世代の群れの中に消える覚悟

「世代」という言葉があり、ある時期に生まれた人たちの群れを十把一絡げにして捉える向きがある。思いつく限り我が国の「なんとか世代」を挙げてみたいと思う。
戦中派(戦時中に育った人たち)、団塊の世代(第一次ベビーブーム)、新人類世代、バブル世代、団塊ジュニア世代、氷河期世代、ゆとり世代、Z世代、アルファ世代。
ちなみに書き手はゆとり世代に属する。私の世代の親はおおむね新人類からバブル世代の間くらいに該当する。
私が思うに、この世代の塊はそれぞれ特徴があるものの、ある場所でとある特徴によって線が引けるように思う。その分ける基準は「一人一人が世代の一員としての自覚を持つか否か」で、たぶん線が弾けるのはバブル〜団塊ジュニア〜氷河期の間あたり。これには異論もあるかもしれない。人によっては団塊ジュニア世代、氷河期世代でも明確に同世代との連帯意識を持っている場合もあるだろう。バブル世代はおよそ60年代生まれの人たちで、団塊ジュニアの人たちは70年代生まれである。氷河期といえば70年代後半ごろからだろうか。氷河期は就職難によって大きく人生が左右されてしまった世代なので、その人が高卒か短大卒か大卒か院卒かによって該当するか否かが変わってくるので、団塊ジュニア生まれなのに長いこと学生をしていために氷河期に引っかかったよという方もあるだろう。
ここまで読んで、60年代生まれくらいの方に言わせれば「俺(私)は多分バブル世代だと思うんだけど、全然バブル世代だってことを日常で意識しないけどな?君はゆとり世代ってことだけど、君が世代感覚を特に持たずに生活しているのと同じでは」と言われるかもしれない。たしかに私は想像で語っているところがある。だが、少しこれから論を聞いて欲しい。
バブル世代あたりまでは、日本の経済凋落が始まっていないバブル崩壊以前に社会に出て、そして経済凋落がいよいよ本格化してきた今頃になって定年退職を迎えられそうだ。これまでの人生で大きく不況の影響を受けていないと言えるのだ。幼い日々には高度経済成長の恩恵に浴し、確実に今日は昨日より良くなる、明日は今日より良くなるという感覚で生きてきたであろう。
他方団塊ジュニア以降は、バブル崩壊後の経済凋落が始まってから社会に出た。たとえば1975年生まれの人は、大卒なら1998年に就職だ。このとき我が国では自殺者の急増があった。国際的にはアジア通貨危機が発生し、国内的には消費増税が(3→5%)断行され、バブルの残り汁を吸っていた企業がついに力尽きて大量倒産があったのと明らかに連関がある。この年から日本経済はマイナス成長に転じた。
団塊ジュニア以降は日本の経済が悪くなる一途を辿る中で社会人となっている。この状況は「俺たち大変だよね」という世代感覚の強化に繋がるのではないかと普通に考えれば直感されるのだが、実態としてはそうならなかった。
ほぼ同時期に新自由主義政策に舵を切ったからである。2001年に小泉内閣が成立し、小泉・竹中路線で新自由主義色の強い改革を断行した。これにより、「持てる者・持たざる者」の格差が拡大し、同じ世代に属していても不況はどこ吹く風で高収入を得る少しの人たちと、辛酸を舐める非正規低収入の多くの人たち、また、おそらくその中間で「ほどほど」を生きていて危機感を覚えないそれなりの人たちに分裂した。この区分はもちろんそれ以前の世代にもあったのだが、新自由主義政策は経済格差を烈しくし、この三者に強固な壁を築き上げた。
その状況が、漫然とそれ以後続いていると思われる。世代感覚がないというより、分断により「団結」できなくなっているのだ。
氷河期の人たちは「自分は氷河期世代」という自己意識を強く持つかもしれないが、自分の惨めさを曝け出すことに躊躇があったり、自信をなくしていたりして団結するまでに至っていない。この点、団塊の世代の人たちの学生運動での団結はすごかったと思う。戦中派の人たちの安保闘争もすごかった。彼らにはエネルギーがあった。
しかし団塊ジュニア世代以降の生活が苦しい人たちは、これではよくないと思っていても、行動に移すエネルギーを奪われている。団結までに至る元気がない。それは私が属するゆとり世代でもそうだと思う。ゆとり世代といっても広義のゆとりは氷河期世代にも引っかかるのだが、私は狭い意味でのゆとり、1990年生まれ前後を念頭に置いて言っている。私の友人たちの中にはそこまでの貧困者はいないものの、賃金の割に激務という状況にあり、政治のことなんて考える余裕もないという。体を壊しながら仕事をこなすためにゾンビのように生きている子がいる。生きるために仕事をするのか仕事をするために生きるのか。何のために生きているのか。
世代感覚がないというのは、その世代であることに自信が持てないということでもある。氷河期世代、ゆとり世代、これはあまりいい意味の言葉ではない。自分たちが政策決定に携わっていないのに、勝手にそういう名前をつけられた世代である。しかも、人生の間長いこと不況で、氷河期世代は大人になってから、ゆとり世代は子どもの頃から、日本は経済的に浮揚したことがない。
私たちは団結をしない。団結するためのエネルギーを奪われている。分断が進んで、同じ世代の中にも少しのすごく成功している人と、それ以外、しかもそれ以外の中にも「ほどほどなんとかやれている」人と「しんどい」人がいる。
発達障害界隈で「バリ」「ギリ」「ムリ」の分断と対立が話題になることがあるが、団塊ジュニア以降も経済的に「バリ」「ギリ」「ムリ」に分かれ、それぞれ全く異なる生活圏を持ち、互いに混ざり合うことがない。
結果、「俺(私)さえなんとか生きていければ、それでいいか」となって個人化が進む。
たぶん、我々は群れであることを拒みさえする。
私は最近気がついたのだが、自己実現欲求を満たすために努力するところまでいかなければ、人はいつまでも「それでも俺(私)はひとかどの者になりたい」という幻想を捨てられない。何歳になっても「なろう小説」の異世界転生ものを読んで、主人公になり切って「俺TUEEEE!」して悦に入る。まぁ、これは極端な事例だが。
世代の一員、群れの一員になることは「モブ」になることだ。満たされないでいると、モブになることを拒むことにつながる。幼児的万能感を手放せずに「たった一人の私、オンリーワンの私、自分らしくありたい」にこだわって団結を拒むのではないか。
多分現在四十代以下の世代は、ふんわりとこういうメンタリティの人が多い。まだ若いのでなんとかなる余地は残しているがZ世代の若者にも顕著だと感じている。配信者になって有名になりたいという若者が多い。私がやっているとあるアプリゲーム内でもゲーム内で有名になりたい「ワナビ」をとても多く見かける。お金を儲けられるわけでもないそんな小さなアプリの中で人気者になってもリアルが充実しなければ最終的には多分虚しいのに、彼ら彼女らは「モブ」であることを拒み、「すとぷり」とか「wrwrd」とやらに憧れる。みんながみんなそれになれるわけではないのだ。
モブに安住するためには、どうしたらいいのだろうか。
私もこんな文章を書いて、誰か読んでくれたらいいな。あわよくば文章で少しはお金が稼げたらいいなとか考えているので、まだモブであることを拒んでいるのかもしれない。
モブに安住できたとき、私たちは団結できるようになる。そしていま蔓延っているいろいろな不正義に、群れとなって初めて対抗できる力を持ちうるのではないか。
私も群れの一員になる、モブになる覚悟を持ちたい。そう宣言し、今日は筆を措こう。

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