コンテンツがないからと言って書くのは休むな。

三日坊主というのは、人間にはありがちなことだ。かくいう私も、noteのアカウントを開設してからというもの、三日坊主になりつつあった。毎日のように記事を書くことは無理だと気がついて、じゃあ三日に一回くらいでいいかと思っていたら、気が付けば一週間が空いたりなどしている。
三日坊主、というのは比喩であり、文字通り三日で頓挫しなければ三日坊主と言えないのではない。とにかく続けようと思ったことが早晩に頓挫することを押し並べて三日坊主と称する。
なぜ三日坊主に陥るのかを考えてみれば、なにか人の「ためになる」記事とか、自分で書いていて「達成感のある」記事が思いつかない時は手を動かそうと思わないという悪癖が私にはあるようだ。
しかし、そのようなインパクトの高いコンテンツを生み出し続けるのは常人には至難の業である。可能なのは給与を得て何かを読んだり調査することを生業としている学者やジャーナリストでもベテランくらいのものではないだろうか。私のような根気強くない凡人には無理なことだ。
だからと言って、何も書かないわけにもゆくまい。以前の記事にも書いたが、人生は短い。私の存在意義は物すことによってのみ証明可能だ。そのくらい、私には何かを書くという営みしか残されていない。
したがって本記事は、書くことを目的に書くというメタ的な文書である。更新するためだけに書くと言っても良い。たぶん、つまらない。

私は正直でありたいと思うので、誰かから伝聞系で聞いた話はそのように断りを入れる。とある夏目漱石に詳しい知人から聞いたことであるが、漱石は週刊連載が「しんどい」と書いていたことがあるらしい。伝聞形なのでソースは不明。また、ソース元の人の間違い乃至私の記憶違いで真実と異なることを私が書いていたら申し訳ないということもある。つまるところ保身である。
彼は躁鬱のきらい(あるいは統合失調症と言われることもあるようだ)があったようだ。だから書くのがしんどいと彼ほどのプロ作家が溢したのもわかる。私も躁鬱の気味があるためよく分かるのだが、ものを書くことを生業とするような文の上手い人であっても、鬱の気分がひどい時に義務的になにかを書くのは相当気力をすり減らすことなのだ。
彼は貧乏だったので家族を養っていくために筆を執らなければならなかったという事情がある。いっぽう私は、別にいま執筆で生計を立てるわけではないから逼迫した義務的事情はない。それでも、書くことを強いられているのである。
それは他ならない、自らの思う、自らの存在意義のためにである。

躁鬱という状態は尋常ではない苦しみを本人にもたらす。躁の時は元気だからいいじゃないかとよくわからない人には思われるのかもしれないが、あのとき自分の脳をドライブしているのは自分自身ではなく、なにか自己制御不能な神経伝達物質の動きである。鬱の時も同じ制御不能の、また別の神経伝達物質のおかしな動きによって、体と精神の動きを封じられることになる。
躁なるときも鬱なるときも、躁鬱者は決して自らの心身を自らの手でドライブしているとは言えない。常に夢か現かわからないところを生きているような状態といえる。
文章を書いて生活している人の中には、躁鬱者が多分、比較的多いと思われる。そして収入は決して多くない。物すだけで生きていける人など、村上春樹氏など一部のベストセラー作家くらいのもので、多くの人は清貧、または副業を持っている。
ブラック企業が蔓延し、実質賃金が減り続け、働くことの喜びを見出すのが難しくなった昨今の日本。「なろう」や「カクヨム」等のアマチュアがいくらでも投稿できるプラットフォームも整備され、いつしか小説家「ワナビ」(小説家志望というのを俗語っぽくいうとこうなる)が増えているようだ。
私を含め、いわゆる社会的弱者にとっての最後の砦と思われる「物を書いて生きていく」スタイルは憧れなのかもしれないが、その実相は決してイメージされているように牧歌的なものではない。
そこにあるのは自分ではどうにもならない脳みそをいかに叱咤激励して文章を書くという作業に向かわしめるか、その絶え間ない闘争であるということ。これは泥臭く、辛酸を舐めるような苦しい戦いである。
つまるところ、どの道を征こうがこの世は修羅である。社会不適合に生まれた私なんかが思うに、私が選択できなかった普通に一般企業に就業する道の方が、まだしも従業員を蔑ろにする企業、パワハラ上司、頼りにならぬ同僚などに責を転嫁しうる分、まだ楽なのではないかとすら思われる。
こんなふうに生まれてきてしまったことのツケは、自らの手で払うしかないのだ。

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