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大事にしている物

物に執着のない自分が、唯一大事にしている物がある。
20歳の記念に両親からプレゼントされた自動巻きの腕時計だ。

当時、自分が持っている物の中で一番高価で、箱からだすことさえためらっていた。
ピカピカのシルバーのボディーに、かすり傷ひとつつけたくなくて、身につけ始めた当初は腕時計のまわりにタオルをぐるぐる巻きにしていたものだ。

21歳の2月の夜中。
好きなラジオ番組がおわって眠りについたころ、家の外がさわがしく感じ目を覚ました。
窓の外がオレンジ色に光りまぶしかった。
おもむろに窓をあけると、熱風と焦げ臭いにおいを感じ、男性が大声で叫びながら通りを走っているのが見えた。

ーーー避難してください!

たしかそう言っていたと思う。
火事になったのは2軒隣の家で、住人は避難して無事だった。
消防車3台が出動し消火にあたっていたが、無情にもその家のガレージに置いてあった紺色のBMWに火は燃え移った。

向かいのおじさんが、庭のホースをめいっぱい伸ばし放水していた。
近所の人は車を動かしたり、空から降る火の粉が屋根を焼かないよう水をかけていた。
隣の喫茶店のマスターは車を動かしおわった後、道路にたちつくして、どこか諦めたような微笑みで現場を眺めていた。
私は犬を抱えて、マスターの横にならんだ。

鎮火したのは午前4時頃。
車が爆発することはなかったが、家も庭もすべて跡形もなく燃えていた。
謎の高揚感と緊張感で、不思議と疲れは感じなかった。

屋外の道路で見守っていたせいか、全身焦げ臭いにおいに包まれていた。
一睡もできそうになかったので、ひとまずお風呂にはいることにした。
洗面所にむかうと、ちゃんちゃんこのポケットから財布と携帯と鍵がでてきた。

左腕には自動巻きの腕時計。
まったくと言っていいほど、手にとった記憶がなかった。

大事な物って、無意識に大事にできるものなんだと痛感した。


物に執着も愛着ももたない自分が、唯一大事にしている物の話。

大事な物が少しずつ増えていくといいな。

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