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愛する者たちは「イヤイヤながら」今日も同じベッドで寝る

「ひとといっしょに寝る」という行為は、途方もなく不自然で不便なものだ。

おお、それはもちろん「ひとといっしょに寝る」ということが愉しい場合もあるが、それは「寝る」という語彙のもうひとつの意味であって、わたしの考えている意味の場合ではない。
この「愛し合う者同士は寝室を一緒にしなければならない」というシキタリに疑問を持つひとはあまりいないが、大半の方々が何かしらの耐えがたきを耐えているのではないだろうか。

たとえば、わたしの知り合いには、ベストセラー作家ジョン・グリシャムを憎悪するひとがいるが、彼の場合それはパートナーが愛読者、それも夜ベッドで読むのを好むためである。
彼女側のサイドランプは、彼の顔面をまるで舞台のスポットライトのように照らし、目をつぶっていても瞼の裏を赤々と燃やす。
そのうえ彼女はページをめくるたびに紅茶をひとくちすすり、ソーサーにカップを置くのだ。

ぱらりん、ずずっ、がちゃん。ぱらりん、ずずっ、がちゃん。

その規則的な音は、彼が羊を数えるアタマの中の声とは、必ずしも一致していない。寝床で本を読む習慣のない彼にとって「どうやってグリシャムを殺してやろうか」ともんもんと考えることが、今度は「習慣」になってしまったわけだ。

また別の男性は、同居人のイビキに悩まされるひとりだ。
「規則的なら、まだ我慢できるんだっ」と嘆く彼によると、同居人のイビキは、あるときは歓喜の喇叭のように高らかに轟きわたったかと思うと、次には低く響く太鼓のドロドロとした効果に変わり、その後に待ちうける悲劇を予測するその響きを追って、鼻からの恐ろしげな虎の咆哮が加わり、次の瞬間、咆哮は喉にからまる咳とともに第一章を閉じるのだそう。

そして第二章においてはさわやかなピッコロの音が鼻から紡ぎ出され、しかしそれは喉からのビオラのトッカータとともに段々とホルンの重厚な音へとバトンタッチ、途中「むにゃむにゃ」という呟きに中断されながらも突如火山の噴火を思わせるクライマックスを迎えて、お尻に受ける彼からのキックとともに幕を閉じる。

第三章は…と、彼の寝不足による不満はとどまるところを知らない。

わたしの友人のひとりは、ガールフレンドの寝言が恐ろしくてたまらない、と言う。
キモチのよい眠りにひたっているときに、突然「なにやってんのよっ。いいかげんにしてよっ。」と怒鳴られたらいっぺんに眼が覚めるとのこと。
先日など「おかしいなあ。。。どうして、ここにいるんだろう??」と呟かれ、彼女の安らかな寝顔を眺めながら夜を明かしてしまった彼は、今も彼女の摩訶不思議な夢がどこかで現実と接点を持っているのではないか、との思いを振り払えないようだ。

「女性が男性よりトイレが近い」のは生物学上周知の事実だが、これが夜中に実現すると眠りの浅いパートナーの静かな怒りをかう。
もちろんアタマは覚めていても、身体はまだ昼間のような感覚で脳に従わないものだから、トイレに行く際の物音は普段の物腰とは一変した荒々しいものになるからだ。

ベッドで彼が1cmほど飛びあがるほど勢いよく起きあがり、まるで立ち去る大魔人のごとき足音を響かせながらトイレに向かい、ドアを閉めることなど忘れ、静かな小川のせせらぎの後に突然の激流フラッシュ。
どかんどかんと戻ってきた大魔人はまた彼を三度ほどベッドから浮かせながらシーツの間にもぐりこみ、次の瞬間すーすーと寝息をたてているというわけ。
愛するひとの首を締めたくなるのはこんなときだそう。

だいたいどれほど愛し合っていようと、ひとはそれぞれ違った習慣と主義と気分と嗜好をもっているわけで、しかも体感温度まで異なるから、ひとつ寝室を共有してなにからなにまで満足できるわけがないのだ。

エアコンをがんがんかけ、北極の白熊さえ鳥肌をたてるような寝室で腹を出して寝られるひともいれば、その反対に溶鉱炉のごとき暖房の中で靴下と長袖のパジャマの重装備で毛布にくるまるひともいる。

愛するもの同士が、腕枕でベッド上にいるというウルワシイ場面でさえ、実際あれほど5分とたたないうちに苦痛に変わる姿勢もない。
男性にとってそれは彼女の重いアタマの下敷きになっている腕の鬱血を招き、相手の柔らかい髪は鼻をくすぐるコヨリの束となり、眠りこんだ彼女の膝が彼の身体のドマンナカに無意識の一撃を加えるかもしれないという恐怖。
反対に、女性にとって彼のたくましい腕はコンドームにつめこんだ瓦礫の一掴みのように居心地の悪い枕となり、多少毛など生やしている胸はこれまた言語道断の歯ブラシとなって彼女の鼻にはいりこむのだ。

いずれにせよ「同衾制度」は哀れなひとびとの精神と肉体の健康に著しいダメージを与える、不自然で不便このうえないものである。
それなのに何故と言えば、まあ答えはいとも単純明解。

「パートナーを誰よりも愛していて、たとえどんな艱難辛苦があろうとも一分一秒たりとも離れがたい」のでしょう?

ああ、愛は強し。

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