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太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(中)

 さて、『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像の裏に解説文が印刷されている。
 今回は、前半の3枚の絵を紹介することにしよう。

 原文は総ルビ、すなわち、すべての漢字にふりかながうってあるが、引用に際しては適宜取捨した。



1 アルサスの女

 まず、画像をみていただこう。
 印刷は三色版であるが、三色版については稿を改めて説明することとしたい。

太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)《アルサスの女》

 貼り込みといって、図版は別に印刷されたものが、厚手の凹凸のあるモスグリーンの紙に貼り付けられている。
 グラフィック印刷の技術が進展し、文字と画像が併存する版下を作成できるようになると、こうした貼り込みはなくなっていく。

 解説文は次のようなものである。

 永いあひだ 独逸にられて居たアルサス州とローレーヌ州とが、さき頃のあの欧洲戦争のおかげで、また仏蘭西のものになつたことは、その当時の新聞などでご覧になつて、たぶん未だ覚えていらつしゃいませう。
 これはそのアルサス州の女を描いたのです。

 ご覧のとほり、この娘さんは、すつかり大きいリボンで出来て居る黒い被物かぶりものだとか、ふさの長い肩掛だとか、また派手な配色いろどりの前掛だとかいつたような、そういつた古風なものでわかい匂はしい体を装つて居りますが、これは、このアルサス州の女の人達の、すべての上に古くから伝はつて来て、そうして今もなほ、そのままに残つて居る特殊な風俗の、昔ゆかしい姿なのでございます。
 州の都府をストラスブールといひます。それが、これもまた昔をその侭に、十六七世紀ごろの建物の光りのする木の柱などを其方此方そちこちに見せて居たりするようなごく古風なところでありました。ところで、そうした街の中で、このような服装の女の人達が、何か知ら軽く笑つたりしながら、鮮やかな色彩をちら ちら(引用者注ー原文では後半の「ちら」は「く」の字型の繰り返し符号)させて居るその情調には、他の全く近代化された都市などでは、とても触れることの出来ないほのぼの(引用者注ー原文では後半の「ぼの」は「ぐ」の字型の繰り返し符号)とした趣きが漂つて居るのでありました。
 ——しかも、そうしたなごやかな町の姿や和やかな風俗の、それと共に、人の心にもきはめて暢気のんきなところがありました。ちよつとした笑ひ話を申しませう。ある時、私が其処そこの或る絵葉書屋で絵葉書などを買つて居りますと、をりから店に来合せて居た二三人の土地の人達が、珍らしがつて色々はなしかけたりしました。が、するうちに、その中の一人が、飾窓にあった石膏の処女裸身像を持ち出して来て、戯談じようだんはんぶんに、これを求めて行けなどと言ひ出しました。けれど其時そのとき、私はまだその先、一二週間ばかりを旅で暮さねばならない体でした。
「はあ、だけれど、こんなもろい壊れやすいものなんか持つては、とても方々廻られやしませんから……」
 が、土地の人達の日は、頗る長い。
「いゝや、脆いことがあるものですか。それにまあこの像のこの娘の美しいことをごらんなさい。」
 こんな調子でなほ、好奇心の顔を私にめぐらさせました。そうして、やがて私が、
「えゝ、それはそうですねえ。ですけど童貞ヴイルジニテは、美と同時に、また脆いものぢやないでせうか!」
 と言つたこの言葉で大笑ひをしながらも、なほ何かと饒舌おしやべりをして、しばらくは私を放しませんでした。
——まあ、言つてみると、こう言つたような気分がみなぎつた土地なんですね。

 フランスの小説家アルフォンス・ドーデーによる短編小説集『月曜物語』(1873年)には、アルザスを舞台にした『最後の授業』という作品が含まれている。フランツという少年の視点から、普仏戦争に敗北し、明日からフランス語の授業ができなくなることを嘆く老いたアメル先生を描いている。
 アメル先生は授業の最後に「フランス万歳(Vive la Flance)」と黒板に大きく書く。
 日本ではこの小説は教科書に収録されて長く使用され、国語愛の重要性を扱った教材とされてきた。
 
 この小説からはアルザスの住民の多くがフランス語を母国語としているという印象を受けとる読者が多いだろう。
 しかし、言語学者の田中克彦が『ことばと国家』(1981年11月、岩波新書)等で、アルザス地域ではアルザス語(古代ゲルマン語のひとつであるアレマン語に近い)が話されていることを指摘し、民族国家のナショナリズムと言語を単純に結びつけることのあやうさを浮き彫りにした。
 フランツ少年は、アルザス語を母語とし、アルザス語に近いドイツ語もできたかもしれない。フランツ少年がもし、もし将来の必要性を感じてフランス語を学んで使えるようになれば、母語アルザス語、ドイツ語、フランス語の3つの言語の使い手となったはずである。大人たちにはそうした人も存在していただろう。単一の言語と、ナショナリティを結びつけるのがいかに不適切な考えであるかがわかるだろう。

