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Le mal de vivre 「生きる苦しみ」を生きたバンコクのスイス人青年

ひょうろりと背が高く、どこか夢見るような瞳の30歳になったばかりというスイス人は、6歳の男の子を連れてバンコクのオフィスに現れた。
もう20年も前の8月のある日のことだ。

「小さな会社をバンコクで立ち上げたい」と、細かい資料とわたしのコンサルティングの詳細を相談しに来たのだ。

話を聞けばまるで荒唐無稽、到底ビジネスとしては成り立たない類のアイデアに、しかも資金さえほとんどない。ため息をつくしかなかった。
しかし、あまりにも熱心に語る彼にはどことなく切羽詰った雰囲気があり、結局身の上話に行きついたのは当然だったかもしれない。

20歳のときに薬の打ちすぎで身体を壊し、ジュネーブの父親から送金してもらいながらタイに流れてきて、そのまま居着いたと言う。スイスに帰っても元ジャンキーでは仕事など見つかるわけもないんだ、と細い声で彼は話し続けた。

結局10年間、スイスからの送金と屋台のわずかな売上で生計をたててきたらしい。そして、そんな長い間タイ国内を転々と渡りながら暮らしてきたため、彼にはスイス人の知り合いも全くいない。

でも、ビジネスのアイデアはある。
そして、在バンコクのスイス大使館でわたしのオフィスの住所を聞いて、やってきたのだった。

それでもこざっぱりとした身なりだったし、「薬もやめた」ときっぱり言った顔は真摯なもの。時々言葉が見つからなくて途方に暮れるほかは、優しい雰囲気をただよわせた、どこか好感の持てる青年だった。

わたしの会社は人材紹介もしていたが、残念ながら彼に斡旋するような職はない。
しかし、スイスでの年金番号から詳しい父親の住所、そしてパスポートのコピーまでそろえた分厚い書類の束に、少々驚きながら一応履歴書として受け取ったのを覚えている。

それから、何回か職探しに訪れてはわたしとたわいない話をして珈琲を飲んだ彼は、半年ほどたったある日、嬉しさを満面にたたえてこう言った。

「仕事が見つかりました。北方チェンマイの外国人補習校で、機械関係の講師になれるんです。もう面接も済ましてきました」

彼の側では、いつも一緒に来る6歳の男の子がわたしの犬といつまでもたわむれている。あとでわかったことだが、その男の子は彼の同居人のタイ人女性の連れ子で、父親はオーストラリア人だったという。

実は知り合いのドイツ人がその学校の校長であるわたしは、彼の経歴でその仕事につけるのか、と懸念していた。しかし、彼の熱心に語る言葉にどうも言い出せず、男の子がわたしの犬とじゃれあって笑う姿を見ながら黙って聞いていたのだった。

オフィスには、低くシャンソンが流れている。わたしの大好きな友達がフランスから送ってくれたCDだった。
そのひとつを聴くともなく聴いていたときに、彼がぽつんと呟いた。

「生きることの苦しみだって? これ聴いたことがある。バルバラでしょ? 苦しみっていうのは、時々やってくるものじゃないんだ。僕なんか、身体中が痛いんだ。毎日、その痛さに耐えてるんだ。歌えるなんて、もっとマシなんだと思いませんか?」

何と言ったらよいのかわからず、黙って彼を見つめていたわたしに、ふっと微笑みをもらして彼は言った。

「でも!僕は仕事を見つけたんだ。これでなんとかなります。絶対なんとかなります」

彼が帰った後、その学校の校長に電話をしてみた。守秘義務はあるが、人材紹介のビジネスとしての電話だった。老婆心だったかもしれない。でも、どうも気になって仕方がなかったのだ。答えは案の定、「とても講師として雇える経歴も知識も持っていない」とのことだった。結果は他の応募者とまとめて数日後に伝えるらしい。

電話を切ったわたしは、彼がどんな反応を示すだろうと悩みながら、車で次のミーティングに出かけた。少し行くと、彼の後姿と小さなボールを持って歩く男の子が見えてきた。
車線変更のラインにいたため彼らを拾っていくことができず、わたしは「ごめんね」と心の中で謝り、そのまま通りすぎていった。

そして、それが彼を見た最後だった。

2週間後の早朝、彼の同居人であるタイ人女性の訪問を受けたわたしは、彼が夜中に酒を飲み薬を打ちすぎたため、風呂場でつめたくなっていたこと、そして彼女が息子の手を強く握りしめながら語っている間、まだ風呂場に横たわっていることを知った。

彼女の話では、薬も密かに手にいれてはまだ打っていたとのこと。
死因はやはり薬の過剰摂取とショックによるものだったが、自殺と断定はされなかった。

結局、年老いたジュネーブの父親と大使館に連絡をとり、その後の手続きをしたのはわたしのオフィスだった。そして、その時初めて、どうしてこんなにもたくさんの資料を「履歴書」と称してここに残していったのか、とふと考え込んでしまったのだ。その資料のために、手続きと連絡が順調に行ったからだ。

彼にとって「生きる」ということは、とりあえず「死なないための手段」であったのか、そして「手段としても成り立たない場合を考えて、わたしにその後の処理をそれとなくまかせたのか」という、胸の痛む思いを取り去ることができなかった。

彼の考える「現実」と実際彼を取り巻く「現実」との落差は、わたしが考えていたよりはるかに大きかったのだ。彼の「生きることの苦しみ」は、本質的には「彼自身の現実を失うことの苦しみ」であったのかもしれない。

いずれにせよ、あの薄茶色の瞳の男の子も、彼が少しずつ教えていたフランス語を忘れ、短い間「父」であった彼自身をも忘れていっただろう。
彼があんなにも忘れようと、または変えようとした「現実」は、その時点から、今度は「彼のいない現実」へと変化していったのだった。

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