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AI時代の子育てを見つけたアンラーニングの旅_001

今何が頭の中でモヤモヤがあるので、このモヤモヤを言語化していってみようと思う。

昨日、「冒険の書 AI時代のアンラーニング」と言う本を読んだ。
これ↓

『「なぜ学校に行かなければいけないのか」と言う問いに対する答えを見つけるための時空を超えた壮大な旅の本』って言う印象です。

ここ5年ほど、私も様々なジャンルに興味を持ち、いろんな本を読んできたけれど、 思わず「そうかこの本を理解するために、この5年があったんだ」と 感じてしまうような内容に、高揚感を抑えることができません。

自分がアウトプットの段階に入ってきたなと思うので、この本の感想も含めて「私のアンラーニングジャーニー」を記録に残していきたいと 思っているのですが、その前にまず、なぜこの本を読んで高揚感を感じるまでになったかということを最初に整理しておかないと、私のアンラーニングの変遷が辿れないのでまずはそこからアウトプットしていこうと思います。

そもそも、「なぜ学校に行かなければいけないのか」という疑問にフォーカスし始めたのは、何より、自分の子供が「学校に行かない」と言う選択をする生活を送るようになったことがきっかけです。

次男が本格的に学校に行かなくなったのは、中1の夏休みが明けた9月から。 

当時の私は、その状況が理解できず容認できず混乱の中にありました。なんでそんなことを言い出すのだろう、何が原因でそうなったんだろう、私の関わり方に問題があったのだろうか、、、

実は、長男が中学生の時に同じように学校に来ていない子でとても仲が良い子がいて、学校が終わってから夕方一緒にオンラインのゲームをしたり、やりとりをしているところを見ていましたし、長期の休みの時なんかには何度かその子が家にも遊びに来てくれたりして、そのお友達の親御さんからお礼の電話をもらったりして、 私自身、「 学校に行かない」という状況を否定的に捉える大人ではなかったと思います。

むしろ、長男には、その友達にとって社会とつながるために安心して握ることができるロープのような そんな存在であるといいなと思っていたので、2人の関係性をずっと今も見守っています。

それなのに、自分事となった途端に見え方が 全く変わってしまうのです。
考えても考えても全く原因がわからないし、どうやって解決すればいいのかも全くわからず、突然、闇の中に放り込まれたようなそんな感覚でした。

で、そこから色々と考えを巡らし情報を集め、知識を深め、子供や家族と時にぶつかりながら対話を深める。そんなことを ひたすら繰り返してきた7ヶ月です。

当然、今の状況をポジティブに受け止められる日もあるけれど、本当にこのままでいいのかと言う不安な気持ちが押し寄せ、どうにもそのマイナスな気持ちを自分で消化しきれず、とても苦しい心境になったこともありました。

私自身も「学校に行かないってどういうことなんだろう」と言うことを毎日毎日考える日々が続いていたのです。

そもそも、小学校、中学校、高校と年齢によって区切られ、学ぶ内容がある程度体系化されたシステムの中に毎日生きることってどういうことなんだろうね。

そういった社会の構造的なものを見極めようとする事と同時に、今のこどもたちが置かれた状況やこどもたちがどんなことを考えているのか、学校に行かないという選択をしたこどもたちは過去に学校でどんな経験をし、どんな気持ちを抱き、どんな状況にあるのかを知りたいと思いました。

まずは、自分のこどもの気持ちがどういう心理状況にあるのかを理解したかったのです。

今子供が関心を持ち、多くの時間を使っているのがパソコンです。 特にオンラインゲームを楽しんでいるようです。

小学校6年生の夏休みの自由研究で自作パソコンを作り、そこからパソコンの魅力に取り憑かれていきました。 パソコンを作る過程をほぼ1人でやりきった事はもちろん、 パーツの購入にあたって足りない分は上手にプレゼンして自分で資金調達をしたし、自由研究 として取り組んでいるのでその詳細をまとめたり調べたりする姿は 端から見ていて感心するものがありました。

このオンラインゲームと言うのは、学校に行かなくなった子供たちの鉄板アイテムのようで、まずはゲームに対する自分の思い込みや見方を変えるところからスタートしなければいけないなと思いました。

例えば藤井聡太くん。もう皆さんよく知っているように、将棋で頭角を現し、時の人となって世の中を驚かせ続けています。

将棋に邁進するために高校を中退したことは、数年前に報道もあり記憶に新しいかと思います。

おそらく藤井聡太君も、過去は1日のほとんどの時間を将棋のことを考え、 将棋を起点に世の中を見渡して探求し、将棋を心から楽しむ生活をしていたはずです。これがゲームに置き換わった途端に、私たちはなぜこんなにも批判的な目で子供たちを見るのでしょう。

純粋に自分の見方に疑問を持ったんです。

それってゲームで子供たちがやっていることが遠く将棋に及ばないからなんでしょうか。 そもそもゲームって何がいけないんでしょう???

「将棋は知性の頭脳スポーツ」という 社会一般の認知があります。 そのため、多くの人が肯定的な眼差しを向け、棋士の頭の中で展開されている知的な駆け引きに 魅力を感じ、 自分には想像もつかないその一手に驚嘆し、娯楽のレベルをはるかに超える対戦を見せてくれる。

身体を使うスポーツや頭脳のスポーツであれば、多くの大人が割と肯定的にその状況を見てくれるのに、対象がゲームに変わるとなぜそうはならないのか。 それは、大人の私たちがゲームに向ける眼差しが、単なる娯楽や時間つぶしといった認識があるからに他ならないでしょう。

私だって本が好きだし、ゲームなんかする時間あったら本読みたいわって思います。 それは、きっとゲームは時間の浪費と捉えているからです。(実際これは私にとってそうだと言うだけで、一般認知では無いのだけれど、なかなか人はそこに気づかない)

同じように、多くの大人は、ゲームは時間を浪費するもの、そしてそれをする人間や周囲に悪影響を及ぼすものといった認知を持っているでしょう。

そんな自分の態度にも気が付きました。

そこで私は2つのアプローチを試みてみました。

1つ目はオンラインゲームに没頭する子供たちの目に映る世界がどういうものなのかを知ること、そして2つ目がゲームを批判的な目で見せてしまう原因になっているものを知ること。


次男の様子を見ていると、どうも単なる逃避としてそこに時間を投入しているようにも見えないし、何らかの意図があって、自ら選択した結果が今の状況であるように思えるのです。
これまで 大切に育み成長を温かく見守ってきましたが、やはり単なる逃げとかそういうものとは全く別の次元で今の生活を選んでいるように思えるのです。

続く)

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