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画文の人、太田三郎

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このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
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#絵画

太田三郎展の正式名称決まる!

清須市はるひ美術館で2024年11月に開催される太田三郎展の正式名称が決まっています。 <企画展>清須ゆかりの作家 太田三郎 博学多彩の画家として 2024年11月1日~12月25日 いいですね!

太田三郎の画集『ひこばえ』の美本が届いた!

 2009年頃からテレビを見ることはなくなったが、配信で流れる番組が目に入ることはある。  戦前をあつかったドラマで、本棚が映るとたいていは、茶色っぽい本が収められていることが多い。  待て、待て、それは間違ってはいないか。  戦前は,今から見て昔、だから本棚の本は古本のような昔の本っておかしくないか。  本棚の本はドラマの時代の新刊である場合が多いのだから、それは新しい美本でないとおかしいのではないかと思うのである。  どうやら世間では、昔の本というのは茶色っぽい古本だ

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の3・最終回)

 今回が最終回である。  太田三郎の『欧洲婦人風俗』は、太田が渡欧した際に見聞した女性の衣装について、6枚の三色版による図版と、解説文によって示した小冊子である。  版元の婦女界社は、『婦女界』という女性雑誌を発行していた。雑誌『婦女界』の何らかの懸賞当選を記念する冊子であった可能性が高い。 1 カンパニアの野で  6枚目の絵の題は《ローマの夕》である。  解説文は次のように、まず、ローマのカンパニアの野について記している。  「鴎外さんの「即興詩人」」とあるが、

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の2)

『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像のページの裏に解説文が印刷されている。  今回は、5枚目の作品を紹介したい。 1 ギリシヤの余薫  さて、5枚目は《ギリシヤの余薫》という作である。  解説文は次のように始まる。  ドーデーはフランスの作家アルフォンス・ドーデー(1840−1897)のこと。「アルルの女」は、短編小説集『風車小屋だより』に収録されていたが、1872年に劇化されてパリのボードビル座で上演された。ビゼーが音楽を付け、ファランドールやメ

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の1)

 さて、『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像のページの裏に解説文が印刷されている。  今回は、後半の3枚の絵を紹介して完結の予定であったが、4枚目の紹介のみにしたい。したがって(下の1)とする。    また、(中)について、読者の方から指摘をいただいたので、最後にそのことを記しておく。 1 潮風  4枚目は、オランダのマルケン島の衣装の女性を描いた《潮風》である。  「古渡」とあるのは、昔の、狭義では、室町時代以前に外国からわたってきた織物や陶磁器を指

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(中)

 さて、『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像の裏に解説文が印刷されている。  今回は、前半の3枚の絵を紹介することにしよう。  原文は総ルビ、すなわち、すべての漢字にふりかながうってあるが、引用に際しては適宜取捨した。 1 アルサスの女  まず、画像をみていただこう。  印刷は三色版であるが、三色版については稿を改めて説明することとしたい。  貼り込みといって、図版は別に印刷されたものが、厚手の凹凸のあるモスグリーンの紙に貼り付けられている。  グラ

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(上)

1 太田三郎の渡欧  太田三郎は、第7回文展に出品した《カツフエの女》で受賞した後、欧州にわたることを模索していた。しかし、実際渡欧したのは、大正9年(1920)から同11年(1922)にかけてであった。渡欧が遅れたのは、第一次世界大戦(1914−1918)のためであった。  父不在の時に生まれた3男は、父の渡欧の船の旅にちなんで浪三と名付けられた。  美術界をとりあげた『藝天』という雑誌があって、1928年12月号に「昭和美術名鑑―百家選第十七―太田三郞氏」という記

太田三郎の絵葉書 《すみれ》

 この記事は、下の過去記事の補足である。  《すみれ》という絵葉書の題はかりにつけたものである。  過去記事で取り上げた絵葉書の未使用のものを入手できた。  たいへん美しい。多少、スレがあるが保存の状態がよい。  未使用のものの図版を見ていただこう。  比較のために、過去記事の図版を再掲する。ただし、表と裏をならべた図版にした。  ハートや、スミレの輪郭の金色が、過去記事のものよりも、あせていないし、また、スミレの藍色も鮮明である。 金銀刷りについては下記の記事を参照さ