 やがて『最後の授業』は教科書から消える。この間の事情は府川源一郎の『消えた「最後の授業」―言葉・国家・教育』(1992年7月、大修館書店)が詳しく記している。

 太田は渡欧に備えてフランス語の勉強をしていたので、ここではフランス語で会話をしていたはずだ。
 「童貞」のルビは、virginitéというフランス語を念頭に置いており、それは男性に限ったものではない。
 太田が美(beauté)が童貞(virginité)と同様にもろいものではないかと言ったことを住民たちは喜んだ。太田が、La beauté et la virginité sont deux choses fragiles.というようなことを語ったので、地元民たちはこの東洋人はおもしろいやつだと、思ったのかもしれない。
 

2 シシリイ島の初夏

 2枚目の絵は《シシリイ島の初夏》である。

太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)《シシリイ島の初夏》

 解説文は次のとおりである。

 夕月の影がほのかにヴエスヴイオの噴烟ふんえんから透けるころに、ナポリの港から船出すると、その夜もあけて、あたりの海いちめんが薔薇いろに匂ふ時分には、もうその山々が、はつきりと望まれるほどの距離にあるのですけれど、でも、シヽリイの島は、その風情が、すつかり、その本土と異つて居ります。
 欧羅巴ヨーロツパ、といふよりも、いつそ亜弗利加アフリカですね。 亜弗利加の曠野こうやのうら淋しい感じですね。しかし、それでゐ
て、またどこかに、しつとりとした南欧の空気の甘い憂欝がにじんでゐるところに、ほのぼのとした趣があります。私が其処そこへまゐりましたのは、ちやうど五月の末でしたが、その頃はもう、亜弗利加の熱沙ねつさの上を滑つて来るシロツコ (風の名)が、かなりの熱さを島中に被ひかぶせてゐたのでありまして、 をりから、路傍の檳榔樹パルミエの葉蔭などに佇んだりする私の、うつとりとした胸は、ふと耳にする遠潮とほじほのかすかな音にも、なほ遙々と来た旅の想ひをそゝられずには居られませんでした。

 しかも、その島の女たちの匂やかさ、旅人の眼にもまた強い魅惑シヤルムを感ぜずには居られません。姉さん被りに赤襷あかだすき、と云つた際の服装なりでせう、白い布また赤い布などで頭部を被つたその中から、情熱的パツシヨネルな瞳を輝かせて、ゆたか胸乳むなちのあたりの線を、あらはに薫らせた短かい上衣の下へ、うす霞のやうな色のジユツプをゆらゆら(引用者注ー原文では後半の「ゆら」は「く」の字型の繰り返し符号)と揺曳ようえいさせた姿が、丈の高いサボテンの間などをちろちろ(引用者注ー原文では「ちろ」は「く」の字型の繰り返し符号)する風情はそれはもう何とも云はれませんね。
 或夕暮など、小高い丘の上の希臘ギリシヤ廃祠はいしの石柱にもたれて居ましたら、あたりに繁る橄欖オリーブの林の中から、ふとまた、さうした服装の女が、頭に細長い素焼の水甕を載せて出て来たりもしました。——やがてその出て来た繁みの中へはいつて行つてみると、其処に、ちろちろ(引用者注ー原文では後半の「ちろ」は「く」の字型の繰り返し符号)と噴き出る小さい泉が、夕月の影をつゝましやかに砕き砕き(引用者注ー原文では後半の「砕き」は「く」の字型の繰り返し符号)して居りました。しばらくして、たちまち林の外で、水晶のやうな唄声が起りましたが、その主は、たぶんさきの水甕の女だつたでせう。

 この絵は、やはりさうしたたぐひの女の一人二人です。うしろに遠く見えますのは、かの名高いエトナ山で、つまりこの絵の場所は、島中でも、最も眺めのすぐれたところとせられて居るタオルミナの一部を取ったのです。碧い海が緑の丘の下で白い笹縁ささべりをとつて、幾曲り幾曲り(引用者注ー原文では後半の「幾曲り」は「く」の字型の繰り返し符号)するとこの彼方の空に、このエトナの山が、ぼんやりと浮く調子は、日本ならばまあ、東海道方面の富士と云つたところですね——貴女あなたは駿河の竜華寺りうげじの高山樗牛ちよぎうのお墓へお参りになつたことがおありですか。そこから清水湾を距てて富士を御覧になつたことがおありですか。つまりあれを、も一倍大きくしたと云つたやうな景色ですね。

