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捨てた庭訓

新の服は洗ってから着るのが当然だったし、たくさん服を買った日はたくさん洗濯を回す日だったし、干す日だった。子供の頃からそうしなさいと言われてきた。ピンピンだった服がびちゃびちゃの皺皺で整列している姿を眺めながら、今すぐにでも着て出たい気持ちにケリをつけて、早く乾けよの想いを募らせた。だから初めて袖を通す日は断食明けのお粥くらい沁みる。唯一の例外はお店で試着をして、それから「このまま着て帰ります」と母がピストルを鳴らしたときだけだった。ヨーイドン。これぞ正にチートデイ。新品の輝きがそのまま肌に突き刺さるようで、見て見て!私おニューの服やねんと、家に着くまでだいぶ機嫌が良かった。
さあ高校を卒業してからよく電車に乗るようになった私はそれまでの100万倍、人とすれ違うようになって、その中にオリジワが付いたTシャツの人がそこそこいることに気がついた。世間の常識だと思っていたあのルールはあくまでテイキンで、庭先どころか居間からもはみ出ることのない内輪の決め事だったのである。気がついたからといって、すぐには変えられない程度に抵抗感もあり、毎日のことでもないからなかなか改正の機会にも恵まれない律がこっちを見つめていた。数年後、就職が決まってスーツとYシャツを新調したあと、ごくごく自然な流れで新のYシャツを袋を破って、私は遂にその殻を破った。破った感覚もないような袋を捨てながら思った。Yシャツなんて洗ってから着るやつおるか。よおく考えたらこれまでにも新の服を洗わずに着てきているのでは、という疑いもしなかった事実が迫ってくる。着たらあかんと言われていたから、洗わないと着たらあかんの重しがずっと残っているだけなのだ。そうなったら、そういうことが少しずつ少しずつ生活を圧迫している可能性に気がつき始める。今となっては新のタオル以外、着たいときに着て好きなときに洗う。洗濯物の整列を見つめる時間は私の人生からは失くなった。

まだ小学生だった頃、母が照れ臭そうに言っていた。「おばあちゃんがね、寝る時にノーパンのときがあって、それが凄い嫌だったの。スースーして気持ちいい!って言ってて」小学生にする話だろうか、と7歳の私はぐるぐる考える。「でもね、今ならちょっと分かるんだよね。たまにやっちゃうもんね。これ聞いて嫌でしょう。あなたにもいつか解るときがくるよ。でもダメ、身体に悪いからね」解るときが来るのだろうか。解るときがきたら私はこれを誰に引き継げばいいのだろうか。たまにノーパンで寝ることの良さに目醒めても身体に悪いからやってはいけないなんて話を、渡せる距離にいるのは猫くらいのものだけど、この子らずっとノーパンやし。パンツを履くたび、守るべき庭訓と捨てる庭訓を選びとるようにそのことが思い出される。

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