生まれつきのものに従って生きる
私が最初に物語を書いたのは、学校で強制されたのが最初だ。小学二年の時、国語の教科書になにかそういうコーナーがあって、担任の策謀によって、クラスの一同が物語を書く羽目になった。
なぜ策謀という変な書き方をしたかというと、七、八歳の子どもの発達は千差万別で、物語を書くということがまったく難しい子もいるというのに、それを強制されるとつらい子もいただろうな、と思うからだ。私はなぜかそういうことが生まれつき得意だったらしいが、大人になってから家庭教師などした経験から、創造するということがてんで苦手な子も多いということに気がついた。
さて私自身の話に戻る。
あまり記憶にないのだが、教科書に載っていた物語は、ワニのキャラクターが主人公だったと思う。なぜなら私の物語の主人公も「わにことわにお」という鰐の兄妹だったからだ。私は鰐が別に好きではないので、好き嫌いがはっきり分かれている私が鰐の兄妹を主人公にするわけがない。選べるならばうさぎにしただろう。担任教師は多分、鰐を主人公とした教科書の物語の続きを書け、とかスピンオフのようなものを書けといった無理難題を児童たちに要求したのだ。
私は当時、自分を取り巻く世界に懼れを抱いていた。それは記憶の残る限り、保育園時代からそうした傾向があった。具体的になにを恐れていたというのではなく、自分が存在することそのものに恐怖を抱いていたと思う。あえて名付けるとしたら、実存的不安とかそういうものだ。
私は脳に問題があるという不幸な生まれつきをしたらしく、不安感が非常に高い子どもだった。二本足でなににも掴まらずに歩けるようになったのも一歳半を過ぎた頃で、祖母には先天性の障がいを疑われていた。共働きの両親を持つ私は祖母に育てられたようなものだ。祖母は私に呪いをかけていた。「お前は何もできない」という呪いだ。彼女のエクスキューズとしては、「お前が何かに挑戦してつまづいてひどく落ち込んだら可哀想だから」とのことであるが、挑戦する前から「お前には無理だ」というメッセージを放ってくるのは害悪でしかなかった。
そのため、とても自己肯定感の低い人間に育ってしまった。
私は自分で言うと不遜なようだが勉強ができ、絵が描け、字が綺麗に書け、歌も上手かった(運動だけはダメだ。そして、うまく出来ることとて、田舎の公立小中学校内でトップクラスという程度。全国的には大したレベルではない)。それも、努力しなくてそれらを手に入れていた。それにも関わらず自己肯定感が著しく低く、抑うつ気味だった。
「わにことわにお」の件で分かったことは、私は文章能力にも(普通よりは。ここ重要)長けているということだった。
私の物語は小二にしては技巧的な挿絵も相俟ってだろうが、提出後良作と担任に判断されたらしく、階段の踊り場に飾られていた。小二で勉学の優劣をつけられることは普通はないので、誰の能力が光っているかということは、私の小学校ではこういうことで判断された。
授業参観などあると、そこに飾られている子は優秀なのだろうと保護者たちが推察し、噂のマトとなるのだ。私は、「長月という子どもは体も小さくおとなしく、なにも話さないが、実はものすごく優秀らしい」と言われていた(らしい)。
ちなみに私は小学校入学後まもなく場面緘黙症を患ったために、学校では文字通り「うんともすんとも」言えなかった。そんな私に芸術表現をさせると文でも絵でも歌でも人よりなにか優れたところがあるので、余計に注目されたのである。
ここに私の不幸がある。
自己肯定感が低いのにどうやら能力は高いらしい。
そのうち私は、自分はペテン師の類だと信じるようになった。
ほとんど努力せずして教師やクラスメイトから褒められる、一目置かれる出来のものを作ることがある。まぐれではなく何度もそういうことがある。
私は人を騙しているのではないか。できない人間であるはずなのに、人は私をできると評価する。
これもまた世界に恐怖心を抱く原因の一つとなった。
こうして自己開示することに何か意味があるのだろうか。
わからない。
だが、私が創作者として生きる上で大切なことの一つであると思うから書き留めておく。
今回記した「わにことわにお」の一件は私にとって重要である。私が生まれつき適性があることの一つは、物語を創造することだという自信を与えてくれるエピソードだからだ。
私は教育心理学を独学したのと、自分の経験則で、人間が長じるにつれて専門が狭くなっていくことは当然のことと思う。
小学生から高校生の前半くらいにかけて、文理関係なくさまざまなことを勉強する。体育もある。しかし、高校の後半くらいから文理が分かれ、大学からはさらに専門が分化し、研究室に配属されるとものすごく狭いことをやるようになる。
高度なものになればなるほど、命をかけなければ学ぶことができない。三十歳ころになると、適性のないものを無理してやっていると心身ともに病む。とりわけ、悲しいかな肉体の経年劣化のために体の方を病むリスクが高まるのでやめた方が良い。
私は、生まれつき神が私に与えてくれたものに従って生きることにした。ものを書くということである。
人に比べて読みやすい文章ではないかもしれない。面白くないかも知れない。芸術性も低いかも知れない。もしかしたら人は、私の文章を読んでお粗末だと嗤うかもしれない。
しかし私の中で較べたときに、他よりもできそうだと思うことがこのくらいしかない。
だから筆を執ろうと決意した。
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