 ヴェスヴィオはナポリ東方にある二重式火山。文章から、太田がナポリ港からシシリー島に渡ったことがわかる。

 「夕月の影」というのは、夕方の月光をさしている。

 「シロツコ」は、北アフリカから南イタリアに吹く、暖かく湿った南東風のことである。
 檳榔樹といい、サボテンといい、植生は熱帯に近い。

 「ジユツプ」は、jupeでスカートをさしている。図の2人の女性が身につけているものだ。太田は、ファッションという風俗につねに関心を示している。

 シシリー島は、イタリア半島の南端、長靴の形の先に位置する、地中海のシチリア島の英語名である。シチリアは1861年にイタリア王国に編入された。現在はイタリア共和国の自治州で、レモン、アーモンド、ワインの産地として知られる。

 タオルミナはシチリアの都市で、メッシナ地方と、カターニア地方の中間に位置している。観光地として知られ、ギリシア時代の劇場遺跡がある。そこからのエトナ山の眺望はすばらしい。太田が出会った2人の女性がタオルミナの丘に描かれ、背景にエトナ山と地中海が配されている。
 太田はただ見たままではなく、構成的に絵画を描いていることがわかる。

タオルミナから見たエトナ山

 タオルミナから見たエトナ山になぞらえられるのが、清水の龍華寺りゅうげじから清水湾を距てて見える富士の眺望である。
 龍華寺は寛文10年開山の日蓮宗の寺院で、静岡市清水区にある。富士の眺望がよいことと、明治期に活躍した評論家高山樗牛ちょぎゅうの墓があることなどで知られている。

 上記、龍華寺のサイトのヘッダー画像に、寺内からの富士の眺望の写真が使われている。また、樗牛の墓についての解説も詳しい。
 ヘッダー画像では、富士は見えるが、都市化した市街で湾は見えにくくなっている。

 太田が「も一倍大きくした」と言っているのは、エトナ山のほうが近い距離にあり大きく見えるためである。

 「貴女あなたは」という呼びかけは、この小冊子が雑誌『婦女界』の何らかの記念品であり、女性読者を主な対象としていることを、念頭に置いたものである。

3 スペイン晩凉

 3枚目の絵は《スペイン晩凉》である。
 「晩凉」は夕方からの涼しさのことをいう。

太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)《スペイン晩凉》

 解説文は3段落に分かれているが、段落ごとに紹介することとしよう。

 茶色の髪や碧い眼ばかりの間に、魂を迷児まいごにさせてゐた私ども日本人の旅人にとりましては、スペインの女がつ美しさほど強く、その郷愁ノスタルジイを搖がさせられるものはありませんでした。黒い瞳や黒い髪や、そしてほとんどどの女もそれをいぢつてをる東洋的オリエンタルな扇子などが、これまたオリエンタルなすだれなどの蔭に透けたりするのを見て、かつて横浜や神戸の波止場で、桃いろのテーブの端からじつ、、甲板デツキを見上げた顔などを思ひ出さなかったものはこの国へ旅した人の中で一人もなかつたことでせう。 

 スペイン女性は黒髪、黒い瞳で、東洋風の扇子を手にしていて、日本からの旅人はそれを見てノスタルジアをかきたてられないわけにはいかない、というのである。
 太田も横浜からの旅立ちを見送ってくれた妻を想起したのにちがいない。

 ところで、そう言つたやうな黒い髪の黒い瞳の女たちが、やがてこの国の夏の長い一日も 、ようやく暮れはじめるころ、日中のたゞれるような外気を侵入させないためにすつかり閉した鎧戸よろひどを、やつと開けひろげて、ほつとして、うす水色の晩凉ばんれううちへ、ゆだつた体を投げだすころになりますと、其処そこの狭い往来——出来るだけ多量に「影」を所有したいとする熱国ねつこくの都市の町幅は、どこまでも狭いものです。もし貴女あなたが、多少の誇張をゆるして下さるならば、そこに町をへだてて、住む恋人同士は、互の窓からすこし体を乗りださせることによつて、容易にその熱い手をりあふことができるだろう、とでも申しませうか——その狭い町の歩道トロツトワールで、その黒いしや被衣マンチラ(みなそれを頭からふわりとかぶつてをります)を、折柄のすこしの風にゆらゆら(引用者注ー原文では後半の「ゆら」は「く」の字型の繰り返し符号)させながら彼方此方あちこちしたり、また、鉢植の棕櫚の緑に彩られた窓などで、その思ひ切つて後へ突き出したまげへ高くした櫛の照りを匂はせたり、その華奢きやしやな手で弄る扇の軽い影を、ほのかに搖がせたりするおもむきは、それはもう、たとへようのない、妖冶コケツトリーに充ちたものでした。——

