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画文の人、太田三郎

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このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
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#文学と美術

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の3・最終回)

 今回が最終回である。  太田三郎の『欧洲婦人風俗』は、太田が渡欧した際に見聞した女性の衣装について、6枚の三色版による図版と、解説文によって示した小冊子である。  版元の婦女界社は、『婦女界』という女性雑誌を発行していた。雑誌『婦女界』の何らかの懸賞当選を記念する冊子であった可能性が高い。 1 カンパニアの野で  6枚目の絵の題は《ローマの夕》である。  解説文は次のように、まず、ローマのカンパニアの野について記している。  「鴎外さんの「即興詩人」」とあるが、

太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(下の2)

『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像のページの裏に解説文が印刷されている。  今回は、5枚目の作品を紹介したい。 1 ギリシヤの余薫  さて、5枚目は《ギリシヤの余薫》という作である。  解説文は次のように始まる。  ドーデーはフランスの作家アルフォンス・ドーデー(1840−1897)のこと。「アルルの女」は、短編小説集『風車小屋だより』に収録されていたが、1872年に劇化されてパリのボードビル座で上演された。ビゼーが音楽を付け、ファランドールやメ

《新古小説十二題(二)》田山花袋『蒲団』:画文の人、太田三郎(11)

1 芳子の帰郷  『ハガキ文学』第4巻第2号(明治41年2月1日)の口絵木版、《新古小説十二題》の2回目は、田山花袋の『蒲団』を取り上げている。  『蒲団』は、雑誌『新小説』の明治40年9月号に発表された。太田はこれを読んで、《新古小説十二題》に取りあげたものと推測される。  中年にさしかかり人生に迷いを感じ始めている竹中時雄という小説家が『蒲団』の主人公であるが、文学を学びたいという希望を持つ横山芳子という若い女性を下宿させることから、単調な生活に波乱が起きることにな

太田三郎の絵葉書 《もも草の》

 太田三郎の絵葉書を紹介しよう。   1 雑誌『文章世界』の付録  宛名面の切手部分の表記で博文館の雑誌『文章世界』の付録であったことがわかる。『文章世界』は博文館発行の文芸投稿雑誌。明治39年3月創刊、大正9年12月まで、臨時増刊を含め全204冊を発行した。  太田は『ハガキ文学』で活躍した。『ハガキ文学』の発行元、日本葉書会は博文館の系列であり、その縁で太田は、博文館発行の『文章世界』や『女学世界』の付録絵葉書の絵を描いている。  付録絵葉書は雑誌巻頭に挟み込まれ、ミ

《新古小説十二題(一)》森林太郎訳『即興詩人』:画文の人、太田三郎(10)

1 《俗謡十二題》と《新古小説十二題》  太田三郎は、文学と美術を交流させる試みを、雑誌『ハガキ文学』の木版口絵の2つのシリーズ連載で実践している。  1つは《俗謡十二題》といい、小唄・端唄など歌謡の一節に絵をつけたものである。歌謡の一節は、欄外に活字で示されることもあれば、絵の中に組み込まれていることもある。  第4巻第1号(明治40年1月1日)から、第4巻第13号(明治40年12月1日)まで12回連載された。ただし、第4巻第6号(明治40年5月15日)の増刊『静想熱語

絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)

はじめに 今回は絵葉書作者としての太田三郎を取り上げる。  1万3千字を超えて少し長尺になったが、分割せずに一括で公開する。  わたしは絵葉書を幅広く蒐集しているわけではないので、太田の絵葉書の全容を明らかにする力はないが、なるべくオリジナルの図版を用いてその魅力を伝えたいと考えている。また、絵葉書流行の文化史的背景も視野に含めながら書き綴った。  ご一読くださればありがたい。 1 絵葉書作者としての太田三郎絵葉書の応募がきっかけ  美術雑誌『藝天』の1928年12月号に

雑誌『ハガキ文学』における活動 画文の人、太田三郎 (8)