太田三郎の絵葉書 《羽子板を持つ少女》

1 おそらく雑誌付録の絵葉書  《羽子板を持つ少女》は、かりの題である。  右にミシン目が見られるので、雑誌の付録を切り取って使ったものと思われる。   右下に「1908」とあるので、明治41年の新年号の付録であろう。雑誌名は特定できていない。  宛名面の仕切り線は、下3分の1の位置にあるので、明治40年12月発行の新年号の付録と考えることができるだろう。  前景に松葉、うしろに羽子板を持つ、正月の装いの少女が描かれている。  石版印刷で6色か7色。転写紙を用いている

竹久夢二と太田三郎:生方敏郎『挿画談』を読む

 このタイトルで、今の知名度を考慮すると、竹久夢二はほとんどの人が認知できるが、太田三郎はほとんどの人が知らないのではないかと思う。  しかし、1910年前後では、このふたりは印刷された絵画の領域で活躍していた。  わたしは、このふたりがならべて言及されている事例を探していた。 竹久夢二、太田三郎は併称されるか ブログ《神保町系オタオタ日記》の「竹久夢二や妖怪を愛した廣瀬南雄の『民間信仰の話』(法蔵館)——大阪古書会館で出口神暁の鬼洞文庫旧蔵書を発見——」とい

太田晶二郎のエッセイ「「鶉籠」描法」

太田三郎の次男太田晶二郎について  妻はまの追悼本『厨屑』(1955年7月31日)で、大田三郎は3人の息子について記していて、次男の晶二郎が歴史学者であることを知った。吉川弘文館から『太田晶二郎著作集』全5冊が刊行されていて、年譜を国会図書館の遠隔資料請求で取り寄せて、わからなかったことがいくつか判明した。  下記ブログ記事にそのことは整理してある。  繰り返しをおそれず、要点をまとめておこう。 太田晶二郎(1913ー1987)は日本漢籍史に詳しい歴史学者で、京城帝国大

絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)

はじめに 今回は絵葉書作者としての太田三郎を取り上げる。  1万3千字を超えて少し長尺になったが、分割せずに一括で公開する。  わたしは絵葉書を幅広く蒐集しているわけではないので、太田の絵葉書の全容を明らかにする力はないが、なるべくオリジナルの図版を用いてその魅力を伝えたいと考えている。また、絵葉書流行の文化史的背景も視野に含めながら書き綴った。  ご一読くださればありがたい。 1 絵葉書作者としての太田三郎絵葉書の応募がきっかけ  美術雑誌『藝天』の1928年12月号に

画文の人、太田三郎(6) ファンの声

 もともと、この連載は、ゆるゆるで調べていくプロセスも含めて書いていこうとしていたのだが、調査が進むと、もう少し深めてみようという欲が出てきて、掲載が遅れがちになる。  現在、絵葉書を扱う回はほぼ構想が固まっているが、太田のオリジナル絵葉書が1枚しかないので、もう少し集めたいという気持が出ている。  複製使用の許諾を得たところもあり、絵葉書の図版は複数あげることができるのだが、オリジナルを紹介したいという思いがある。  雜誌『ハガキ文学』の回も調べは進んでいるが、これも完全を

画文の人、太田三郎(5) 日本画について

 今回は、太田の日本画を集成した『沙夢楼画集』を取り上げる。太田は、洋画とともに、なぜ日本画を学んだのだろう。書き進めるうちに一つの答えが浮かび上がってきた。  わたしには、洋画は展覧会で見る絵というイメージがあるが、日本画のイメージはどういうものだろう。ある時期まで、日本の家庭には掛け物の1本や2本あるのが普通だった。掛け軸、襖絵、扁額、屏風など、日本美術は生活空間に密接に関連していた。太田は日本美術の実用性と装飾性を認めていた。そのことが絵葉書やスケッチ画での活躍につなが