 暑さがきびしい地域では、夜に人びとの活動が活発になる。

 女性の服装に特徴があって「黒いしや被衣マンチラ」をかぶっている。
 「紗」は、目が粗く、透けて見える薄い織物のこと。「被衣マンチラ」はmantelloで、マント、ケープのことをさしている。図版では透けて見えるさまが描かれている。後ろに突き出るように高く髷を結っている。背景には棕櫚の木と、噴水が描かれている。

 さういへば、このスペインの都市の夏の夜、ことに南方のセヴイラ辺の夏の夜(ご存じでせう、セヴイラは、あの「カルメン」の舞台になつたところです。カルメンが勤めた煙草工場や、殺された闘牛場などは、まだそのまゝに在りますよ。)は、それがまた、何ともいへず風情ふぜいの深いものでした。……
 ……そうこうする中に、夜の色がだん濃くなつてゆきますと、町中のすべてが、カスタゲット(てのひらの中で鳴らす小さい木の楽器)の音で充たされてしまふのでした。そうして、男をんなの往来ゆきかひが、なほ、だんだん(引用者注ー原文では後半の「だん」は「く」の字型の繰り返し符号)に繁くなつてゆきまして、さらに何処からともなく、南欧特有の奔放な、併し遺瀬やるせのない唄声が漂つて来たりしました。——この国のすべての男をんなの楽みは、おそらくは、その一刻でせう。烈しい日射に一日中虐げられて、閉された鎧戸のうす暗い中へ封じ込められてゐた人達がはじめて本統の自分の体の上に解放せられるのは、実際、夜ばかりですもの。で、するうちにもなほ、芳烈な飲料を飲ませるようなたぐひの家の中からは、軽い踊りの手拍子が聞えて来たり、往還からもそれが覗かれる。家々の内庭パチオの銀色の噴泉のあたりからは、熱帯植物の香気が、人の感能を極度に興奮させずにはおかない様な烈しさを含んで襲ひ寄つて来たりするといつたような、そういつた調子で夜はいよいよ(引用者注ー原文では後半の「いよ」は「く」の字型の繰り返し符号)更けていつても、人通りはなほいよいよ(引用者注ー原文では後半の「いよ」は「く」の字型の繰り返し符号)こまやかになつてゆくばかりでした。
 紺青こんぜうの光の底の歌の渦うづまき乱れ夜は更けてけり

 「セヴイラ」はセビリア(Sevilla)、スペイン南西部のアンダルシア地方の都市。
 『カルメン』は、フランスの小説家プロスペル・メリメの1845年の小説。
 伍長ドン・ホセがたばこ工場で働くカルメンに魅せられ、やがてとんでもない悲劇に導かれていく物語。

 『カルメン』はジョルジュ・ビゼーの作曲でオペラ化され、1875年にパリで初演された。カルメンはドン・ホセに命を奪われることを予期していた。〈宿命の女ファム・ファタル〉としてのカルメンの名は全世界に広められることになった。

 「カスタゲット」はカスタネット(castanet)の誤記である。

 「内庭パチオ」はスペインの邸宅の、塀に囲まれた中庭(patio)をさす。

 絵と文章を比較すると、文章の中に出てくる要素が1枚の絵の中にうまく配されていることがわかる。
 「黒いしや被衣マンチラ」を身につけた女性。棕櫚の木。噴水。「内庭パチオ」らしい空間。

 夜がふけてさらに高まる人びとの歓楽を描いて最後には1首の短歌が添えられている。

 「紺青こんぜうの光の底の歌の渦うづまき乱れ夜は更けてけり」。

 深い青の夜の空間に楽しみの光が満ちて、その底に歌声が渦巻くように響き、更に夜は更けてゆく。

 絵は文章の要素を構成的に取り入れながらも写実的であるが、歌は混沌とした音楽と色彩の充溢を抽象的にとらえている。

*「下」に続く。

*エトナ山の図版は写真ACのフリー素材を使用した。


*ご一読くださりありがとうございました。

 


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