稼げなければ意味がないのか?

文章で稼ぐことが難しい時代だ。
おそらくごく一握りの人間は今でも文筆業だけで食べていけるが、多くの人は小遣い稼ぎ程度くらいしか稼ぐことはできないだろう。
それは、世の中が反知性主義化しているからだ。私は以前の記事にもそれを書いたのだが、資本主義……いやもっと限定的に言えば、新自由主義と反知性主義の相性は抜群。
人々は次々に新しく登場する新しい商品を買い求めることで頭がいっぱいになり、乗り遅れてはならないという根拠なき焦燥感に晒されている。自覚がない人は、本当に自覚がないのかあるいは、運良く環境に恵まれて余裕のある生活をしているのだと思う。だが全体的な人間社会を雑駁に観察すれば、21世紀に突入してから我々は焦燥の時代を生きていると思う。

それで、このような情勢にあって、文章をゆっくり読むという時間が取れる人はどれだけいるのだろう。
学生時代は読書するのに最もうってつけの時代だが、勉学だけに貴重な人生の夏休みを投じる人はあまりいないだろう。私は勉強に集中するべきだったと思うが、学生時代に精神疾患に罹患したのもあって結果的に多くの寄り道をした。しかしそれはそれはそれで、結果論になるが人格形成にはよかった思う。
学費が高い、家賃が高い、両親が裕福ではないということでバイト漬けの生活をしている学生は少なくない。奨学金を受けている学生はおよそ半数に上るそうだが、彼らは学生時代は奨学金で生活費を賄い、あくせく働くことなくて良いかもしれないが、卒業後には借金を抱えて社会に出ることになる。結局読書に費やせる時間を失うのだ。
こうした学生たちの苦境は、親世代の賃金が低価に抑えられていることからくる新自由主義の産物である。
読書をすることを重要視しない反知性主義が蔓延る。読者をすることを許されないほど、生活費を稼ぐのに人々は忙しい。
要するに、読書は贅沢品になった。
こういう状況なので、こんにち、文筆業で大してお金を稼ぐことができなくなっているのは当然の帰結といえる。
私は、私に絶大な負の影響を与えてきた祖母が残念な思考の持ち主なので、「稼げなければなにをやっても無意味である」と感じてしまう傾向がある。たとえば、私がなにか小説を書いていたとしても、祖母は「お金にならなければ意味がない」ということを言う。私もその価値観を内面化しているので、自分の文章を収益化する努力をしていないことに焦燥感を覚えてしまう習性を持つ。
しかし、改めて問うが、本当に稼げなければ意味がないというのだろうか?
確かに、いわゆるコスパやらタイパやらを考えた時、たとえば一時間で3000字くらいは書くことができるが、とくに収益化しない、あるいは収益を得ようとしても誰も私の文章にお金を投じなければ、それで得られるお金はゼロだ。反面、ちょっとしたアルバイトでもすれば、最低賃金でも1000円前後得ることはできる(最賃が安すぎる、などと文句を言うのはまた今度にしておく)。
文章を書いた精神的達成感と、ただ精神的に疲労しただけで得られる1000円。アルバイトといっても、私が想定するのは過去にやったことがある塾講師や家庭教師だが、あれなら時給2000円ほどはもらうことが可能だ。しかし毒親一歩手前の親と子の間に挟まれる苦しさ、ろくなことをしないのに給与の半分を中抜きされる斡旋業者への苛立ちなどを考えたら、正直安い。
それならお金は得られないけど、ストレスフリーで字を書いている方が私にはまだマシだ。
もちろんあわよくば収益化して、少しだけでもお金を得られるなんてことがあったらいいなとは夢想している。好きなことで稼げるようになることは人間の夢だろう。
しかし実力が不足していると思うので、いまはこうして地道に文章を書いて、無償で開陳し続けることにする。今日も大したコンテンツを生み出せなかったが、とにかく書くことに意味があると信じる。
文章を書いて稼ぐこと、それは多くの社会不適合者の夢。私が思うに、社会不適合になったのは我々一人一人に全責任があることではない。そんは狭隘な社会を作った政治、それを野放しにしてきた民衆の責任である。そう思うからには、民衆の一人として、しっかりと投票権を行使し続けよう。それが今のところ、私の手に握られた唯一の抵抗手段だ。
私は筆を執って不条理に抗っていく。この人生にも、世界にも。

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