マガジンのカバー画像

画文の人、太田三郎

33
このマガジンで取り上げるのは、明治大正期にスケッチ画や絵物語で活躍した太田三郎という画家である。洋画家として名をなしたが、わたしが関心があるのは、スケッチ画の画集や、絵葉書、伝承…
運営しているクリエイター

#スケッチ

竹久夢二と太田三郎:生方敏郎『挿画談』を読む

 このタイトルで、今の知名度を考慮すると、竹久夢二はほとんどの人が認知できるが、太田三郎はほとんどの人が知らないのではないかと思う。  しかし、1910年前後では、このふたりは印刷された絵画の領域で活躍していた。  わたしは、このふたりがならべて言及されている事例を探していた。 竹久夢二、太田三郎は併称されるか ブログ《神保町系オタオタ日記》の「竹久夢二や妖怪を愛した廣瀬南雄の『民間信仰の話』(法蔵館)——大阪古書会館で出口神暁の鬼洞文庫旧蔵書を発見——」とい

画文の人、太田三郎(3) コマ絵のサイン

 申し込んだ資料がまだ届かないので、待っているうちに小さな話題を取り上げよう。コマ絵(活版印刷の紙誌面の空白を埋める本文と関わりのない絵)やスケッチ画、絵葉書には描き手のサインが入ることが多い。  今回は太田のサインの意味について考えたい。ブログ(《表現急行》)に思いつきを記したのだが、それを補足してここに掲げたい。ブログの元記事(「太田三郎のサイン」)は非表示にした。 太田の鳥マーク 太田三郎のサインは鳥の形をしていて見分けやすい。見つけると「あっ、太田の鳥マークだ」とい

画文の人、太田三郎(2) 白馬会洋画研究所

『日本美術年鑑』から 今回から東京文化財研究所のサイトに掲載されている『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)の記述を紹介引用しながら太田三郎の生涯をたどってみたい。この年鑑にはその前年、1969年に亡くなった画家についての記事が掲載されている。太田は1969年5月1日、心不全で亡くなった。84歳であった。  青物問屋の子として生まれたが、父が風雅を好み、そのために家が傾いたこと、太田が日本画と洋画の両方を学んだ画家であったことがわかる。洋画については黒田清輝に教えを受

画文の人、太田三郎(1) 鴫沢宮の顔のかげ

「画文の人」とは 「画文の人」というのは、画家でありながら文章をよくする人のことを指している。太田三郎(1884ー1969)はコマ絵、スケッチ画、挿絵など印刷された絵画はもとより、日本画、油彩画、版画でも活躍した画家であるが、知る人は少ないだろう。今なら、同姓同名で切手をモチーフにした表現を展開している現代美術作家の方を思い浮かべる人もいるかもしれない。  私は太田三郎を研究しているわけではないが、コマ絵、スケッチ画の丸い独特の線描が好きで古書を見かけたら購入するようにしてき