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太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の1)

 さて、『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像のページの裏に解説文が印刷されている。
 今回は、後半の3枚の絵を紹介して完結の予定であったが、4枚目の紹介のみにしたい。したがって(下の1)とする。
 
 また、(中)について、読者の方から指摘をいただいたので、最後にそのことを記しておく。


1 潮風

 4枚目は、オランダのマルケン島の衣装の女性を描いた《潮風》である。

「あら、いぢつちや大変よ。それはお祖父様じいさまのお大事のおらんだ、、、、古渡こわたりですから!」
 その時ちょっと手をかけた藍絵の皿などをこう云つた調子で、いそいでお母様に取り上げられたりした記憶を、その幼年の日の思ひ出の中にお持ちになる方が、あなた達の中には、たぶん、かなりにおありのことゝ思ひます。
 そういつたように、もうずいぶん前から、言ひ慣らされ聞き慣らされして来た名の国でありますだけ、それだけ、オランダは私たち日本人にとりまして、何かにつけて親しみの深い国でありました。
 それに、すこし田舎へまゐりますと、その風俗がまだ昔そのままで、まるであの南蛮屏風(南蛮屏風とは維新前の例の黒船騒ぎの頃に、日本の画家がその「おらんだ船」を写した幾双かの屏風に与へた名称です)から抜けて来たかと思はれるような服装の人が、其処にあちこちしてさへ居りました。
 屏風絵の南蛮人にそぼてばかたゞ仮初かりそめの雨もなつかし

《潮風》解説  太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)

 「古渡」とあるのは、昔の、狭義では、室町時代以前に外国からわたってきた織物や陶磁器を指すことばである。

 狩野内膳が描いた南蛮屏風について、『国史大辞典』の解説は次のように述べている。

南蛮屏風とは、南蛮人つまり16世紀後半から17世紀前半にかけて来航したポルトガル系の外国人を画中に描く屏風を、広義においては総称する。したがって、当然ながら鎖国以前の17世紀前半に描かれたものが多い。狭義では、日本の港に碇泊する南蛮船と港町風俗を描くもので、ときに異国の情景を含むものをも指し、これらは南蛮人渡来図(来航図・交易図)などと呼ばれることもある。

*ジャパンナレッジパーソナル版『国史大辞典』(吉川弘文館)より引用


 南蛮屏風とは、上記に言うように、「ポルトガル系の外国人」を描くものを総称していたが、太田が述べているオランダ人をあつかったものは、時期も「維新前の例の黒船騒ぎの頃」とされているので、「南蛮人渡来図」に分類されるものなのだろう。

《潮風》   太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)

 《潮風》に描かれた衣装については、太田は次のように記している。

 この絵の服装なども、またそうしたたぐひの一つで、これはアムステルダムから、急げば日帰りでも行つて来られる距離にあるマルケンといふ島のわかい女の姿であります。———いや、わかい女の姿と申しましたが、本統は、すべての女の姿であります。ごく幼い娘の姿でもあり、また年とつた女の姿でもあります。何故なら、奇妙じやありませんか、この島では、お祖母さんから娘から孫まで、みなすべて同じ服装、同じ形の同じ種類の同じ色のものを着てをりますから。——かなりな年配でゐて、それでやつぱり耳のあたりに初々しい髪を垂したり派手な衣をつけたりした女が、幾人かの娘たち(年齢によつてたゞ順々におほきさが縮まったゞけの同じ服装の娘たち)と一しょに、木靴サボウの音をカラコロさせてをるのなどを見ては、まるでそのひとが、その「過去の日」そのものの生きた姿を、年代順に引つれて歩いてをるのを見るような気がしましたよ。

《潮風》解説  太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)

 マルケン島は、オランダ西部のマルケル湖にある小さな島である。漁業を生業とする住民がほとんどであった。

 太田が描写しているマルケン島の民俗衣装は、杉野学園衣装博物館というサイトのデータベースにも「23.オランダ民族衣裳」として見出すことができる。

 解説を引用しておこう。

マルケン島 年代不詳
 この衣服は、オランダ、マルケン島の女性の民族衣裳。黒のスカート、赤・白・黒のストライプのシャツに黒のベストを着て、青いエプロンを着けている。ベストは黒のフェルト地に赤・黄・緑などの毛糸で刺繍されており、家柄や年齢などによって、その色使い、模様が異なるといわれる。

杉野学園衣装博物館データベース「23.オランダ民族衣裳」
https://www.costumemuseum.jp/collection/minzoku/m25.html