太田三郎と絵葉書 さて、太田三郎と絵葉書の関係を考えるとき二つのアプローチが可能である。  まず一つ目は、絵葉書ブームに随伴する形で、博文館が日本葉書会を組織して刊行した雑誌『ハガキ文学』における記者としての活動である。  二つ目は、絵葉書の制作者としての活動である。  今回は、雑誌『ハガキ文学』と太田の関わりについて記すことにしたい。 『ハガキ文学』と太田三郎『ハガキ文学』について  雑誌『ハガキ文学』は日本葉書会が発行元であるが、実質は当時の大手出版社博文館が運営して

絵と文を響かせる 画文の人、太田三郎(7)

 回を重ねてきたので、分かりやすいように、今回からサブタイトルを前に置くことにした。  今回は太田三郎の、絵と文章を組み合わせる画文共鳴の試みについて紹介してみよう。  前回と同じく、太田三郎の熱烈なファンの寄稿の引用から始めることにしたい。 若き画家への賞賛 『ハガキ文学』第4巻第8号(明治40年7月1日、日本葉書会)の読者投稿欄「如是録」に日本橋住みの江原蘆村の「若き画家(大田三郎氏)」という熱烈な調子のファンレターが掲載されている。  蘆村という雅号を使っているが、

画文の人、太田三郎(6) ファンの声

 もともと、この連載は、ゆるゆるで調べていくプロセスも含めて書いていこうとしていたのだが、調査が進むと、もう少し深めてみようという欲が出てきて、掲載が遅れがちになる。  現在、絵葉書を扱う回はほぼ構想が固まっているが、太田のオリジナル絵葉書が1枚しかないので、もう少し集めたいという気持が出ている。  複製使用の許諾を得たところもあり、絵葉書の図版は複数あげることができるのだが、オリジナルを紹介したいという思いがある。  雜誌『ハガキ文学』の回も調べは進んでいるが、これも完全を

画文の人、太田三郎(4) 洋画について

 わたしが、太田三郎の画業の中で一番評価したいのは、スケッチ画や木版画、そして物語・詩歌と絵を組み合わせた試みである。  それらは、〈版の表現〉、すなわちさまざまな手法による印刷によって表現された〈本の絵〉であり、複製技術によるものだ。  しかし、太田の画家としての活動の幅は広い。洋画や創作版画、それに日本画も制作している。わたしは美術史に詳しいわけではないが、避けて通れないので、太田の画業について、見渡しておきたい。まず洋画から見ていこう。 『日本美術年鑑』から  いつも

画文の人、太田三郎(3) コマ絵のサイン

 申し込んだ資料がまだ届かないので、待っているうちに小さな話題を取り上げよう。コマ絵(活版印刷の紙誌面の空白を埋める本文と関わりのない絵)やスケッチ画、絵葉書には描き手のサインが入ることが多い。  今回は太田のサインの意味について考えたい。ブログ(《表現急行》)に思いつきを記したのだが、それを補足してここに掲げたい。ブログの元記事(「太田三郎のサイン」)は非表示にした。 太田の鳥マーク 太田三郎のサインは鳥の形をしていて見分けやすい。見つけると「あっ、太田の鳥マークだ」とい

画文の人、太田三郎(2) 白馬会洋画研究所

『日本美術年鑑』から 今回から東京文化財研究所のサイトに掲載されている『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)の記述を紹介引用しながら太田三郎の生涯をたどってみたい。この年鑑にはその前年、1969年に亡くなった画家についての記事が掲載されている。太田は1969年5月1日、心不全で亡くなった。84歳であった。  青物問屋の子として生まれたが、父が風雅を好み、そのために家が傾いたこと、太田が日本画と洋画の両方を学んだ画家であったことがわかる。洋画については黒田清輝に教えを受

画文の人、太田三郎(1) 鴫沢宮の顔のかげ

「画文の人」とは 「画文の人」というのは、画家でありながら文章をよくする人のことを指している。太田三郎(1884ー1969)はコマ絵、スケッチ画、挿絵など印刷された絵画はもとより、日本画、油彩画、版画でも活躍した画家であるが、知る人は少ないだろう。今なら、同姓同名で切手をモチーフにした表現を展開している現代美術作家の方を思い浮かべる人もいるかもしれない。  私は太田三郎を研究しているわけではないが、コマ絵、スケッチ画の丸い独特の線描が好きで古書を見かけたら購入するようにしてき