見出し画像

水彩画を木版にする

はじめに

 明治の雑誌には、木版や石版の図版が掲載されている。思いつくままに、それらを紹介していこうと思う。
 雑誌は、すべて古書として手に入れたオリジナルである。撮影技術は素人レベルなので、向上努力の余地はあるが、臨場感のある図版をあげていきたい。

『光風』創刊号から 《月の出》

 雑誌『光風』は白馬会の機関誌。


『光風』創刊号 1905年5月


 創刊号(1905年5月)に掲載されている木版画を紹介しよう。『光風』の目次には「月の出(水彩画木版) 長原孝太郎」とあり、目次末尾には「木版彫刻 伊上凡骨」と記されている。


長原孝太郎《月の出》 『光風』創刊号、1905年5月 彫刻伊上凡骨


 掲載された木版画を見ると、右下に「止水」というサインがある。止水は長原孝太郎(1864〜1930)の号である。長原は白馬会の一員であり、黒田清輝に絵を学んだ。長原は『明星』の主宰、与謝野鉄幹に藤島武二らを紹介したことでも知られている。

 まず版数を数えてみよう。月は白抜きで色はない。次に薄暮の空がぼかしの効果を使って摺られている。地平線に近いところが明るく、上方に向かうと薄青が濃くなっている。おそらく1度の摺りでぼかしが表現されているのだろう。
 その次に、塔を含む地平線の部分が摺られている。最後に、樹木と前景の柵や地面が濃い青で摺られている。ぼかしの部分が1版だとすると3度摺りということになる。
 目次に「水彩画木版」という矛盾を含むような言い方がなされているが、それは水彩絵の具による重ね描きの筆のタッチを木版画によって表現しようとしているということを示している。
 

名匠、伊上凡骨いがみぼんこつ

 彫りを担当したのが伊上凡骨(1875~1933、本名、純蔵)である。
 伊上凡骨は、旧阿波藩の笛手の家に生まれ、上京して幕末から続く木版彫師の名門、初代大倉半兵衛のもとで修業した。
 多色刷り印刷の手段が限られていた明治後期にあって、凡骨は第一次『明星』や白馬会機関誌『光風』で木版彫刻の腕をふるった。水彩画や油彩画、パステル画などさまざまな種類の原画のタッチを多色木版画に再現した。

 興味深いのは、版画の特性を主張するために「水彩画木版」が掲載されたのではないということ。水彩画を精密に複製する手段として、木版画が使われているのである。つまり、木版は目的ではなく手段である。
 しかし、複製の手段である木版に〈版の表現〉としての可能性が芽生える。とても逆説的な事態であるが。

 水彩画では背景を薄塗りして、その上に樹木や柵など風景の要素を描いていく。それを木版では、版を重ねることによって表現している。この版の重ね方は伝統的な技法とは一味違うものではないか。
 水彩画の同じ色調の濃淡の変化は、木版のぼかしの手法で表現されている。

版の重ね方

 木の幹と地面の表現を見てみよう。

木の幹と地面の部分


 前景の地面と木の幹の表現は、水平の筆の運びと垂直の筆の運びを、彫りの方向によって再現していることがわかる。
 最初に摺られた下地の薄青が透けて見える彫りをすることで、樹木と地面の違いが表現されている。

 次に樹木の葉の表現について見てみよう。

右の部分の拡大、葉の表現

 最後に摺る濃青の版で樹木や葉が表現されているが、微妙な隙間を彫ることで水彩の筆触が再現されている。摺師の名前は分からないが、かなりの技量がいるだろう。
 これは推測であるが、凡骨のこうした版の重ね方は、多色石版に影響を与えたのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?