神山自体にその土壌があったってことなんですかね。

森)うーん…。でもね、県全体の普通科志向は変わってないのよ。普通科が上位で、専門高校のなかでも序列があって一番下が農業高校、みたいなのは、結構根強い。中学生本人の意思とは関係なく「偏差値的にあなたはこの高校しか行けません」って言われて来ている子たちが多かった。同時に、それなりに勉強ができて普通科に進学した子は当然のように大学に行くって流れは、町内でもある。

木)そうなんですね。進学校に行くような高校生たちは、依然として知識を注入して受験戦争を戦っていく。その横で、じいちゃんたちと一緒に過ごしてる高校生たちもいるっていうのがすごい。県内の高校生の状況として、二極化しているのかな。

森)二極化って言うほどインパクトを出せてるかわかんないけど、一つの選択肢としては提示してると思ってて。学力的にはどの学校にも行けるような子が、あえて農業高校を選択して「こっちの方が面白いじゃん」って本人は言う。って状況が生まれてきている。
特に県外生は、地元を離れてまでこの学校に通う&このまちに住む選択肢をしてる。それは町内の人にとっても、県内の人にとっても、結構衝撃的だったと思う。そんな状況になって初めて、「あれ、農業高校ってもしかしていいかも、神山校っていいかも。」って再認識されはじめる。数値で表される偏差値とは別軸が生まれているとは思う。

佐賀の基山で開かれた出版記念イベントにも来てくれた

未来に備えるための出席点。本当に欲しい?

木)地域留学のイベントに来ていた中学生の言葉(*第4章参照)はすごい象徴的でした。大人が敷いてるレールに乗っかってるだけの状況に対する違和感とか。その女の子だけじゃなくて、みんな薄々感じてるけど、ほかに選択肢がない。結果「何しに大学に来てるんだろう」ってなる。
自分でも違和感があるんですけど、大学教員が「もっと遊びなさい」って言わないといけない。

森)ほう?

木)もちろん自分が面白いと思った授業は受ければいい。でもシラバスを見れば大体の計画も出てるんだから、「この回は出なくてええわ」ってのもアリだと思ってて。
「大学時代は自分の興味関心に没頭する時間をつくれる、人生の中でも贅沢な時間なんだから、もっと外に出たらいい」って話を学生にしても、「GPAが3. 9から3.8になったらどうしてくれるんだ」みたいな反応になる。出席点とか、もう一生懸命取ろうとしてて。「本当にそれ欲しい?」って僕は思う。
学生さんたちはすごい真面目に考えてるんですよね。ボランティアさえも、何かしらの業績を積んだら就職しやすくなるだろうという視点で、戦略的に考えてる。その延長線上に、GPAの話もあって。

学生たちが出口を意識しながら選択をしている以上、出口をどう変えていくのかっていうのは大学にいてすごく考えるところです。
世の中がどういう人を求めるのかって考えると、神山のようにおじいちゃんたちと濃密なコミュニケーションとってきてる人たちって、すごい魅力的なんじゃないかなと思う。それに、本に登場していた中野さん(*第5章)みたいに、学びたいと思った時に大学へ行く、みたいなルートや考え方が広まって、そういう選択ができるようになったらいいのになと思いました。

森)地域留学をはじめた時に、農業高校の卒業後の進路をどう考えたらいいんだろうって議論はあった。大学も一緒だよね。強迫観念というか、出口を常に意識しながら生きる。大学に行くための高校。就職するための大学。
その価値観の転換は私たちのなかでなかなかうまく言葉にならなかったんだけど、塚越さん(*第4章イベントレポート)がうまく言葉にしてくれて、「そうそう、それ!」って。

サービスする側がどんどん苦しくなっていく

木)無理なく力を合わせるってところ。すごく共感しました。擦り切れていってしまったら意味ないよねって。
私立大学はまさにそうなんですよ。とにかく学生に教育サービスを提供するために、どういうルールを敷けばいいかって発想になる。裁量労働制と言いつつも、毎日絶対登校してくださいとか、学生にいつでもレポートの指導ができるよう極力研究室にいるように、とか。そういう発想になるのはわかるんですけど、でも、バッファーっていうのかな、余力を残せるようにしとかないと。余力の部分で文化が育まれていくと思っているんです。
でも「郷にいれば郷に従え」で、年数を重ねてくると、そうせざるを得ない論理もあるよなと思ったりもして、一年目に感じてた違和感を時々忘れてる自分がいて、すごいショックだったりする。

森)馴染んでいってしまって。

木)公的な組織である以上、説明責任を果たさないといけないのはわかる。けど外部から先生一人呼ぶにしても、長ったらしい作文をしないといけない。学生が小中学校にボランティアに行きたいと言っても大学側が課外活動の保険適用がなんだかんだと言って、すぐに動けない。煩雑な手続きをやりきれない学生は、気持ちが萎えてしまう。これは本当にもったいない。

組織は常に賠償責任とかリスクを意識してるし、保護者や学生さんをサービスを提供する相手として見ている。あっちは消費者でお金払ってるんだから、それに見合ったものを提供しないと、みたいな話に流れてしまいやすい。

つなぐ公社は行政と比べて、その辺りの融通が利きやすいんですかね。パン職人と理科の先生がコラボした授業のくだり(*第5章)で、パン職人の方が先生に対して「先生が事務処理をスピーディにやってくれたのがすごいありがたかった」って話してましたよね。

森)あれはね、私たち(公社)はノータッチ。気づいたら進んでた。

木)理科の先生は多分楽しんでやってたから、事務処理を目的達成に必要なプロセスとして落とし込んでスピーディにやれたんですかね。

森)学校自体も、煩雑すぎない手続きで進めたんだと思う。

木)自然と密接に関わってる農業高校だからこそ育まれてる価値観みたいなものがあるんでしょうね。いい意味でのおおらかさがあるんだろうなって、なんとなく感じましたね。

森)おおらかすぎて、約束の時間が伝わってないとか、話が共有されてないとか、いっぱいあってそれはそれで大変(笑)

木)コーディネートする側はそうでしょうね(笑)

森)それも「ごめん!あはは!」って笑い飛ばしてて。お互い様な感じなのがいい。

木)最悪の事態を想定して、それを防ぐためにやらないといけないことはもちろんあります。その発生リスクと手続きプロセスがアンバランスだとしんどくなってしまう。何か起こった時に当事者同士がある程度納得できる解を想定しておけたら、と思うんです。

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対象を「お客様」として神格化して自らの首を締めてしまうのは、教育に限った話ではないでしょう。

木村さんとの話を終えて、自分自身がつなぐ公社で働きはじめた初期の頃、教育プログラムを考案しているときに「サービスにしすぎない方がいい」というアドバイスを、ある人からもらったことを思い出しました。提供する側/される側という関係が固定化してしまうと人と人の健全さが損なわれていく、ということだったのだと思います。

年数を重ねていくと違和感を忘れてしまいそうになる、と言っていた木村さん。時々、このnoteを見返してくれるといいな。また数年後、お互いの近況を話しましょう。ありがとうございました。


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