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「大きなお世話」と思われても、小さな親切のために手を差し伸べたい

先日、「大きなお世話」と思われるからやめようと思っているのにオセッカイがやめられない、と書いた。

そして、「情けは人の為ならず」の誤解釈には最近の「冷たい社会」が関係しているのではないか、とも。

年取ってからは何だか人の目を気にしてもなあと思うことも多くなり、オセッカイがもっと楽になったこともあるが、何よりこれは遺伝なのでどうしようもない。

困っているひとを見て無視することの「後味の悪さ」のほうが先に立ってしまうので、さっと助けてさっと離れる。亡き母も誰かが何か落としようものなら「ちょっとちょっと、あそこのひとがアレ落としたようだから、教えてあげて」と車椅子を押す妹やわたしに言っていたし、あろうことか隣の見知らぬひとにまでお願いすることもあった。後ろを向くより近い隣のひとの袖をつかまえて言うほうが楽だからだ。いやはや。

ところが、オーストラリアではわたしのオセッカイの出番があまりない。
バスや外階段の前で困っている乳母車を押す母親や荷物の多いお年寄りがいても、さて助けようと思うと隣から横取りされてしまうからだ。それほど「手助け」するひとが多い。
車を運転していて前方の車が煙をはいて路肩に止まると、必ず誰かがその後ろに車を止めて出てくる。ボロ車の多いパースで、エンコしてしまった車を一緒に路肩まで押してやるひとも数秒で2−3人。

オーストラリアには汚点も弱点も少々首をかしげてしまうことも多々あるが、この「手助け」に関してはオーストラリア人たちの救援意識の高さに頭がさがる。

反対に、一時帰国の東京滞在でわたしがオセッカイする場面がかなりあることを振り返ると、日本は赤の他人に冷たい国なのかもしれないと改めて思う。

珈琲店で幼児が倒してしまったグラスの水を、小さな紙ナプキンで拭く若い母親。倒したグラスの音はかなり高かったのに、幼児を置いては立つこともできない彼女に手を貸すひとは誰もいなかった。結局カウンターからダスターを借りて来たのは、彼女とはかなり遠い反対側の壁際にいたわたしだ。

10段ほどの階段を手すりにつかまりながら登る老齢の女性。もうひとつの手にはカートを重そうに1段1段置きながら運んでいる。そして何人かの若いひとがすでに駆け上がっているのに、誰も彼女を見ようともしない。わたしはちょうどその階段を降りてきたので、彼女に気づき、声をかけてからカートを引ったくって2階の端に置きに行った。「急がないでいいですよー、わたしヒマなんで待ってまーす」と言いながら。

近くのセブンイレブンでも手押しカートに買った荷物を入れようとしてよろめく老齢の女性がいた。カウンターから出てくることもしないスタッフは、黙ってそれを見つめているだけだ。見るに見かねて、カートのバッグファスナーを下ろして大きなビニール袋を入れてあげ、ファスナーを閉めた。その間たった10秒。

一時帰国中の東京で近所のスーパーに買い物に行ったとき、自分が使っていたカートに杖が挟まってしまい出口で難儀している高齢の男性がいた。わたしはそこから5メートルほど離れたレジで支払いを終わったばかりだったが、その中間にいる沢山の買い物客たちは皆無視して通りすぎて行く。イライラしながら籠をそばの台に置きっぱなしにし、急いで駆け寄って「あ、取りましょうね」と杖をカートから抜き取って渡し、カートを置き場に戻し、自分の籠に戻った。1分もたっていないと思う。あまりの素早さに男性はビックリして「あ」と言っただけだ。礼などいらない。

スカートのジッパーが開いている女性には、駆け寄って「ジッパー開いていますよ」と言ってすぐ離れた。本人が1番恥ずかしいのだから、いつまでもその場にいる必要はない。一度は公衆トイレから出た女性の靴にトイレットペーパーがくっついていたことがあって、それは後ろからこちらが踏んで取ってあげた。本人は気づいていなかったから返ってよかった。
横断歩道を渡ろうとしている盲目のひとには、自分の腕に手を置くかと訊く。「いえ、結構です」と言われればそのままだし、助けを必要としていれば手を置くだろう。

実は別に「いいことをした」と思っているわけではない。

わたしだって何回かタイミングを逃して手を差し伸べなかったことがある。そうすると、無視した自分がイヤになり、あとでクヨクヨと悩むことになるのでやっているだけだ。後悔するくらいなら、オセッカイしたほうがまだいい。

よけいなお世話と思われても、わたしがほっとするんだから許してほしい。

まだまだあるが、どれも「ごく些細な手助け」だ。やったことなど自慢にも値しない、たった10秒のオセッカイだ。そして、わたしはそうした「助けの必要なひとたち」を探しているわけでもなく、ただ毎日外に出て目にしてしまうだけだ。他のひとたちに見えていないはずがない。

「手助け」は大災害後のボランティアや救援活動などの大きな目的意識を持った場合だけではなく、日常の些細な個人的手助けをも含むものではないのか。
皆で 一緒にするグループでの救援活動には手を貸すが、自分ひとりがさっと手を差し伸べることができないのはなぜなのだろう。周りにひとがいるから、目立つから、もしかしてオセッカイかもしれないからか。そうした一瞬の逡巡で機会を逃してしまっただけだと信じたい。

だから、街で困っているひとがいたら、ほんの一歩踏み出してみてほしい。そして、そっと手を差し伸べてほしい。オセッカイだと思われてもいい、あなたの行為を介して見知らぬひとが喜ぶことの嬉しさに気づいてほしい。「ありがとうございました」「いいえ、どういたしまして。お気をつけて」と言葉を交わすことの暖かさを味わってほしい。

実はこれだってオセッカイなのだが、「袖振り合うも多生の縁」に気づかないのはモッタイナイと思ってしまうのだよ、うん。

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