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N番線へようこそ

柿ピーのピーナッツを残すことはもはや常識で、時代は遂にその需要に合わせて柿の種だけを封じ込めたパッケージを発明したけれど、そうやっていつか柿ピーという言葉は廃ってしまうのかもしれない。ピーナッツを媒体にして柿の種は広く知れ渡り、そして柿ピーというキーワードはいつか抹消されてしまうなんてそんなのは悲し過ぎる。「柿ピー買ってきて」と言われて、ファミリーパックを買って帰ったら「ピーナッツ入ってるじゃん」なんてことが日本中で日常的に行われているのだ。柿の種にはピーナッツが1番相性いいと言った人は多分いないのに、それは切り昆布でもさきいかでも良かったのに、パピプペポのつく通称は大衆に愛されるらしいなんて、そのキャッチーさに飛びついた罪が今になって因果応報である。そんなことよりも、私は柿ピーについて誰にも言ったことのない秘密がある。それは恐らく自分がマジョリティだと確信しているからこそ内緒にしてきたもので、もしもこれがみんなも同じことを考えていて、そしてまたみんなもおんなじように少数派であると考えて隠されてきた事実だったとしたら。
柿の種が(もはやピーがいてもいなくても構わない)目の前に出され複数名で分けるようなとき、改めて書くと本当に恥ずかしいのだけれど、私は出来る限りの澄まし顔で必死に一粒一粒を視力0.9の眼でスキャンして、自分好みの柿の種をさりげなく確保する行為に集中する。大半がツルツルで艶々の三日月の中から好みの個体だけを目で選り分けていく。好みのというのは大きく分けて二通りあり、まずひとつめは木の幹の窪みに似た弾けたような裂傷を月の中央辺りに持っているタイプだ。何故だかその傷の部分は大抵、醤油の色が濃ゆくなっていて、そのことがとても得した気分にさせてくれるのである。ここまで説明するともう一つのパターンもお分かりかもしれないけれど、それは弾けた後にとうとう半分に分割してしまっているタイプだ。これもまた切り口の醤油色がうんと気分を上げてくれる。ここで間違ってはいけないのが運搬中の衝撃で割れただけの柿の種で、これは割れ口に醤油の色はついておらず、寧ろ味気のない白い煎餅の空洞になっている。背中だけでは見分けられないので要注意だ。さて、長々と柿の種に固執して話してきたけれど、こういうこだわりとも言えないようなマイルールはお菓子からお菓子へ、食べ物から食べ物へ、果てはなんでもない日々の選択にも横展開されていった。いちばん近所でいうと、ポテチは小さい丸の方が味のついている面に対して生地が少ないので、大きな1枚を食べるよりも得していると考えている。ただ割れて細かいのではなくてまん丸なのに小さいというのがポイントなのだけど、これについては特段の理由はない。肉野菜炒めや生姜焼きも、お皿に盛られた豚バラのうち小さい切れ端で脂身の割合が多い方がよい。大皿から取り分けるときには、そういう好みの豚バラが目に映るたびに箸が迎えに行ってしまうので、まだ取り皿の上に残っているのに!という行儀の悪い状態になるのだけれどどうしても止められない。はたまた電車で席に座るときには銀色の細い手摺りの隣の席でないと、なんとなく損したような気がしてしまうという症状も出始めており、これに関してはその感情に行き着くロジックが自分でも全く解っていない。こうして挙げたような価値観は少数派であると確信しているはずなのに、常に誰かと競うようにその輝く選択肢を我先にと掴みにいく自分がいる。ただ無意識の意識で誰かと戦っているのだ。

何も考えずにホームに立っていると、思っていたよりも音を立てずに電車が滑り込んでくる。降りてくる人が多くて乗り込む人も多い渋谷で、まずは勤めて優雅に降車客に道をあけ、目の玉だけで銀の手すりの横の空席に目星をつける。大体降りたところで、早足には見えないスピードに、ほんの少しだけ歩幅を広げた得意の歩き方でお目当ての席を目指す。席の前まで到着したらもう安心、更に動きをおっとり見せて鞄を前に抱えながら着席する。右側にちょうど銀の手摺りがあって、なんとなく顔を向けると、縦にビヨンと伸びた自画像がこっちを見ている。この上なく得した気分だ。

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