 データベースの絵と、太田の絵は、スカートの色が異なるが、衣装の構成は同じである。

 太田は、その家の主婦に頼んで、ある民家の中を見せてもらう。

 また、私は其時そのとき、ぶしつけに頼んで、さうした人達(ほとんど全部漁師です)が棲んでをる家の内部を見せてもらひましたが、それはちよつと趣のあるものでした。 歓迎の心持を表はすためでせう、その家の主婦おかみさんが自前の前懸まへかけを脱して、さつと門口へ敷いたその上を通つて内部へ這入りますと、その客間をも食堂をも居間をも兼ねた室は実に綺麗なものでした。煖炉の上は、この国の特殊の藍の匂ひの高い陶瓦とうぐわで充たされてをりましたし壁には美しい色の飾り皿だの、古風な木彫の時計だの、石版の風景画だの、家族の写真だのが、まるで骨董店のようにかけ連ねてありました。丁度食事どきで、その一隅の卓では二三人の家族が静にフォークを動かしてゐましたので、私はかうして不意の闖入者ちんにうしやとして異国人エトランゼの身をそのなごやかな空気の中へ位置させたことに多少の悔いを感じながら、しきりに止める主婦の好意を強いて辞して、そこそこ(引用者注ー原文では後半の「そこ」は「く」の字型の繰り返し符号)に外へ出ましたが、とばりを排してそれをまで見せてくれた寝台の、そのよく整理せられた蒲団のたぐひのすがすが(引用者注ー原文では後半の「すが」は「く」の字型の繰り返し符号)しさと、極度の驚異を表はしてぢつと此方こちらを見つめた七つ八つの女の子の瞳とを、その後しばらく忘れませんでした。

《潮風》解説  太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)

 太田は残された写真から判断すると、それほど身長は高い方ではない。小柄な東洋人が不意に訪れてきて、その家の娘は驚異の瞳を向けた。
 主婦が示した歓待の振る舞いには、なにか文化的な背景があるのだろうか。

 谷井類助『欧洲見物所どころ』(昭和8年6月、大同書院)という本があって、マルケン島を訪ねたことが記されている。時期的には、太田の訪問より約10年ほど後のことだと思われるが、太田の場合と似たことが記されている。谷井が土産物店に寄ると、そこの主婦が家を見ていかないかとすすめてくる。谷井は風景に見るべきところもないので、来訪者の多くは「土地の風俗又は室内の模様などを、興味深く眺めて帰るものらしい」と記している。主婦も、そうした先例から自宅に招いたのではないかと、谷井は推測している。

 家の中も太田の描写との相似を見出すことができる。家の中はこぎれいにしてあり、「客室には壁間に、色々の陶器皿を多数飾り附けてゐた」という。ちがうのは、谷井が魚油の臭いに耐えかねているところである。

 マルケン島では木靴を脱いで家に入ったという。
 主婦が前掛けをはずして敷いてくれたのは、ここにクツを脱いで、という意味だったのかもしれない。


2 《シシリイ島の初夏》補足


 読者から太田三郎のシシリー島旅行について、『美と善の歓喜』(昭和17年9月、崇文堂)に「シヽール島の「希臘」」という文章が収められているという指摘をいただいた。
 この本は、考証エッセイを集めたものとして認識していたが、欧州の旅に取材したものも含まれている。国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信資料として参観することができる。

 調べると、「シヽール島の「希臘」」の初出は雑誌『中央美術』の第14巻第3号(昭和3年3月)、第5号(昭和3年5月)、第6号(昭和3年6月)に、上・中・下の3回に分けて連載された。ただし、タオルミナから眺めるエトナ山の眺望にふれているのは単行本化したときに末尾に付加された部分である。

 太田は、単行本で付加した部分に次のように書いている。ルナンがタオルミナの劇場遺跡を激賞していることを紹介した後の記述である。

じつさい、廃墟を埋めて生ひ繁るサボテンや橄欖樹やパルミエなどが、さやさやとした緑の層をずり下らせて行つて、やがてそれが尽きるあたりには、紺碧の海が長汀曲浦の形をなして静かに眠つてゐ、その向ふに拡げられた空いちめんに、ほのぼの(引用者注ー原文では後半の「ぼの」は「ぐ」の字型の繰り返し符号)として雪を頂いたエトナ山が浮き上つてをるすがたは、すこし拵へすぎたかと思はれるほどに整つた眺めであつた。

太田三郎「シヽール島の「希臘」」 『美と善の歓喜』(昭和17年9月、崇文堂)所収

 「橄欖樹」はオリーブの誤称。「パルミエ」は椰子の木。

 植物が作りなす緑色の層を下にたどるとそこに紺碧の海があり、その向こうには空が広がっている。
 挿絵を紹介しておこう。

太田三郎《タオルミーヌの劇場址》
太田三郎「シヽール島の「希臘」」 『美と善の歓喜』(昭和17年9月、崇文堂)所収
*筆者架蔵本による。

 昭和に入ると、太田のスケッチは、線の少ない略筆画のような感触を増してくる。

 太田がエトナ山を見て想起した静岡清水の龍華寺から見た富士山の眺望をとらえたパノラマ絵葉書も紹介しておこう。

2枚続きパノラマ絵葉書 推定明治末から大正初期
「観富山龍華寺ノ眺望 右ハ三保ノ松原 左ハ田子浦清見潟」

 朱印は、「天下第一観」「龍華寺」とある。



*ご一読くださりありがとうございました。

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